何がおきているのか分からない 何が『お勉強頑張って~』や、このドアホ!
聡実はそう思いながら、ぼんやりとざくろの椅子に座っていた。スナックというものに始めてきたが、どこか落ち着く気がするのは店内にいる人たちが、おじさんも若者も混じって楽しそうにしているからだろうか。
大学のコンパで行った居酒屋とはまた空気が違ったが、女の子の接客があるような店でなくて良かったなと思った。
(何時になったら帰ろ……)
ここに来たのは午後九時少し前。現在の時刻は午後十時半。
十分義理は果たしたと思っている。
丸山はまだいたそうだから、放置でいいだろう。勝手に馴染んでくれ。
「あの、森田さん、僕……」
「あ、岡君。今日の曲でどの曲が好きだった? 俺の実体験も実は交えてるんだけど、どの曲がそうだったと思う?」
口早に森田が聡実の言葉を遮るので、聡実はまたどうしようもなく椅子に座り直した。
「今回、自分的には気に入った曲ばかり選んだつもり」
森田が話しかけてくるが、聡実はそれどころではない。
(そろそろお腹すいてきた……)
狂児との昼食は一時過ぎからだったが、それからすでに八時間は経過している。その間に聡実の口に入ったものと言えば、オレンジジュースと酒のつみまみの柿ピーだ。
昼に食べた美味しかった空心菜や、酢豚はすでに消化されている。
いい加減しっかりしたものが食べたくなっていた。
(夕飯……何にしよ)
そう言えば中華に行ったのにラーメンを食べていなかったなと思う。
ラーメン……
せっかくなら食べておけば良かった。
「でさ、結構俺としては性的に書いた歌詞だったんだけど、岡君はどう感じた?」
「塩ラーメンですかね」
「え」
「え?」
「お腹すきません?」
聡実が表情を変えずにそう言うと、純子がニコッとしながら、
「あるわよ」
と言ってきた。
「え?」
「塩ラーメン。美味しいの。でも私、今接客中だから、あなた、自分で作っていいわよ」
「え?」
何を言われてるのか分からなかったが、純子はカウンター下から、有名メーカーのラーメンを取り出すと、聡実に差し出してきた。
聡実はポカンとしたまま、思わずそれを受け取る。
「キッチンとまで言わないけど洗い場かねたのがあの奥の部屋にあるから。ね?」
「ねっ、て……」
聡実は純子に促されるままに奥の部屋に案内される。
カチャリと部屋のドアをあけると、あからさまに休憩室と思えるような場所でおおよそ台所には見えなかった。
聡実は一瞬息を呑み、大きく目を見開いた。
後ろに居た純子にその様子が見えなかったのは幸いだったが、それでも目に飛び込んでくるのは殺風景な部屋の風景。
四畳半よりは広いが決してゆっくりできるはずのない場所には、テーブルと椅子。
そして隅の方に手洗い程度の流しと、卓上コンロが並んであった。
しかし、聡実の目を大きく開かせたものは、そういった日常にありふれた物ではなく、今、目の前、その椅子に座っている一人の人間の存在だった。
その部屋のギシギシと音が鳴りそうな椅子には、一人の男が座って眼を閉じていた。
聡実は一瞬、何が起こったのか分からなかった。
自分が今、どこにいるのかも。
「じゃ、そこで食べていいから」
ドアのところで純子がそう言う。
「あ、いや」
聡実は振り返り、純子を見る。何か言わなければと思った瞬間、
「お父さんと仲良くね」
と、ニコリと微笑まれた。
全然、「お父さんと仲良くね」なんて思っていなそうな笑顔に、彼女が自分たちの関係がそうではないことに気づいていると理解するには、もうワンヒントが必要で。
とどめに純子が自分の右腕をわざとらしくさすったので、さすがにそれで親子とは思ってないことは分かった。
そして同時に自分と、この眠る男、両方をこの女が知っているということも。
「最悪や……」
パタンと閉じられたドア。
椅子に座った男はまだ眼を閉じている。寝ているのだろうか。
随分疲れた顔だと思ったが、聡実は諦めてラーメンを作ることにした。
簡易の卓上コンロだけが置かれた場所に、鍋に水を入れて火を焼べる。
(どうしてここにおるんやろ)
そう思ったが、何も言わずに黙々とラーメンを作る。
すると、音も気配もなく、突然それはきた。
「何食べるん?」
ひっそりと夜が似合う声が背後からして、自分の腕時計をつけた方の左手に、己のそれをするりと絡ませた。
耳元には唇が近づいていて、覆い被さるよう背後から、捕らわれたことに気づいたのは、そうされてからだった。
「ふふ、時計、似合ってるわ」
ご機嫌そうな声はどこか気怠げで、だからこそぞくりと艶やかに聞こえた。
頭の中で警報が鳴る。
どうしてここにいるのか。
どうして背後からこんな姿勢で、自分は覆い被さられているのか。
そんな関係では自分たちはないはずだ。
「ちょっと……狂児さん……!」
「ふっ、夢の中の聡実くんも、すぐに赤くなって可愛えな?」
うっとりと嬉しそうな声でそう言われて、ようやくこの男が寝ぼけているのだと気づいた。
「狂児さん、ちょっ――」
その腕の中で、上体だけ必死に反らして振り向くと、狂児は何の光も差さない瞳をせて、にっこりと微笑んでいる。
「今日はいいことづくしやなあ? 昼は聡実くんとご飯食べられたうえに、こうして夢の中でも会えるなんて。夕方ろくでもないことあったけど、全部忘れそうや」
夕方何があったのかふと疑問に思ったが、それよりもいつもより距離が近い狂児にアワアワとうろたえてしまう。
動こうにもそろそろお湯が沸いてくる。火傷でもしたら大変だ。
狂児は聡実の左手首とその腕時計をずっとすりすりと指の腹でなぞっている。
いつもなら絶対にされない行為に、段々聡実は呼吸が苦しくなってきた。
「塩ラーメンかぁ。聡実くん、それで足りる?」
近い距離でそう囁かれて、聡実は口をはくはくと開いたまま、小さく肯いた。
すると狂児はふっと笑って、意味の分からないことを言う。
「やっぱ夢やな。聡実くんがそんなインスタントラーメン一つで足りるはずないわ」
(は――あ!?)
どんだけ人を大食らいだと思っているんやと思わず抗議しようとした瞬間、ばくりと言葉を丸呑みされた。
否。
言葉ではない。ぽっかりあいていた口だ。赤い腔内に入り込んできたのは、苦い味でそれがタバコの味だと気づいたのは、鼻に抜けた狂児のいつも吸う煙草の匂いからだった。