名前のない僕はいない「へー、こんな億ションでも首吊る馬鹿がおるんか~」
人の声がする。随分艶のある男の声だ。オートロックの玄関がカードキーで開いたと同時に聞こえてきたので、随分五月蠅い住人が来たな、と僕は思った。
「でも、どこで吊ったん? 随分綺麗みたいやけど」
ドカドカと足音がこちらへやってくる。この部屋の間取りは高級マンションなだけあって、無駄に広い。玄関から入って、リビング、キッチンなどを通り抜けて、このサニタリールームに入ってくると、鏡に映しだされたのは随分顔の濃い色男だった。
年の頃は三十代くらいか。意志の強そうな眉に、いちいち目鼻立ちの主張が激しい顔。だが、それらが綺麗に配置されているので、ハッと人の目を惹くような若い男がそこにはいた。
「こちらですね」
男を案内するのは、このマンションを管理する不動産会社の社員だ。狐目でガリガリに痩せ細った男は、いつも陰鬱な顔をしていて、彼が連れてくる客は彼以上に癖が強そうな人間ばかりだ。今日、案内された男もそういう意味では極めて胡散臭かった。ただの成金とは違う。動く度に黒い影が彼の後ろにたなびくような得体の知れない雰囲気を持った男だった。
ふと、男と視線がかちあったような気がして、僕はびくりとしてしまった。そんなことはあり得ないのに、男の真っ黒な目は全てを見透かすような強さがあった。
「随分ええ鏡やね……」
男がそう言った。このサニタリールームに設置された鏡は、金の縁に右端に和柄のステンドグラスがはめ込まれた意匠の際立つ作品だ。
僕がこのマンションを買ったとき、いつも自分の顔を見るなら、鏡も綺麗な方が良いだろうとわざわざ誂えたものだった。
「この鏡は元の住人様のものでして、一点物の意匠の作品です。本来なら外すべきものですが、この鏡を含めてこの部屋らしいかと思いまして、残しております」
ニコッと珍しく狐目の男が笑った。
半分は本当で、半分は嘘だ。
この鏡を外そうとすると、作業員が怪我することが続出し、この狐目の男の枕元に何度も僕が立ったから、いいかげん外すのを諦めたのだろう。
「ほぉん、綺麗な夫婦の鶴やなあ。鶴を見ながら首を吊るってええ趣味してるわ」
男は片隅の鶴を一度だけ確認してからそう言った。
「まあ、ここでええよ。どうせ寝るのに帰ってくるだけやからね」
「さようでございますか。それでは成田様、あちらで契約書の確認をお願いします」
「ん~、適当に名前書いといてくれればエエよ~」
上質のスーツに身を包み、鏡に背を向ける瞬間に見えた襟足さえも綺麗に整えられていた。自分の容姿の価値をしっかりと理解している男だろうことは直ぐに分かったし、この男は幽霊なんていても気にしないだろうと思った。
***
男の名前は成田狂児と言った。三十過ぎと思っていた男は、実は四十を過ぎていたらしく、思ったよりも年をくっていて驚いた。だが、仕事から帰ってきたときなど目の下の黒い隈がひどいときは年相応に見えた。
成田の職業は、ここに引っ越してきた日にはすぐ分かった。彼の背中に和彫りの鶴がいたからだ。背中の刺青が鶴だったから、この鏡を気に入ったのだろう。
だが、気になることが一つだけあった。
聡実。
成田の右腕に彫られた名前だけが、成田の幽霊よりも怪異めいた雰囲気を和らげていた。
彼は鏡の前で身だしなみをしているとき、風呂上がり、髪を乾かすとき、何の気なしにその腕の墨に目を向ける。
成田の身体はその年代の男性にしては美しく、刺青も相まって芸術めいていた。
なのに、その名前だけが彼の中で異彩を放っている。
他の刺青よりやけに濃く、達筆な文字ではあったがどこか刺青としての完成度は低いような。なんとも言えない誰かの名前。
それに視線を向けるときだけ、成田もまた、人間らしく見えた。
おそらく「さとみ」と読むのだろうが、その名前を成田が呼ぶのを僕は聞いたことがない。
普通なら、腕に彫るほどなのだろうから、独り言でも呼んでもいいだろうに、彼が聡実の名を呼ぶことは決してなかった。
幾度かの季節を跨ぎ、やがて僕が成田の居るこの部屋になれた頃に、彼は初めて人を呼んだ。
「わ、鶴や」
暗かったサニタリールームにパッと電気がついた瞬間、聞こえてきた声は、まるで光のようだった。
そう思ってしまったのは、僕も大概成田にやられていたからだろう。
そう、僕と成田は悲しいくらいどこか似ていたのだ。生き方も、そしておそらく死に方も、きっと僕たちは似るのだろう。そう思っていたのに、そんな僕を置き去りにするように、それは訪れた――
その声も、その姿も、確かに『光』に僕は思えたのだ。
「聡実くんなら気に入ってくれると思ったわ」
サニタリールームと廊下を繋ぐ扉から姿を現したのは、若木のような青年だった。
そしてその後ろに立つ成田は、僕が今まで一度も見たことのないような、優しい目をしていた。
ああ、この子が聡実なのか。
僕はすぐに察することが出来た。
成田が聡実を呼ぶ声の柔らかさ。
こみ上げるものを抑えきれない視線。
それらの全てが、言わずともこの青年が成田の特別であり、全てなのだと分かるような愛しさで溢れていた。
「鏡に鶴なんて、さすがヤクザやな……」
「うそん、それ、俺やないよ。もともとついていた鏡なん」
「はぁ……」
聡実はその細くて長い指を僕に近づけてくる。鶴に触れるなんていつもなら許さないところだが、僕は何故か聡実ならそれをしても構わないように思えた。
少しだけ恐れるように鶴に触れられた瞬間、キラキラと綺麗なものが自分の中に流れてくるような不思議な気持ちで満たされた。
それは僕が死んでから――いや、生きている間にも一度も感じたことのない、きれいなきれいな感覚で、僕は己に身体が亡いことを、このときばかりは恨めしく思ってしまった。
「綺麗な夫婦鶴やな」
「俺と聡実くんみたいやろ?」
成田が聡実の背後から覆い被さるように抱きしめたのを見たとき、僕は初めて恥ずかしくなった。
この部屋に何度か入れ替わった住人の中には、ラブホのようにこの鏡を使う輩もいたのに(もちろんそういう輩はすぐにたたき出してやったが)、この二人のそういうところを見るのは、どこか申し訳ないような、気恥ずかしさを覚えたのだ。
「何が、夫婦や。そんなんいいから、他の部屋も見せてください」
「はいはい」
嬉しそうにそう返事して、成田と聡実はサニタリールームから出て行った。
それから、頻度は少ないが季節に一度くらいは聡実がこの家にくることになる。
そしてある日、僕は初めて成田の口から「聡実」という言葉を初めて聞いたのだ。
「聡実くん……」
成田、そう言ったお前のその顔を、聡実くんが見なくて良かったと、僕は思う。
きっと自分でも思わず呼んでしまったことに気づかないほど、成田の顔は弛みきっていた。嬉しさで満ちあふれていた。
鏡に向かって、だらしくなく、笑を隠しきれない弛みきった顔に、僕はこの男がようやく幸せになれたのだと気づいた。
それはただの鏡成り果て僕には羨ましく、同時に褒めてやりたいものにも思えて。
浮き足だって風呂に向かうその背中に、刻まれた人の爪でつけられた傷跡に、僕は小さく笑ってしまった。
僕の人生は何もなかった。
どんなに金を稼いでも、どんなに人間と関わっても、どんなに生きても、死んでいることと変わりがなくて。
だから早々にこの世とさよならしたのに、それでもその先にこんなことが起こるなんて思いもしなかった。
昔も今もこれからも、僕には何もない。
それでも今、このとき、僕は初めて、僕以外の誰かを祝福したいと思った。
よかったね、成田狂児。
君は僕とは違って、幸せになれたんだね。