今夜、見る夢は残陽に向かって歩く渚カヲルは、まるで夜から逃げているようだ、などと考えながら、隣で歩調を合わせる碇シンジを横目で盗み見た。
橙色に染まるシンジの横顔は、ふたりで帰る放課後のありふれた一場面。だのに、何度見ても居心地の悪さで胸が騒ぐ。
そんな気持ちをどうにか何処かにしまっておきたくて、カヲルは両手を制服スラックスのポケットに仕舞い込んだ。それから視線は自然と下を向く。
夕焼け色に色を変えたハイカットスニーカー。そのつま先が向くのは明るい方。けれども踵から伸びる影はもうすぐ夜に飲まれる。夜が、追いついてくる。
ヒグラシとカエルの鳴き声が、右から左から、反響するようにふたりの鼓膜を揺する。じと、と滲む汗のせいでシャツが身体に張り付く。
胸騒ぎ。カヲルはポケットの中の手を両手とも握り締め、ひとつ、夏の香りの空気を吸って、吐いた。
「……あのね、シンジ君」
脈絡もなく話し始めたカヲルの方へ、シンジがチラと視線をやった。
カヲルは視線を上げられない。なんとなく息苦しい。それなのに、言わなきゃいいのに、話し始めてしまったからには止めるわけにいかなかった。
「最近、毎晩同じ夢を見るんだ」
「ふぅん」
相槌だけでも耳触りの良いシンジの声。だが然程興味を示していない様子。
だったら都合が良いと、カヲルは何でもないことを話すように、少し声の調子を上げて続きを紡ぐ。
「同じ、と言っても全く同じなわけではなくてね、連続しているんだよ。前日の続きと思しき夢を、もう随分と長く見続けているんだ」
「へぇ、おもしろいね」
視線だけでなく顔も振り向けて、シンジの意識がカヲルに注ぐ。弾むような声色に誘われたカヲルの視線はシンジの口元へ。弧を描くそこが「どんな夢なの?」と続きを催促すると同時に、夜が来た。
連なる山々の向こうに残陽は落ち、空はもう燻るだけで、殆ど焼け落ちたように黒い。それはまるで、夢の淵へ沈んでゆく自らの意識を見ているようだとカヲルは思った。
一旦沈み、浮き上がる。抗うことはできない。
「僕は夢の中で、目を覚ますんだ」
——知らない天井、照明が眩しくて、息苦しい。耳鳴りがしているのかと思ったが、鳴っていたのは枕元の携帯端末。カヲルはその音で目を覚ましたようだった。
現実のカヲルからすれば、そこは知らない部屋。けれど、夢の中のカヲルにとっては間違いなく〝渚カヲル〟の自室であり、寝心地を知っているベッドの上。けたたましく鳴る端末の音が頭にガンガンと響いてこのまま寝ていられない。
身体を起こすと、ベッドのすぐ横に布団が敷かれているのが目に入った。そこには誰かが身を横たえている。
強烈な違和感を感じるが、大きな音を鳴らしている端末を到底放ってはおけない。それを手に取り、発信者を確認。画面には非通知の表示。
目にするや途端に滲む冷や汗が、やたらと現実味を帯びて首筋を伝い落ちた。
薄気味悪い。全てが異様な気さえするが、夢は醒めずに続いてゆく。
焦る手元で端末の通話ボタンを押す。はい、とカラカラの声で応答するけれど、相手は何も答えない。互いにただ黙って、けれど互いに、確かにそこにある双方の存在を感じていた——
「そんな場面だけを、もう何日も繰り返し夢に見ているんだよ」
「でも、カヲル君は『夢の続きを見る』って言ってたよね。今の話じゃ同じ夢の繰り返しでしょ?」
「いいや、確かに前日の続きなんだ。だって電話口の〝彼〟が場所を変えているから」
「彼?」
「うん……そう」
カヲルは簡潔に返事をして、そのまま一度口を噤んだ。
ずっと、話すにつれ足取りが重くなっていくのを感じていた。ひと足ごとに身体が沈んでいくような、精神的な息苦しさも感じている。
それでも話すのを止められない。それはまるで、あの夢が途切れず続いていることにも、現実が、終わることなく明日へと続いていくことにも似ていた。
〝自らの意思でやめることは許されない〟
そういう一種の強迫観念のような、追い立てられる気持ちでもってカヲルは夢の話を続けた。
「最初に夢に見た日は、ほら、あの湖のほとり」
「ああ……あそこ」
「彼はそこに立って、今日のような橙色の夕日を浴びていた。電話越しなのにそれがハッキリと脳裏に浮かぶんだ。まるで僕も隣で同じ夕日を見ているかのように」
それから昼間の教室、廊下。ふたりが暮らす、この町も。
頭の中に映し出される町の様子は、カヲルの知る景色と随分違っていた。電話口からはサイレンが聞こえてくることもあった。
長い長いエスカレーターを降りていく。長い長い廊下を進んでいく。白い壁。ロッカールーム。ゴウンゴウンと音を響かせ降下していくエレベーター。それから、巨人のようなモノ。
「そういうものを、まるで僕に見せて回るように、あちこちを巡って、少しずつ、毎晩少しずつ彼は、僕が目覚めるあの部屋に近付いてくる」
「……」
「そして昨晩とうとう、部屋の前まで来たんだよ、その電話の相手が」
「……」
「僕はね……分かっていたんだ、最初から。電話の相手はシンジ君だってこと」
小さな相槌だけが、カヲルの耳に届いた。
その方が気が楽だった。変に興味を持たれてしまっても、今話した以上のことは、カヲルにだって分からない。落ちの無い、曖昧な夢の話なのだから。
いつしか蝉の声はキリギリスやバッタの鳴く声に為り変わり、ぽつんぽつんと灯る街灯に夜行性の虫たちが集まっている。
辺りはもう、真っ暗闇。
カヲルは突然に心許なくなって、半歩、シンジの方へと近付いた。なんだか手でも繋いで欲しいような気分だ。
優しいシンジのことだ、きっと頼めば手を取って歩いてくれるだろう。けれどカヲルは今も両手をポケットの中で握り締めるだけで、ざわめく心を誤魔化す為に、態と明るい調子の声を出して隣を振り向いた。
「変な話をしてごめんね」
「ううん」
けれど返ってきたのは生返事。肩掛けの学生鞄の紐を握り締め、シンジは俯いたまま。
その横顔を見ているだけでもまた一層息が詰まる気がした。カヲルは不可解な感覚に溺れまいと息継ぎするように口を開いた。
「ねえ、シンジ君」
足を止める。
一歩、二歩、先へ進んでシンジの歩みも止まった。
呼び止めに振り向いたその顔には街灯の光で影が落ち、ぽっかり穴が空いたようになっていて、異様な程、どんな表情をしているのかが読み取れない。
けれどそこから、シンジの声がした。
「……なぁに、カヲル君」
「……、……」
「どうしたの?」
「っ……今夜、その夢の続きを見れると思うかい?」
「さぁ? どうかな、分かんない」
「そう、だよね……ごめん」
「どうして謝るの?」
言いながら、一歩、二歩、カヲルの元に歩み寄ったシンジの顔が、見えた。
口元だけで笑う、ハリボテのような笑み。間近ではあったが暗がりだからか、そう見えた。もしかしたら怒らせたのかもしれないと、カヲルは眉を落として言葉を重ねていく。
「変な話ばかりして、退屈させたから。ごめん」
「そんなことないよ、気にしないで」
「でも、」
「僕だけじゃないって分かったから。安心した」
「え?」
「ん?」
カヲルが首を傾げると、同じようにシンジの首が倒れた。
なんだか変だ。変な感じがする。いつもはこうじゃない。カヲルの背筋がぞくぞくと震える。
「今、何て言ったんだい?」
「? 別に、何も」
「……そう。ごめん、僕の勘違いだ」
「ふふっ、変な夢ばーっかり見るから、ぐっすり眠れてないんじゃない? 今夜はそんな夢見ずによく眠れるといいね」
シンジの声は確かに弾んで転がるようなのに、やはりよく分からない、何とも形容し難い曖昧な表情をしている。それは掴みどころのない夢のようで、もしや今この瞬間こそが夢の只中なのではと疑う程だった。
「こわい」
「怖いの?」
「うん、怖い」
「それなら手を繋ぐ?」
君がポケットから手を出してくれるなら。
シンジはそう続け、カヲルに手を差し伸べる。うまく知覚できない、曖昧な表情のまま。
「もう真っ暗だもんね。早く帰ろう、一緒に」
差し伸ばされた手は、手と手を取り合う為の手だ。
その手を取るには、ポケットから手を出さないと。
「ねえ、カヲル君」
ポケットから、手を出さないと。
〝僕の名前を呼んでいるのは誰だろう〟
「カヲル君」
〝碇シンジ君?〟
「カヲル君! カヲル君てば!」
「シンジ、君……?」
「どうしたの急に。大丈夫?」
カヲルは目を幾度も瞬かせ、橙色の残陽を背負って逆光になるシンジの顔を間近に見つめていた。
「君、僕の名前を呼んでそのまま黙り込んじゃったんだよ。呼んでもゆすっても俯いて返事しないんだもん、ビックリしたよ」
「そう……ごめん…ぼんやりしていたみたい」
「寝不足?」
不意にシンジの手のひらがカヲルの頬に触れた。
親指が下瞼を撫でてなぞる、その優しい触れ方に目元がじんわり赤らんでいく。同時に、覗き込んでくる瞳の表情は偽り無く、カヲルに向けられたシンジの情をよく表していた。
心配してくれている、とても。
彼にそんな顔をさせてはいけないと思うココロと、こんな風に世話を焼いてもらえることに喜び打ち震えるココロとで、カヲルの内心は不安定に揺れた。結局は両手で頬を包み込まれて「疲れた顔してる、かも」だなんて言われてしまうともうだめで、ココロは甘える方へと傾いたのだった。
「うん……変な夢を、それで、僕……」
「怖い夢なの?」
目を伏せ、頷く。深刻そうな風を醸したわけではないが、毎晩見る夢のことを考えると自然とそうなる。
あの夢のことを思い浮かべると、勝手に口が開いた。言ったってどうしようもないのに、言葉が勝手に漏れ出てしまう。
「毎晩見るんだ……同じ夢を。その、続きを」
「そう。でも大丈夫」
けれどそれは、シンジのキッパリとした口調によって打ち止められた。
「大丈夫だよ。夢の終わりにあるのが現実。ここが、君の現実だ。目が覚めたら僕がいる。でしょ?」
両手で包まれていた頬をむぎゅうと押して、シンジは声高らかに笑った。
「あははっ! カヲル君、変な顔!」
「う〜〜〜、やめてよシンジ君、ちょ、むぅっ」
「ふふっ。ほらカヲル君も笑って笑って」
「っ……ふ、ははっ」
シンジ曰くの変な顔のまま、やはり目元を赤く染めて微笑むカヲル。頬にあるシンジの両手に、カヲルの両手が上から重なった。
もうカヲルの手はポケットの中に隠れてはいなかった。
「手、繋いで帰ろっか」
「うん……ありがとう、シンジ君」
「なんでありがとう?」
「嬉しくて、幸せだから」
「そっか。じゃあ僕も、ありがとうカヲル君」
重なっていた手を両方とも握り込んで、シンジは満面の笑みをカヲルへ贈る。カヲルもそのお返しにと、胸が高鳴るままに笑顔を溢した。
カヲルの手を引き「なんだか少し照れ臭いね」と言って歩き出すシンジの頬もまた、仄かに色付いて見えた。
まだ沈まない橙色を受けるその笑顔、とても綺麗で幸福の証。だのにどこか、やはり居心地が悪い。それでも、ポケットの中でひとりぼっちだった手のひらに重なるシンジの温もり、握り込む指先の優しさがカヲルの気持ちを上向かせる。
だからカヲルは俯かず、シンジと同じ方を向いて歩くことができた。
ふたりが眺める遠くの峰々を、落ちゆく太陽が染め上げる。その色は、血の色に似ていた。
手を取り合い、オレンジの海に沈む世界をゆく、ふたり。
もう夜が来る。昨日の続きの、今日が終わる。
今日の終わりに、また夢を見る。
今夜、見る夢は?
夢の終わりに来る、明日は?