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    hoshinami629

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    hoshinami629

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    親鸞の太子信仰について小説を書きたいと思って途中まで頑張ったけど放置したもの、いつか書きたいけど、私の勉強が足りない……。

    #歴史創作
    historicalCreation

    親鸞と聖徳太子六角堂、頂法寺と言えば、都の中心であると豪語して憚る事の無い、由緒ある寺である。何でも縁起によれば他田(おさだ)の帝の御時、かの聖徳太子の念持仏であった如意輪観音が、衆生済度の為に御自らこの地を選ばれ、それを知った聖徳太子が御堂を建立したと伝えられて居る。この地が都として体裁を整えるずっと以前から存在する寺だと、誰もが信じて疑わない。そしてそんな由緒だけでは無い、貴賤老若男女を問わず様々な者がごった返す、騒がしい寺でもある。観音験を見する寺、と今様に詠われた霊場、しかも長谷や近江の粉河寺よりも、京の人々からすればぐんと近い。観音の霊験にあやかろうとする都の者の多くが、この寺へ参籠した。
    さて、その六角堂に数多訪れる参籠者の中にも、近頃一際目立つ者が居る。三十に届くか届かないかといった年齢の僧侶である。百日参籠を、と頑なな様子で寺の者に告げ、昼夜を問わず、食事も一日一膳のみにて一心に祈念するというだけで、まず只者では無い。しかしそれだけであるならば、まだ珍しいという程ではない。意外であるのは、その者が比叡の堂僧であるらしいという事だ。何も山の者であるならば、態々六角堂くんだりまで下りて来ずとも、幾らでも祈念も修行も出来ようというものである。どの様な事情が抱えて参籠しているのか、寺の者達は好奇の目で盗み見、囁き合った。加えて更に奇異なのは、彼の許には毎晩、即ち参籠した日数だけ、匂い立つような雅な文が届けられるという事である。勿論、山門の堂僧と思しきその参籠者は文を受け取らない。五通は十通、十通は二十通にと、段々とその数が増える毎に、寺の者の困惑と焦りも深まった。これではまるで深草少将の百夜通いを反転させたかの様で、不気味であった。返事を出す処か読もうともしない当人に、寺の者が困って手渡そうとすると、燭の火で燃やされてしまった。口を真一文字に結び、ただむっつりとした様子で、何通もの文が燃える処を見収めると、彼はまた一心祈念の心に戻る。その様子に、何やら鬼気迫る者を感じ、僧侶共は不安げに噂し合った。やれ近頃山にて頻繁に起こる、稚児を巡った諍いに巻き込まれたのではないか。やれ実は貴人の子なるが、拠所無き事情で出家したものの、今となって還俗を迫られて居るのではないか。その様な、まことしやかでもあり、それでいて上滑りの観を出ない茫洋とした噂が、寺の中を薄く漂って居た。
    己が好奇の的である事に気付く余裕は、彼には無かった。彼は祈念する事で、寧ろ自身の中の危うい均衡を、どうにか保とうとして居た。百日等では絞り尽くす事の出来ない心の重さが、彼――範宴(はんねん)には有った。御仏に掌を合わせ、頭を垂れ、昼の穏やかで神錆びた姿に祈り、夜の燭に揺れる妖しく神々しい姿に願っても、尚その心の重さは、彼を苦しめ続けた。己の煩悩の強さに呆れながらも、それでも彼の心は波立ち、荒れた。祈りながら噎び泣く事もあった。夢告を見る位ならば、泣いて居たかった。さもなければ、自らを責めて居たかった。或いは己を一時突き動かしたもの、人を有りっ丈の力で想う心が、突然到来して彼を苛んだ。観音は全てを御覧になって居られると知っては居ても、安らかな己になる気持ちは湧かなかった。
     範宴は、山門の一堂僧である。さして頭の切れる訳でも、かといって愚鈍な訳でも無い。寺で寝起きする様になった年齢は、誰よりも早かった。治承の飢饉の時に、胎の子諸共母は死んだ。彼は母親の顔を良く覚えて居なかった。女の顔というものを、殆ど知覚せぬ儘に育った。色恋も知らずに育った。寺には美童を寵愛する風が存在して久しかったが、範宴の顔には酷い痘痕があった。飢饉の際、共に流行った疱瘡(もがさ)によるものである。痘痕は、彼を外部から守る一種の鎧だった。屏風一対を隔てた向こうで、媾合の真似事の物音を聞く事は多かったものの、彼の痘痕が、彼を常にそれ等のぬかるみから守って来た。美しい容貌の同年の者共が、舞と酒と遊びを覚えて、幾人も遊行の者へと身を沈めていった。その姿を見る度に、彼は何処かで小馬鹿にして居た。奴等には痘痕は有るまい。この先もその面は永遠に滑らかな儘だろう。そしてそうやって、掛け替えの無いものを失ってゆくのだろうと。

     それだと言うのに、彼は何の間違いか、稚児を抱くよりも余程重い罪を犯す事になって仕舞った。吉水僧正(よしながそうじょう)の共で、さる公卿の邸へ伺候した際の事である。僧正の伴をした後、学友と先に横川へ戻る事になった。僧正という身分であればこそ車を使うが、堂僧の身分でその様なものが許される筈も無い。徒歩にて、残暑の昼下がりをぶらぶらと歩いて帰る筈だった。しかし、邸の門から東へ向かい出してすぐ、学友は言った。
    「のう、範宴房。この邸に姫君が居るという話は聞いて居よう。先程廊を渡る際にも、香しき薫物を聞いた。この様な機会もそうそうある事では無い、ちと覗いてはみようぞ」
     何を、と言い差して学友の顔を見れば、悪ぶってくすんだ笑みが見えた。躊躇いは勿論あった。己等は堂僧という身分だ。姫君を垣間見して鼻の下を伸ばす様な行いをして良い筈も無い。程度の深浅の差はあれ、女を求める事は僧にとっては禁忌である。しかし僧とて人間に他ならない。言うなれば、男に他ならないのだ。男が女を求めるのは、この上なくありふれた話である。そんな事を学友の笑みから想像して仕舞うと、自身の「男」の部分が鈍く揺らいだ。覗き見るだけならば、という言い訳めいた気持ちが、滲む様に湧き上がる。彼は母を知らなかった。女性の持つ柔らかさ、温かさ、優しさといったものは想像するしか無かったが、張りぼての想像でもはっきりと哀愁を感じる程には、彼はそれに餓えていた。
    「しかしここの姫君は、然る後入内なさるとの噂。何も好奇心で月卿雲客の不興を招き寄せる事もあるまい」
     そう言いながらも、足は邸の築地塀に沿って進んで行く。学友はにやにやと笑いながら、何も言わずに範宴の背を押した。
     おんな、という言葉を口の中で転がしてみた。恐ろしい様な気も、美しい様な気もした。一つ分かるのは、決して凡庸な言葉等では無いという事だった。おとこ、と呟いてみる。酷くつまらない言葉だった。彼が余りに見知って居る、すり切れ草臥れた、人生の果てを見る様な気がした。おんな、と再度口にすると、それはまるで菓子の様な甘さを含んで居る様に思われた。おんな、おんな。普段口にもしない言葉の蜜を味わって居ると、左手に折れた所で透垣が見えた。
    「此処ではないか。おい範宴房、周りに人は居らぬか、よう見てくれい」
     目を爛々と輝かせる学友は、その貪婪さを隠す事も無く透垣に手を添えて、内を凝と窺って居た。範宴は其処に命の醜さを見た気がして、唯々として人払いの役を引き受けた。結局この友も、一個の男に過ぎないのだ。僧侶であったとしても、男である事からは逃れられないのだ。彼はふと、源氏物語は宇治十帖を思い起こした。浮舟は川に身を投げた後、それでも生きる路を模索して尼になった。そして薫とも匂宮とも決別する道を選択する。彼女はそれでも女だろうか。今、範宴の眼前で僧侶である一人の男が、欲望を剥き出しにして佇んで居る。彼は僧だ。しかしそれであると同時に、矢張り男だ。浮舟は女か。薫を拒み通した彼女は、女を捨てたのだろうか。範宴はそんな事を考えながら、見るともなく友の浅ましい姿を視界に入れて居た。ずっと透垣の中を見て居るという事は、目当ての姫君が見えて居るのだろう。ぼんやりとそんな事を考えて居ると、嫋々と琵琶の音が聞こえて来た。
    「おう、範宴房。こちらへ来て見るが良い、これは垣間見の甲斐があったというものよ」
     学友はそう言って頻りに手招きする。どことなく下卑た顔をして居た。範宴の中で鎮まって居た、女性への憧れと好奇心とが、学友への軽蔑や諦観と交錯して、小さく顔を顰めた。けれど矢張り足は前に出る。俺も男なのだ、と自らを内心で嘲りながら、透垣の間から邸の内を覗いた。
     小さな視界の隅々を見渡すと、まず目に入ったのは繊手が閃かす撥だった。ゆるゆると絃の上を辿っては、はらり、はらり、と弾く。その度に大らかで美しい音が紡がれる。そのなよ竹の様な手は、生絹の単衣から出ている。朱鷺色の単衣と、日の当たる事の少ないであろう白い肌は、美しい襲にも似て居た。素直に、美しいと感じた。どんなに一心に学問に打ち込むよりも、またどんなに只管に経文を読誦するよりも、得難いものを感得した様にも思えた。だが同時に、女性の皮膚の持つ肌理、その情感、或いは肉体それ自体を視認する事への、どうしようもない後ろめたさも感じた。その二つの感情が範宴の中で、枳殻の葉を食い荒らす芋虫の様にのた打ち回った。無意識に彼の視線は姫君の手から腕へ、腕から肩へと、単衣から透け映る身体の線を舐める様に辿った。ふと、琵琶を抱えて居た力が緩んだ様に思われた。楽が止んだ。
    「――誰かある」
     姫君は存外凛々しい声音で人を呼ぶ。垣間見が露見したか、とも思ったが、それにしては屋内へと隠れる気配が無い。撥を置き、横抱きに抱えて居た琵琶を完全に膝へ預けるのが見える。と、範宴の中で再度芋虫が蠢いた。琵琶に隠れて居た乳房が、薄物一枚隔てた先にくっきりと見えた。そのふっくらとした毬の様な形を、赤みがかった優しげな色味を、範宴は否が応にも突き付けられた。それは彼が永遠に失った、母という存在への、母が含有する女性そのものへの思慕だった。己が酷く醜い存在であると感じられずには居られなかった。己には、あの白さも、柔らかさも、優しさも無い。それを求めて永遠にこの濁世を漂う、一葉の舟となる外ないのだ。
    「誰ぞ」
     姫君はゆっくりと立ち上がる。また遠くへ行って仕舞う、と反射的に感じた。あの朱鷺色の袖を掴んで、只濡れ縁に引き留めたかった。もっと琵琶の音を聞いて居たかった。子供が市で物を欲しがる様に、殆どそれは本能の如く範宴の口を衝いて溢れ出た。
    「第五の絃の声は尤も掩抑せり、隴水凍り咽んで流るることを得ず」
     姫君は、はっと周囲を見回す。眦に警戒の色が見える。しかし大きく呼吸をしたかと思うと、ややあってちら、と可笑しそうに笑った。泰然として坐し、琵琶を抱え直すと、秋風楽と思しき曲のさわりを弾く。範宴は己の言葉を恥じながらも、姫君の涼やかな挙措を見て、晴れやかな感動を覚えた。垣間見をされたと分かればたじろぐと思って居たけれど、この姫君はそれを笑って一蹴してのける。特異でもあり美しくもある。先程感じた柔らかさや優しさは範宴に己の醜さを突き付けたが、この玲瓏たる美しさは、苦しみを除いてくれる様な気持ちにさえなる。先程とは対照的な、玻璃の様な美しさである。学友に肩を掴まれた様な気がしたが、構わなかった。己と姫君の間に、何かしらの疎通のあった事が、そしてそれが苦しみを取り除くものであるという事が、彼をいたく喜ばせた。それは痘痕によって己を鎧って来た範宴にとって、大層新鮮な感情だった。
     姫君はさらさらと撥を往復させ、砕けた演奏を一頻り披露すると、今度こそ撥を措いて立ち上がる。息をゆっくりと吸い込むと、澄んだ声音で朗々と詠じた。
    「随分の管弦は還って自ら足りぬ、等閑がてらの篇詠は人に知られたり」
     淀みなく言い切ると、今度は本当に屋内へと入って行って仕舞った。範宴は何となく惜しい気持ちがしたものの、それで良いのだという満足感も何処かで感じて居た。たっぷりとした黒髪を川面の様に引いて、姫君の姿が几帳の奥へと消えて行くのを見届けると、範宴は漸く透垣から目を離した。学友はじとりとした目で己を見据えてくる。口の端が小さく持ちあがったものの、目は嫌に黒々として居た。
    「範宴房よ、何の気無しに覗いたにしては、何ぞ雅な歌でも取り交わそうという気か。狂気の沙汰よな」
     その言い回しの奇怪な事は、例えようも無かった。学友は何かに怯えて居る様にも見えたし、また酷く怒って居る様にも見えた。様々な感情が汚く混ざり合って、彼の表情を彩って居た。この男は――おとこ、という言葉の醜さを今更ながらにしみじみと感じた――一体、何にこうも怯え怒って居るのだろうか。範宴にだろうか。それとも範宴の軽率とも思われる行いにだろうか。それとも姫君にか。否、女性そのものにだろうか。どの様に怒りの原因を汲み取ろうと試みても、玻璃の椀に氷を盛ったかの様な煌めく情景を見た後では、その醜さには憐みしか湧かなかった。若しかしたら、この友が寺の様々な処で己の行いを悪しく噂するやも、とちらりと考えた。しかしそれでも良い様な気がした。それこそ憐れむだけだった。範宴の心は、己でも首を傾げざるを得ない程に晴れやかだった。それが寧ろ自らの不安を呼んだ。明らかに過ちを犯した筈なのに、この喜びは如何した事だろうか。
    「――猪の様に直情でな。思わず感極まり、口から衝いて出てしまったのだ」
     垣間見する順を逆にすれば良かったな、と呟いて、今度こそ比叡へと歩き出す。学友はにやにやと笑いながら、範宴房も隅には置けぬのう、と空々しく笑った。その笑いが何を含んで居たのかは、遂に分からず仕舞いだった。

     横川に戻って後、暫くは堂僧としての、可もなく不可もない、範宴には色褪せてすら思える毎日が過ぎていった。黴臭い褥、耳に慣れ過ぎて意味を考えなくなった経文、荒行の自慢、飲酒戒を破る者、寵童を囲う者。今まで諦観をもって山門の日常を眺めて居たけれど、美しい風景を見た後に改めて見遣ると、それらは酷く醜かった。末法の世、という言葉すら言い古されてしまった時代にあるのだから、僧侶が垣間見をしようと何ら可笑しくはないのかもしれない。そう思うと、己もこの醜い風景の一員なのだ、という妙な連帯感が湧いた。己の頬に残るこの醜い痘痕は、範宴自身が属する狭く醜い国の、惨めさを象ったものなのかもしれなかった。だから、範宴は初めて心から、己の痘痕を当然のものだと感じた。美しい国に住まう痘痕面は、大層辛い思いをするに違いない。範宴は自らの痘痕を好きにはなれなかったけれども、さりとて痘痕を嫌う理由を探って、痘痕によって蒙った害の様なものを考えても、揶揄以上のものを受けた事が無かった。却って、痘痕は常に彼の身を護る鎧にすらなった。痘痕が無くなれば良いと感じながらも、何処かでその醜さを恃みにして居た。痘痕は彼自身だった。常にそうだった。彼の住む国の醜さ、惨めさが、範宴自身からもありありと滲み出て居るのだ。他の者も同じである。己と共に垣間見をした学友の怯えと怒りは、したり顔で法を説きながら美童と寝る者は、一体醜くないとどうして言えようか。心は清滝川(きよたきがわ)と知るべし、と言ったところで、本当にその様である者等ほんの一握りである。そして、そんな清らかな彼等は、決してこの世を清めようとは思って居ない。寧ろ濁世と縁を切らんとして居る。この醜い国を去ろうとする者だけが清く、この国に身を沈めようとする者は皆、醜くならざるを得ない。
    そうだとするならば、言葉を一瞬交わしたあの姫君は、一体何処の美しい国に住まいして居るのか。まるで嫦娥の様だ、とも思う。美しい国に住みながら、醜い己の言葉を受け取って下さった姫君は、一体何に囲まれて居るのだろう。伽羅の香り、朱鷺色の生絹、大らかな琵琶の音。それらを記憶から取りこぼす事の無いよう、日に何度も何度も思い出した。彼女との思い出は範宴の中で、一幅の絵の様な美しい一幕だった。醜い世界で生き、死んでゆくであろう自分の、ささやかな一生を照らす宝になろうとして居た。それは、もう二度と姫君との縁は交わらないだろうと思って居たからであり、またそれを望まなかったからでもある。醜い身で、どうして嫦娥の様な姫君と関わりたいと思うだろうか。あの美しさを欲しいと思った訳では無かった。また、自らも美しい国に住みたいと思った訳でも無かった。ただ、美しきものを、美しきものとして眺めて居たかっただけなのだ。
    しかし範宴自身にとっても大層不思議な事に、姫君と彼との縁は思いの外深く、そして酷く縺れたものだった。

     紅葉の美しい時季、範宴は僧正の遣いで、やはり都へ出て来て居た。今度は寺同士の折衝の日取りを決める為の遣いだったが、折角の都である。挨拶や日取りに就いての確認といった用事が終わり、学友等から頼まれた筆や墨の買い物を済ませると、ぶらぶらと歩いた。まだ昼を過ぎたばかりである。何をするという訳でも無かったが、兎に角山とは違う闊達な空気を吸って居たかった。何とは無しにほっつき歩いて、河原院の跡地の近くへ出た。遠い昔には此処に藻塩焼く香りが漂って居たのだろうか、等と暢気に考えながら付近を徘徊して居ると、寺法師と思しき僧兵が何人か居た。面倒だな、と感じて距離を取る。彼等に、己が山門の人間であると知られて得な事は何も無かった。恐らく目の前へ出れば、身なりから自然と素性が知れよう。あちらが複数人となれば、身ぐるみはがされるだとか、下手をすれば殺されても何らおかしくは無い。さてどうしようか、と考えつつ、なるべく離れようと北の方へ速足で歩いた。ところが運悪く、進行方向にも僧兵が一人居る。河原院なんぞで僧兵がたむろして何をして居るのかは知らないが、廃墟に集まるからには後ろ暗い事であろう。寺法師は範宴の姿を認めると、威嚇とも取れる様子で薙刀を掲げながら、ずいずいとこちらへ向かって来た。こうなっては最早どうしようもない。範宴は腹を括って対峙する。範宴は衿元に感じる銀子の重みをさりげなく確認した。のっぴきならぬ事になれば、銀を握らせれば良い、と思案する。僧兵が廃墟に集まって行う事と言えば、博打か飲酒か、はたまた遊女を呼んで居るか。何にしろ銀を欲しがるのは間違いない。万が一の為にと衣に縫い付けていたものが役に立ちそうだ、と幾分か心に余裕が出来る。此処で刃傷沙汰に巻き込まれるのは避けられそうだ、と思った処で、ふと範宴は我に返る。僧侶が僧侶に対峙して、刃傷沙汰を懼れて銀を恃む。結局己は何処までいっても、骨の髄まで汚濁に染まって居る、醜き者だと思い知らされる。血か銀かという二者択一は、在家の者ですら、清らかに生きて居れば無縁の判断なのやもしれなかった。だと言うのに僧侶の己はこうして、命の代わりに銀を差し出そうとして居る。若しかしたら、そんな醜さは、さっさと此処で刃の露と消えた方が良いのかもしれない。薙刀の刃がきら、と光る。寺法師がにやにやしながら近付いて来る。道の隅に在る水溜りに踏み込んだ所為で、泥水がじくじくと左足に染みて来た。
    「おうおう、見れば何と山門の堂僧殿ではないか。態々都まで下りて来るとはご苦労な事よ」
     無精髭を生やした、薄汚れた身なりの寺法師は、挑発する様な調子で唾を飛ばして捲くし立てる。その声を聞きながら、範宴は左足に広がる泥水の濁りと同じ様なものが、言葉を媒介にして全身に広がる様な錯覚を覚えて居た。
    「おおい、山門の者が居(お)るぞ」
     寺法師は仲間に大きな声で範宴の存在を伝える。たちどころに、寺法師の人数が一人から五人程に増えた。いずれも寺門の僧兵を鳴らすだけあって、屈強な男ばかりである。範宴は荒行こそすれ、堂で経典を写すばかりの堂僧であったから、姿形から言って気圧される状態となった。銀子だけで済むだろうか、と不安がよぎる。人数が多くなっただけに、銀子を差し出して逃げようとしても、銀に目を付ける者と、範宴自身を追おうとする者に分かれる可能性が高かった。上手に切り抜けなくてはならない。
    「運の悪しき事よ。此処な所へ山法師が来やった。ただでは通せぬのう」
     五人が五人、にやにやと嫌な笑い方をしながら、範宴へと詰め寄る。その笑いは、以前見た学友の怯懦と怒りの狭間に見た笑いと、意味する処は真逆でありながらまったく同質の醜さを有して居た。優越感と嗜虐的な感情に塗れた、薄汚い笑い方だった。
    「して、堂僧殿よ。何とする」
    「その衣を置いてゆくか?袈裟か?首か?」
     矢継ぎ早に挑発しながら、けたたましく笑う。泥臭い汗の、男の醜い匂いが立ち込める。この場から少しでも早く離れたい、という気持ちに抗えず、小刀で衿を裂くと、銀子を二枚取り出した。何か言うべきだろうとも思ったが、思い浮かばず、無言で差し出した。寺法師等は、一瞬怯んだ様に範宴を見る。それを見逃さず、地面に銀子を投げ捨てて、範宴は走り出した。法師等は地面の銀子を思わず目で追う。その間に、全速力で彼等から離れる。小賢しい奴、と毒づく声が背後から聞こえる。銀子に心が動いたとはいえ、ある程度は追いかけて来るだろう。右へ左へ、出鱈目に走った。撒いたかどうかも分からず只管に走って、そして川へ出た。其の儘暫く川辺を走り続けたが、息が続かずに遂に立ち止まった。鴨川だろう、という見当はついたけれど、鴨川のどの辺りか、一体近いのはどの橋なのか、分からずに途方に暮れた。河原には獣と人と、何種類もの骸が乱雑に積まれて居る。白骨になって居るものもあれば、腐乱して蝿のたかったもの、衣を剥がれ、膨張が露わになった新しい死体、様々だった。九条以南が骸を捨てる場所の筈だが、この辺りにも死体は点在して居る。川の流れは北から南であるから、流れを遡れば知って居る場所にも出るだろうと踏んで、川を遡る格好で歩き出す。腐臭を運ぶ秋風に、柳が揺れて居る。乱れた息を整えながら、もう遠くない冬の訪れを予感する。範宴の唯一持って居る絹の衣は、肌に沿って温かい。だが衿元は破れ、足元は泥だらけだった。鴉と蝿と蛆ばかりの河原。都は山と違う、何か美しいものを含んだ場所の様に思って居たけれど、閉鎖的な雰囲気こそ無いが、醜さは山と大して変わらなかった。ぼんやりと悲しかった。もしかすると、己の故郷でもある都の何処かに、今も父と母とが居る様な幻想を夢見て居たのかもしれない。己は何処に行っても、この痘痕が有り、山門の者であり、また後見の居らぬ寄る辺無き身である事は変わらないのだった。己を取り巻くあらゆる醜さは、皆己に付帯して居る。己が己である限り、己の出会う様々なものは、やはり醜い。己が変わらない限り、己は醜いものにしか出会えず、そして自身も醜い儘なのだ。そう考えてみると、己の醜さへの諦観が、そして醜さに安住しようとする心根が、酷く嫌なものに思えた。だが、ではどうしろと言うのか。どうする事も出来ない。学問に励み荒行をして仏道に通暁したとして、後見の無い範宴は、一生この身分より上にはゆけぬ。還俗しても、範宴は日野氏の放埓人(ほうらつにん)の血筋だ。家をそもそも氏長者から認められては居なかった。何とか堂僧になれたのは、殆ど全財産を己の出家に費やして呉れた叔父のお蔭だった。そしてその叔父は、範宴が出家して三日後に死んだ。家族は飢饉で死に絶え、誰にも看取られずに逝った。己の死期を悟ったからこそ、甥の出家を後押ししてくれたのかもしれない。それを悲しいと思った事は、余りない。己が天涯孤独と言うべき身である事も、親の情を殆ど知らずに育った事も。そんな者は幾らでも居るし、その中では範宴はかなり上等な生活が出来て居る方であった。だから、己を囲む様々な風景が幾ら醜くても、それには目を閉じ耳を塞ぎ、痘痕で心を鎧って、諦めて生きて来た。堂僧としてはまあまあ認められて、僧正の下で働ける様にもなった。何ら不満は無いではないか。醜いのは仕方の無い事だ。それは生まれついた家や、身分や、財の有無や、前世の因縁によって決まる。どうしようもない事だ。皆、何も醜くなりたくて醜いのではない。美しくなるだけの余裕も無ければ、その方法も分からないのだ。
     ならば何故、と範宴は独白する。ならば何故、己はこうも醜さに堪えられないのか。以前は醜いと思いつつも、諦めて居たではないか。醜いと思うなという訳ではない。誰もが貧しさを、飢えを、穢れを、醜いと思うて居るのだ。だがどうしようも無い事なのだ。それを忌み嫌うても、己が辛くなるばかりだ。諦めるしかない。諦めるしか。
     或いは、と思う。鴉がげえ、と鳴いた。
    「或いは、己が真実、醜さを受け容れるか」
     市聖と呼ばれた空也上人は、若き頃の殆どを市で過ごされたという。病人が来れば蓆を与え、飢えた者が来れば飯を与え、凍えた遊女が来れば共寝すらした。空也上人はそんな人々を醜いと思っただろうか。生きる事に精一杯の貧しく荒んだ人々を、浅ましいと思っただろうか。思わなかったに違いない。心の底から憐れみを覚えたからこそ、その様な事が出来た。そしてまた、その様な人々と月卿雲客を、分け隔てなく見て居たからこそ、帝の御落胤と言われる程の高貴な血筋を持ちながら、市にも住まいする事が出来たのだろう。人の皮を被った命一つとして、人々を見詰めて居た事だろう。範宴にそれが出来るだろうか。あらゆる人が醜く思える範宴に。出来ない様に思った。だが、この儘醜さに只耐えるだけ、見て見ぬふりをするだけでは、到底生きてゆけぬと感じた。
     そんな事を考えながら鴨川沿いをとぼとぼと北上して居ると、東の方から、目にも華やかな女車が向かって来るのが見えた。地味な造りではあるものの、牛の毛並みと言い供奉する者の装束と言い、高貴な女性が乗って居る事は明らかだった。道を行く人々の誰もが、好奇の目で車を眺める。中には怖れを知らず、施しを受けんと試みる乞食も居た。ぼんやりと佇んでその有様を眺めて居ると、車は段々と範宴の佇んで居る河原に近付いて来た。前駆(ぜんく)が居ない為に、車の周囲を取り巻く人が多くて進めないのだろう。そうでなければ死臭漂う川沿いを通ろうとする筈も無い。
     只何となく、その美しい車が進む様を眺めて居た。黄味の掛かった毛並みを持つ、隆々とした体躯の牛が、滑らかに車を引いて行く。目の前をのんびりと車が通り掛かった時、内から涼やかな声が聞こえた。
    「極楽は遥けきほどと聞きしかどつとめて到るところなりけり」
     空也上人の歌である。範宴はその凛とした女の声に、心の深い処を射抜かれた様な気がした。修行さえすれば翌朝にでも極楽に至れると空也上人は詠じるけれど、では二十余年もの間、山にて修行に明け暮れた範宴は、一体何だったのだろうか。醜さを諦めて、ただ毎日毎日ずるずると生きて居るだけでは、極楽には近付けないのだろうか。極楽に、或いは浄土に赴きたいと思う訳では無い。この世を去りたいとは、範宴には思えなかった。何でも熊野から補陀落浄土へと、二度と陸へは戻らぬ船出をする人々が居ると聞くが、範宴にはその様な事は無理であった。寧ろこの醜い世を、どうすれば醜いと感じずに生きてゆけるかが彼の問題だった。ずっと、その醜さから目を背けて、知らぬ振りをして、諦める事に慣れたと思って居た。この頬の醜い痘痕がある限り、己は、僧兵や、美童や、乞食や、蛆の湧く死体からは隔離されて生きられると思って居た。だが違った。美しいものを一目見ただけで、その諦観は呆気無く崩れ去った。美しいものが酷く恋しかった。同じ世に斯くも美しきものと醜きものとが存在する事が、彼を苦しめた。美しいものに近付きたい、そして己自身も美しくありたかった。だがそれは無理の様な気がした。範宴は実際醜い相貌であったし、そうでなくとも、清貧の僧侶とは程遠かった。面倒事があれば金を掴ませて逃げもするし、興味本位で垣間見もする。そして自身、その様な薄汚い存在であるからこそ、醜き者を蔑むのをやめられない事が、ただ醜いだけであるよりも一層醜い様に感じられた。蔑んだからと言って、己が美しくなる訳も無い。それが苦しかった。美しくなりたかったし、醜き者共を侮蔑せずに居られる己になりたくもあった。車はゆるゆると進んでゆく。火宅から脱け出す車に乗れずに居るのではないかという気すらして、範宴は涙ぐみながら車を追いかけた。
    「十悪と雖も猶ほ引摂す、疾風の雲霧を披くよりも甚し、一念と雖も必ず感応す、之を巨海の涓露を納るるに喩ふ」
     車の内の人に呼び掛けたというよりも、最早己から遠ざかる、そして己の住まうこの醜き世、火宅から遠ざかる車に呼び掛けたものだった。この濁世を捨てて浄土に行きたいと思って居た訳では無かったけれど、この世に身を沈めたいとも思えなかった。耐えられない、と強く感じた。己の鎧は、あの美しさの所為で粉々に砕けてしまったのかもしれない。ずっと目を閉じ耳を塞いで凌いで来た醜い風景が、彼の痘痕の石垣を越えて、どんどんと彼自身に迫って来て居た。それこそが火宅に燃え盛る炎であった。釈尊はそれを様々な欲望と、それ故の餓(かつ)えの苦しみに例えたけれど、範宴にとって、それは欲では無かった。現実を受け入れる事への苦しみだった。彼が物心ついた頃から、目に映るのはずっと醜い風景だった。だから、平気だと思って居た。だがほんの一瞬、琵琶を弾く美しい姫君を見ただけで、その思い込みは砕かれてしまった。範宴が恃みとして居た鎧は、現実と己とを隔てる垣根は、彼の予想以上に脆いものだった。
     己の顫えた声音を、先程の声の主がどう思ったのかは分からない。だが、牛の歩みは次第に鈍くなり、腐臭芬々たる河原に高貴な女車は遂に止まった。奇異な光景だった。範宴は戸惑いながらも、車の後ろ側に立ち尽くす。供奉の者も、何とも困惑した様な顔つきだった。ぱっとしない堂僧が突然品高き女車へ向けて朗詠すれば、確かに妙にも思う事だろうし、それを聞いた主が車を止めさせるのも、また同じ様に妙な話だった。
    「等閑がてらの篇詠は人に知られたり、と申しましたけれど、真の事でしたね」
     出し抜けに、車の中から声が聞こえた。驚いて車を注視して居ると、小さく笑う気配がする。
    「以前私の琵琶を褒めて下さったのは、お上人様、其方ではありませんでしたか」
     その言葉に酷く驚いて、無意味と分かって居ても車の御簾の辺りを凝と見据える。姫君は可笑しそうに笑うと、ややあって御簾を、と小さな声が聞こえた。すぐに車の後方の御簾を、供奉の者が巻き上げた。不安そうな顔つきだ。何が起こるのやらとそわそわして居ると、あっさりとした声が聞こえる。
    「嗚呼、河原はやはり酷い匂い。さ、お上人様、どうぞ中へお入りになって」
     余りに軽やかに発せられた言葉に、範宴の思考は一瞬真っ白になる。何故乗車を勧められて居るのか、範宴には皆目見当がつかなかった。見ず知らずの人、しかも高貴な姫君の車である。こちらが垣間見をして居た事も、勿論姫君自身はご存じなのだ。一体どういう事だろう、と供奉の者を見ると、どうぞ姫君の意をお汲み下さい、と言われてしまった。途方に暮れて、己の足元を見る。草履や足元は泥だらけで、絹の袈裟にも皺が寄って居る。おまけに衿は先程破いたばかりだった。幾ら何でも、と思い困惑する。せめて水が欲しいと思い鴨川に目を転じたが、北辺の禊場ならともかく、この辺りの骸の転がる鴨川の水で足を濯いでも、寧ろ穢れるだけかもしれない。だが、断れる雰囲気でも無かったし、範宴は心の何処かで、この車の内に居る姫君と話してみたいとも感じて居た。涼しく軽やかな声をもっと聴いて居たかった。
    「今暫くお待ちを」
     そう言って、思い切りよく片袖を破く。草履を脱ぐと、泥だらけになった足元を拭った。絹に泥が付着し、見て居られぬ有様になってゆく。が、構わないと思った。見苦しくない程度に拭き取ると、破れた袖を懐に仕舞う。観念して榻(しじ)に足をかける。乗り慣れない車は、端近に居ると不安定で、範宴の心境をその儘表して居るかの様だった。車内は流石に几帳で区切られて居る。と、姫君とは別の、もっと年配の女の声がした。
    「お上人様、どうぞお進み下さいまし」
     成る程、一人で乗って居る訳では無いのか、と幾分安心する。声の年齢から言って、姫君の乳母だろうか。事情を呑み込めずに姫君に説き伏せられたと見えて、何となく声が硬い。この状況が大変突飛な事である事には、何ら変わり無いのだ。気にして居ないのは姫君だけだとも言える。範宴が几帳に向かって座すと、牛車は緩やかに進み始める。ややあって、姫君はゆっくりと口を開いた。
    「先日私の琵琶を褒めて下さったのは、其方で間違いありませんね」
     目下の者と話慣れて居る口調で、けれどそれにしては大層柔らかい物言いで、姫君は嬉しそうに口火を切る。垣間見をした際には何やら凛々として居た様子だったが、今はもっとたおやかで、ゆったりとした雰囲気を感じる。
     其方は山門の堂僧ですか、と、年配の女が呟く。範宴は短く肯う。姫君は小さく咳をすると、私は、と思い切った声音で語り出す。範宴の朗詠に思い切って詠じ返した時の様子と似通うものを感じて、何とは無しに心が弾む。
    「私は、生まれつき目を患って居ります。ぼんやりと影の様なものは見えるのですが、人の顔を見分けたり、文字を読んだりという事は出来ませぬ。巷では入内の噂等も立って居る様ですが、実の無い事」
     姫様、と乳母の窘める声が聞こえる。制止ではあるものの、どちらかと言えば困惑の色が深い。姫君は大事ない、と小さく言うと、話を続けた。
    「尼となるにも事欠くこの身です。父の権勢のお蔭か、端近に居りますと殿方から文を頂く事等もありました。けれど私は文字が読めませんし、書こうにも縦に連なるものを目で追うのが大層不得手。内容も、恋の道に惑うだとか、千々に乱れる心だとか――風流な殿方は嘘ばかりおっしゃる。それ故、皆お断りして居りました」
     洒落た恋文を、或いは歌を嘘と切り捨てる姫君の変わり者ぶりに、範宴は些かならず面喰う。初めて見た時から一方ならぬ姫君だろうとは思って居たものの、車へ範宴を上げる事と言い、このばっさりとした物言いと言い、良くも悪くも大変自由な姫君である。目の不自由な所為かもしれない、と範宴は事情を知らないなりに推察する。姫君に映り込む世には、眩しい日差しや瑞々しい色彩の数々が存在しないのだろう。それは、他人とは違う世界に生きて居るという事だ。そして彼女は、そんな自身の世界に忠実なのだ。それ故にこうも躊躇いなく、世の当たり前の事を切り捨てる事が出来る。範宴はそんな風に想像した。
    「目の悪い代わりに、耳は他の者より出来が良いのです。それもあって、日がな琵琶ばかりを友として暮らして居りました。父は私の身の行方を案じますけれど、どうにもなりますまい。この様な女を娶りたいという殿方なぞ、まず居らぬでしょうし、それに私は私で、並み一通りの方では、却って嫌で御座います」
     話が逸れましたね、と姫君は息を付くと、暫し黙り込む。範宴は何となく、蝉丸法師を想像した。高貴な身でありながら、琵琶と共に逢坂の関へ捨てられる哀れな盲目の少年。逢坂の関に捨てられてこそ居ないけれど、姫君は俗世から様々な意味で遠い存在だった。それ故の美しさ、清らかさなのだろうか。範宴は世捨て人として清らかに生きる幾人かの高僧を知って居たが、彼等は少なくとも俗世の一面を良く心得て居た。その醜さ故に俗世を捨てたのだろう、と範宴等は思う。だが姫君は、そもそも世を知らなかった。彼女が知って居る世とは、詩歌管弦の世だ。彼女が吸って居る空気は全てが美しい、そんな気がした。醜いものを知らずに生きて来た人なのだ。その稀有な光が、几帳の向こう側から範宴を照らす様な気がした。範宴の心を明るくし、また同時に醜さを貫く。それで良い、と何処か満足を感じる。この世の醜さを受け止める心を持ちたいと、先程まで漠然と考えて居たけれど、この世にも真実美しき人が、まだちゃんと存在して居たのだった。
    「……山の方に垣間見をされるのは初めてでした」
     笑い含みに姫君が口にすると、乳母がくすり、と笑う。嫌な気はしなかった。寧ろ、そうだろう、という同意の気持ちが湧く。だが何と言って良いか分からず、ぼんやりとした相槌を打った。
    「けれど、とても嬉しかったのですよ。琵琶を褒めて頂いたのは初めてでした。しかも、その場で詠じて。私は返歌の様な事は余りした事が無かったのでどきどきしてしまいましたけれど」
     楽しげで柔らかな声音。身じろぎをする度に耳に届く衣擦れの音。几帳の外にまで及ぶ艶やかな黒髪。やはり一幅の絵画の様だ、と心中で感嘆しつつ、自らが姫君に抱いて居る心持ちを、どの様に表したら良いかと小さく悩んだ。姫君の放つ美しさが、どんなにこの胸を、この痘痕を、この範宴という一人の男を貫いた事か。姫君の姿が、琵琶が、声が、どんなに範宴を変えてしまった事か。
    「……わたくしは比叡で長らく仏法を修める身でありながら、この身を火宅に置いて居るという事にずっと気付かずにおりました」
     ごとごと、と牛車の揺れを身に感じながら、範宴はゆっくりと言葉を選んで話し出した。
    「姫君には御覧に入れる事が出来ませんが、わたくしの面には醜い痘痕が御座います。この痘痕が、ずっとわたくしを火宅に燃え盛る炎から守ってくれて居りました。見聞きするあらゆる醜い物事を、半ば諦め、半ば嘲って此処まで参りました」
     懺悔(さんげ)の様だ、と自身でも思いながら訥々と、考えて居た事を順々に話してゆく。几帳の向こうからは、只ひっそりとした優しい息遣いが聞こえるばかりである。
    「仮令友が高僧の寵を得て、それ故に春を鬻いで山を去ろうとも、師が酒を楽しみ女を買おうとも、川辺に骸が山を成して居ようとも、自らが浅ましくも垣間見をしようとも、そんな事を苦しいとも悲しいとも感じずに居りました。それは、わたくしが醜い者だからです。わたくしは自らが醜い事を、良く良く存じて居ります。痘痕も醜ければ行いも醜く、心根は申すべくもありませぬ。この世も醜ければわたくしも醜く、醜い事は世の常なのだと、御仏は無常を説かれるが、醜さだけは常に在るものと思って居りました――姫君の姿を拝見するまで」
     くしゃくしゃになった衣を、膝の上でぐっと掴む。絹の柔らかい手触りが、却って自身の惨めさを際立たせる様な気さえする。
    「垣間見をした浅ましき堂僧の言葉です、どうかお笑い下さい。けれどわたくしにとっては真実、あなた様のお姿が光り輝いて、神々しい程に見えました。琵琶の音も、声も……。それで漸う気付いたのです。わたくしが諦めていたのは、火宅の炎に焼かれる苦しみそのものなのだと。醜い己にも、この世にも諦めて居りましたが、この世には姫君、あなた様の如く醜さに染まらぬ方も居られる。わたくしはそれで、突然酷く苦しくなったのです。今まで諦め続けて来たものが突然、痘痕を破ってわたくしに襲い掛かって参りました、炎の様に。この世の醜さも、己の醜さも、何もかもが苦しゅうて苦しゅうてなりませぬ。先程この車を追い掛けましたのは、姫君が空也上人の歌を詠まれて居たからです。どうぞわたくしを、こうして車にお招き下さった様に、御法(みのり)の車に乗せてこの火宅からお救い下さい。極楽への道をお示し下さい」
     何を言って居るのだ、範宴房よ。内心で自らの口から零れる言葉に歯止めを掛けようとしたものの、その試みは実を結ばずに終わった。ほろほろと心が言葉を生み、また涙さえも生んだ。姫君がどうして範宴を助けられよう。僧侶の身でありながら、在俗の者に何故その様な事を訴えて仕舞ったのか、彼自身が最も自らを訝しんだ。
    「……申し訳御座いません、取り乱しまして」
     自身への猜疑と羞恥が高まり、ややあってそう付け加える。車を引く牛が、もおお、とゆったり鳴くのが聞こえた。最初から余り良くなかった居心地が更に悪くなり、範宴は萎縮した様に肩を丸める。と、その時突然、几帳の内の姿が揺れた。
    「お上人様、面をお見せ下さい」
     そう言って几帳が動くと、あろう事か姫君がしさりながら範宴の許へやって来た。車に乗せられた時以上の驚きで、其の儘硬直して仕舞う。乳母が制止しようとするものの、そもそも乳母自身が袖で顔を隠そうとするのに必死で、主に手を出せずに居た。
    「姫様、どうかその様な」
     困り果てた声音で乳母がそう言い募ると、姫君は小さく笑って、だがきっぱりとそれを退けた。
    「いいえ。私の顔が見られた処で、私の目にそれは映りません。私は人の顔が分からないのですから。私の顔を見るだけで勘違いする輩には、勘違いをさせておけば良いのです。けれど左衛門、あなたが私を案じて居るのは声だけでも手に取る様に分かります。人を知る上で肝要なのは顔を見るとか見ないとかいう事では無いのです。お上人様は先だって、この世もご自身も醜いと言われました。それが苦しいと言われました。私はそれが真か知りたいだけですよ」
     そう言うと、姫君は範宴に更に近づいて、もう一度面を上げて、と優しく言った。身体を強張らせた儘、諾と言って顔をゆっくり仰のかせる。目の前には夏に垣間見をした、あの姫君の美しい姿が其の儘在った。そしてあの時よりももっと鮮明に、精緻に、その姿や表情を視界に収める事が出来た。色白でありながら温かみのある肌の色。深く艶やかな射干玉の髪。涼やかな目元に、やや厚みのある唇。どぎまぎしながらそれらを見た。目が殆ど見えないというのは本当なのだろう、瞼こそ開いて居るものの、瞳は何処となく虚ろで視点の定まらない風がある。けれどその事が却って、別のものを見据えて居る様な、不思議な力を目元に与えて居た。
    「痘痕とはこれですか」
     重そうな袖をゆっくりと持ち上げて、姫君の繊手が範宴の頬を撫でた。驚いて身じろぎをしたものの、それはそれで失礼に当たる様にも思えて、すぐにまた身体を固くする。指先は意外にも固くて、琵琶を何度も弾いて居る手である事を感じさせた。その手が、徐に範宴の頬に、まるで刷毛で胡粉を塗る様な優しく微かな力で触れてゆく。
    「……そ、そうで御座います。その、凹凸が」
     口ごもりながら漸うそれだけを言うと、姫君の唇がほんの少し吐息に顫える。
    「肌がまるで波打つ様。これがお上人様を炎から守ってくれたものですか」
     全く厭う気配も見せずに、姫君は興味深そうに痘痕に触れる。左頬を触り終えると、顎を伝って今度は右頬へ。そちらには一層酷い痘痕があったものの、姫君は興味深そうに触り続ける。
    「面の肌がこの様であれば、邪なものもそうそう入って来られないでしょうねえ。どんな苦難があろうと、きっと果たせる強いお顔ですよ」
     右頬から瞼を伝い、眉を辿り、優しい手は淀みなく移ってゆく。範宴の顔を満遍なく触れて、手によって彼を記憶しようとして居る。それが姫君にとって特別な行いであるという事が分からない程、範宴は愚かではなかった。
     姫君は涼やかに笑う。繊手がゆっくりと範宴の頬から離れてゆく。柔らかく温かい掌の名残がなかなか去らず、範宴は思わず自分で自分の頬に触れた。右手からは、先ほど触れた銀子の所為か、金臭い匂いがした。
     ――こうして、汚れてゆく。どうにもならないこの現実に、範宴の心が大きく軋む。
    「私達が乗っているのは牛車。七宝の車とは言わないまでも、火宅を抜け出すのには、またとなく適って居りますこと」
     姫君はそんな範宴の仕草も、心の動きも知らずに、軽やかにそう言った。牛がまた、もおお、と嘶く。
    「あの、姫様」
     左衛門がおずおずと、几帳の隅から話し掛けて来た。姫君は範宴の方を向いた儘、何ですか、と聞き返す。
    「その……見当違いで無ければ良いのですが。どちらまでお上人様を乗せた儘にするおつもりでしょうか」
     乳母の現実的な言葉に、範宴は思わず膝を立てた。
    「御尤もで御座います。わたくしは、そろそろお暇して」
     まあ、と姫君が驚く様な声が範宴を遮った。
    「お上人様の破れた袖を見なさい、左衛門。これは私が破らせた袖ですよ。それに、もう日が傾いて居ますね。目が見えずともその位の明暗は分かりますよ。せめてもこちらの服をお直して、明日までお泊めするのが筋ではないかしら」
     左衛門の呆れた様な溜息が聞こえ、範宴は大層気を揉んだ。筋を問うならば、明らかに左衛門が正しい。が、左衛門にせよ己にせよ、従わなくてはならないのは姫君の言葉だった。
    「――姫様、まさかこの堂僧を共だって九条へとお帰りになるおつもりですか」
    「あら、何かおかしい事でも」
    「おかしい事だらけで御座いますよ、姫様」
     姫君は首を傾げると、真剣な調子で、左衛門、と呼びかけた。
    「左衛門、主の恋路を支える乳母は古来幾らでも例がありますけれど、妨げる者など聞いた例がありませんわ」
     その言葉に範宴は慌てて、あの、と口を挟もうとした。しかし姫君に、そうでしょう? と言われると、何も言えない。血の気が引いた。
    「姫君、その……恋、とは……」
     姫君は範宴の切れ切れの言葉に、不思議そうに首を傾げる。
    「あら、垣間見をして、歌を交わして、この度は顔も見交わして、これが恋で無くて何ですか」
     可愛らしく微笑まれながらそう言われると、もう範宴には肯う言葉しか残って居なかった。またしても、左衛門の大きな溜息が聞こえる。
    「……少々手狭ではありますが、我が家へお出で下さいませ。九条へお連れするのは、流石にお止め致します」
     左衛門の諦めた様な口調に、範宴の気まずさは募る。姫君はそうとも知らず、物語の様ねえ、と呑気に明るく返事をした。
     左衛門が手早く供奉の者に声をかける。暫くすると、牛車が一旦止まり、方向を変えたのが分かる。
    「姫様、何を思っていらっしゃるか存じませんが、お上人様はお山の僧侶で御座いますよ。女性との恋を嗜む様な身分の方ではございません。況してや姫様の様に地位のある方と」
     その通りだ、と範宴はゆっくり頷く。姫君はその気配を知ってか知らずか、いいえ、と小さく答えた。
    「いいえ、左衛門。それは、この世の決まりがそうさせて居るだけですよ」
    「何をおっしゃいますか。釈尊の頃から、僧侶は妻帯致しませんよ。その位ご存知でしょうに」
    「あら、左衛門こそ。釈尊は妻も子もおいでになりましたよ」
    「そういう事では……」
    「それに、ねえ。女犯戒を破らずに居る僧侶が、一体この国にどれ程居るというのでしょう。私はちっとも気になりませんよ」
    「気になるか否かでは御座いませんよ。殿様にはどの様にお話しになるのですか」
    「……父上は、私の事などどうとでもなれと思っていらっしゃるのだから、良いの」
    「そんな事は――」
    「いいえ、そうよ」
     姫君はそう言うと、ふっつりと黙り込み、項垂れる様に下を向いた。左衛門も、不安そうな息遣いは聞こえたものの、それきりもう何も言わなかった。世の常の習いに染まず、矩を軽やかに超えてゆく姫君。姫君の見えない目が見て居る世界。範宴には、それが分からなかった。それが美しいのだろうという事しか。けれど今、姫君の内に蠢く不安の影を見た。厄介者として煙たがられ、父親からも疎まれている影を。
     父が居れば、母が居ればと思う事はあったが、ふた親が健在だとして己が疎まれる事もあったかもしれない、とは想像した事がなかった。それは範宴の不明だった。恵まれた境涯の中にも苦しみはある。天上界にも苦しみがある様に。
    「……この車は何処へ行くのでしょうね。私が其方を乗せておきながら、私にも分からない。道筋は、もう変わってしまいました」
     姫君はゆるゆる面を上げると、小さく笑った。気高く神々しい女性と思って居たその相手が、笑ったと同時に酷く頼りなく、稚く思えて、範宴は胸を突かれた様な思いがした。
    「極楽へ参るのではないのですか」
     自ずと励ます様な声音になる。姫君の、外界を映さない不思議な瞳が瞬いた。
    「……ええ、そうでしたね」
     姫君はそう言うと、頼りなげにまた笑う。
    「極楽は、遥けきほどと聞きしかど……」
     右側の物見から、かっと西日が射した。西方浄土は、あの夕日の袂にある。範宴は歌の下の句を、おずおずと引き取った。
    「つとめて到るところなりけり……」
     牛が、もおお、と鳴いた。姫君が心細げに、範宴の膝の辺りに触れた。
     西日はそれきり、射し込んでは来なかった。

     七条にある左衛門の家に着く時には、既にとっぷりと日が暮れて居た。小ぢんまりとしては居るものの、さっぱりと手入れの行き届いた邸で、西の芝築地に、ひっそりと小さな門と車宿がある。まさか堂々と西門から入る訳にもゆかず、範宴は手前の少し北側で降り、築地の途切れ目から敷地の内へと入った。土を踏み固めた小さな庭に、簡便な中門廊代がせり出して居る。門から通された者は其処から室内へと上がるのだろうが、片袖を切り落とし、衿も破れた堂僧が、果たして其処から上って良いのかは疑問だった。
     とするのならば西対代廊の近くで、左衛門が内から招いてくれるのを待つほかあるまい。範宴はため息をついて、対代廊の簀子縁に腰掛けた。どうして己がこの様な所に居るのだろうか、と今更自問したものの、明瞭な答えは立ち現れなかった。寄る辺無く俯く、姫君の横顔を思い出した。また逆に、琵琶を弾き朗々と詠じた凛然たる姿を思い出した。範宴の中で、最も美しい一幅の絵。汚れ無き世に住まう天乙女。思わずまた、頬を撫でた。手触りの悪い凹凸。己の醜さの象徴。白魚の様な手が、此処を読み取っていったのだ、この醜い凹凸を。喜びや驚きを超えて、現の事であったか否か猜疑に駆られる位には、有り得ない事だった。姫君の心中も分からなければ、のこのことそれに従ってついて来てしまった己も分からなかった。左衛門が、何処までこの堂僧を乗せるのかと言った時、姫君に固辞して降りれば良かったではないか。身分の低い者は引き際が肝心だ。親切と世辞を履き違えては、すぐにも鼻つまみ者にされてしまう。幼い頃から嫌という程それを味わって来た身であったから、引き際には自信がある筈だった。公卿の息女が戯れに己の様な者を招いただけだ。ならば、辞すべき時宜はあの瞬間だった筈だ。実際、己は暇を告げようとした。だが遮られ、呆気に取られ、断れずに此処まで来た。大失敗ではないか、と嘆息する。図々しい山法師よ、と思われても仕方あるまい。溜め息をつくと、くう、と腹が鳴った。心中の模糊とした思案と、空きっ腹との食い違いが何となく可笑しい。北の侍所からは炊事の匂いが漂って来て、これが腹の虫の騒ぐ原因と見える。
     急に悩むのも馬鹿らしくなって、範宴は考えるのをやめた。厚かましい山法師と思うなら思えば良い。そう思われて、範宴が困る都合などありはしないのだ。只何となく、あの姫君が気掛かりで此処まで来てしまった。半ば断れずに、ずるずると。離れるのが惜しかったというのもある。惜しかった。そうかもしれない。本音は不意に、ぽろりと姿を現す。別れるのが惜しかった。言葉を交わせるのが夢の様で、夢なら覚めてくれるなと思ったのだ、きっと。
     侍所の蔀から、忙しなく立ち働く背の低い女の姿が見える。こちらを一度だけ見たものの、その後は炊事に集中した様子で、範宴の姿どころか、外を一瞥する気配すら無い。己の事が既に知られて居るのか、それとも分からずとも何らかの事情があると感じ取って追い出さずに居るのか、範宴はそれを量り兼ねた。さりとて、自らのこのこと侍所へ行って説明出来る程、真っ当な客人でもない。そして真っ当な客人であれば、そもそもこんな所で立ち往生などしないものである。如何ともし難く、範宴は只ぼんやりと其処に座り続けた。
     暫くすると、出し抜けに侍所から女が出て来た。苧麻で織った粗末な小袖を襷掛けにして、両手に小さな朴葉の包みと、竹筒を持って居る。範宴はぼんやりとその姿を見て居ると、女はこちらへ来て、ずい、とその両手を突き出す様にした。
    「受け取りなされ」
     出し抜けにそう言われて、範宴は絶句して女を見詰めた。鼻の頭に煤が付いて、黒ずんで居た。
    「お前様もどうせ、姫様に呼ばれたのだろう。受け取りなされ」
     ぶっきらぼうな物言いにどう答えたものか迷いつつも、範宴は軽く礼を言いながら包みと竹筒を受け取る。女は一つ頷くと範宴の右隣にどっかりと腰かけた。
     包みを開くと、簡単な握り飯が二つ入って居る。豆と穀類を一緒に炊き上げた、優しい匂いが鼻腔をくすぐる。もう一度礼を言って素直に食べ始めると、女は少し気を許した様に、ふう、と息を吐き出した。
    「袖はどうした」
     片袖の無い無残な衣を指さされて、範宴は此処に来るまでの経緯を掻い摘んで話す。
    「絹の袖で足を拭くとは、お前様も余程姫様にご執心の様だ」
     呆れ半分、皮肉半分の口調に、範宴は沈黙する。お前様も。先程から女が折に触れて口にする物言いに引っ掛かりを覚えながら、握り飯を頬張る。中には青菜の漬物が入って居て、塩辛かった。
    「その……先程からの口ぶりだと、姫君は私以外にも、こうして人を連れて来るのか」
     どうしてか目を合わせられず、地面を凝視しながらそう問うた。一拍置いて、女はふん、と鼻を鳴らす。
    「そうさ、もうお前様で何人目になるやら。姫様は下々の者が殊の外お好きでね、琵琶法師、白拍子、歩き巫女、山伏、傀儡師、遊女……。ありとあらゆる者を召しては、左衛門様が折れて、それで此処にお泊めになる。いつもそうだよ」
     女の口吻には、軽蔑と諦めの色が濃かった。範宴は黙ってそれを聞きながら、竹筒の水を口に含む。動揺したくないし、それを悟られたくもない、と思ったが、思いの外胃の辺りに嫌な感触が広がった。
    「大殿様も困ったものさ。目の見えぬ女君(おんなぎみ)はきさいがねにはならぬ、婿も取れぬと思うてか、そんな奔放な行いに口一つ挟みやしない。親が親なら子も子だよ」
     女は吐き捨てる様にそう言うと、襷をするすると解きながら言葉を続ける。
    「左衛門様がお可哀相だ。あんなに傅(かしず)いてお育てしたものをねえ。大層可愛がって居た男君――姫様の乳兄弟(めのとご)だよ――と死に別れて、それ以来生き甲斐は姫様だけだ。村上の帝の頃ならいざ知らず、こんな生き馬の目を抜く様な時代に、あんなにお尽くしする乳母(めのと)も珍しい」
     生き馬の目を抜く時代。その通りだな、と握り飯を咀嚼しながら範宴はぼんやりと思う。僧侶が武装し、武士が帝の御稜威(みいつ)を削り取る様な時世だ。天上界に住まう姫君に仕える乳母は村上帝の御代の人。そんな風に想像すると滑稽だった。今正に、目の前のこの飯炊きの女に、姫君の放縦さを聞かされているところだと言うのに。
    「……姫君は、そんな賤しき者共を泊めて何をしているのだろうか」
     握り飯の最後の一口を飲み込んでから、範宴はひっそりとした声でそう訊いた。女は首を小さく振る。
    「さて、泊めた日の夜は必ず管弦の音が聞こえるが……。その後は考えたくもないね」
     女は忌々しいものを振り払う様に右手を挙げながら、やや神経質な声音でそれだけを言った。範宴は黙って竹筒を干した。
     先程の姫君の言葉を思い出した。「これが恋で無くて何ですか」。軽々にその様な言葉が出る事に、奇異の感を確かに覚えた。法師に言う言葉でもあるまいに。
    「御仏の導きと言って召すんだ。いつもそうだよ。一樹の蔭に宿り、一河の流れを汲む事も他生の縁、とか言ってね。それで公達なり高僧なりを召すならまだしも……」
    「私も似た様なものだったな」
    「そうだろう、それが姫様のやり方って訳さ。さっき言った様な賤しい奴等には数寄者も多い、盲(めしい)の姫君と聞いたら、それだけで面白がってやって来ようってものだよ」
     琵琶を弾く時の美しさ、凛々しさ。女の話の中の放縦さ。範宴に向けられた優しさ。父について口にした時の寄る辺無さ。姫君についてほんの僅かな事しか知らないにも拘わらず、既に余りに多くの面を見せつけられて、範宴は酷く当惑した。どれも嘘では無い様に思えた。だが同時に、それらは一人の人間の中で並立しない、溶け合わない様にも感じられた。
    「……となると、私は騙されて居るという事だろうか」
     半ば女に、半ば己に言う様に零すと、女は眉宇に微妙な影を描く。
    「私は近江の生まれだが、里では良く、山奥で男を誘っては生気を吸い取る山姥の話というのを聞かされたものさ。まさか姫様が生気を吸うとは思わんが、そうやって見境無く人を誘う女なのは確かだよ」
     二人がそうして話して居る間に、日はずんずんと暮れていった。きつい西日はとうに姿を築地塀の後ろに隠して、頭上には藍色の空が広がり始めた。風は随分と涼しかった。
    「何故、私にこれを?」
     範宴は畳んだ朴葉と竹筒を持ち上げる。女は隣で髪の間の蚤を取る事に躍起になって居たが、ちらりとこちらへ視線を遣った
    「……姫様が召した者の中で、お前様が一番まとも(・・・)だからよ」
     女はさも当然とばかりに、力強くそう言った。だが、まとも(・・・)、という言葉に感じる含みは、範宴にとって思いの外嫌なものだった。
    「まともなものか。姫君に誘われてほいほいついて来る様な生臭坊主だぞ」
    「いいや」
     女は身を乗り出して範宴の顔を見詰めた。煤に黒ずみ、日に焼けた顔はぎらりと火照って、牛の様な迫力があった。
    「良いかい、はっきり言って私は姫様がどうなろうが知った事じゃないのさ。そして、姫様が誰を召そうが、それもどうでも良かった。それは、召される奴ばらが河原者ばかりだったからだね。けれどお前様は違うだろう。お前様は河原者じゃあない。こんな面妖な姫のところにのこのこ来て、芸を売り込む訳もないし、春を鬻ぐ訳でもない。ならば良い事は何もない。姫様に逆らうのが難しいなら今すぐ帰れとは言わないが、これきりにした方が良い」
     突然の親身な忠告を意外に思いつつ、範宴は、はあ、と鈍い返事をした。
    「お前様、何を捨て鉢になって女を追い掛けて居るかは知らんが、やめておきなされ。お前様は僧侶で、まとも(・・・)な世に生きるお人ではないか。姫様との事が知られれば、それだけ寺での立場は悪くもなろう。姫様はお前様を、河原者と同じ様に思われ、扱われておるのだ。御仏の教えを、今様やら田楽舞やらと同じと思って居るのよ。これでは寵愛どころか、値踏みされ、唾を吐きかけられて居るも同然ではないか」
     女の思うところを理解して、範宴はまたしてもこの世の暗さをありありと感じた。河原者に真に唾を吐きかけて居るのは、正しく彼女自身だった。破戒僧がまとも(・・・)とはな、と心の中で自嘲する。女からすれば腐っても鯛、袖もぎの衣を着て居たとて山の僧侶だ。では己が堂僧になれず、親兄弟に死に別れ、仕方なく道で物乞いをして生き長らえる乞丐人(こつがいにん)であったならどうだったのだろう。河原乞食が権門の邸で垣間見をしたり、空也上人の歌に惹かれて車を追い掛けたりする事だってあるかもしれなかった。姫君は、きっと乞食であっても車に乗せただろう。範宴には不思議と、その確信があった。そうしたら己は乞丐人としてこの邸へ来たかもしれない。或いは山伏として? 牛飼いになって? 傀儡師になって? そうであっても同じ様に、この女は飯を己に差し出しただろうか。
    「成る程」
     範宴はそう言って立ち上がった。この女は、自らよりも品高ければ飯を出す。品下れば唾を吐く。普通の女だ。普通の。この、生き馬の目を抜く濁った世の、普通の女。泥の中で泥に染まって生きる女。
     春に垣間見をした時、己はまだ女性全てを雲の上人(うえびと)の様に考えて居たな、とふと思った。女性の全てが清らかで、美しく、慈母の様な存在なのだと。それは違った。余りに当たり前の事なのに、今突然それが了解された。頬の痘痕を思わず撫でた。姫君が賤しき者共を召した理由は知れないが、それに対する嫌な気持ちは不思議と失せて居た。賤しいと言えば、目の前の女こそ賤しく感じられた。範宴の事をまともと言い、その一方で河原者に唾を吐き、主筋の姫君を軽蔑する。蔑ろにして構わない者と、そうでない者の居る世界。踏みにじられる者と、踏みにじる者の居る世界。女は、この濁った世で、なるべく上澄みの方に属して居たいのだ、と範宴は想像した。泥の上澄み。汚泥には染まりたくない、清らかでありたいと願って。そう思うと、女もまた哀れだった。苛立ちこそ感じるものの、怒りは湧いては来なかった。
    「分からない。騙されておるのやもしれん。だが、私は姫君を信じるよ。そう決めたのだ」
     そう言って女に朴葉と竹筒を渡す。女は苦い表情をした。
    「何ゆえじゃ」
     範宴は、頭上の濃藍の夜空を見上げた。秩序立ち、整い、美しく冷たい世界が空にはある。
    「そう思えないこの世の全てが、兎に角嫌なのだ。もう」
     もう……と二度呟いて俯く。泥だらけの、女の足と己の足。天が無情で清らかな世界であるならば、この下界は、泥だらけの濁世は、どんな世界であると言うのだろう。
    「信じられない事が辛いのだよ。騙りであれ嘘であれ、真に信じ続けられれば、もうそれだけで良いのだ」
     範宴はそう言って、履物を脱ぐ。半蔀を少し開けて屋内を覗くと、柱の陰に左衛門が居た。扇で顔を隠して居たが、姿でそれと知れた。聞いていたのかもしれないし、今しがた来たのかもしれない。分からなかった。
    「姫様がお呼びですよ」
     優しい声だった。信じる事にしたのだ。
     もう、女の方は振り返らなかった。
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