風邪 その日は冬の東京にしては珍しく温かい陽気の日だった。
午前七時過ぎ。私はマフラーをきっちりと巻いて、コートを着込んでまだ相手もいない下町の商店街を駅に向かって歩いていた。
そしてとある小さなビルの前を横切った瞬間、
「ちょぉ、待って。お姉ちゃん!」
ヤケに大きな声で呼び止められて、ビクリとしてしまった。男性のよく響く大きな声。
けれど、そのイントネーションは東京のものではなく、たぶん関西の方だろう。
振り向くと、ビルの前で箒を持った男がこちらを見ていた。ひどく背の高い顔の濃い男だ。くしゃりと誑した前髪の合間から、意志が強いだけでは言い表せない太い眉が見えて、それに見合うだけのヤケに濃い顔。イケメンというよりは色男という表現がよく似合う。 ただし目尻と口元にうっすらと皺があったので、四十は超えていることは分かった。
首元がしまったシャツの上にカーデガンを羽織っている。
私は立ち止まってしまったことを少しだけ後悔する。
まったく見たことも知っているわけでもない男だったからだ。
「なあなあ、お姉ちゃん」
ズカズカと男が近づいてきて、私は思わず後退った。
「ちょおっと、ここで茶、しばいていかへん? 少しだけ。なっ?」
ニカッと陽気に笑う顔が、人なつっこそうだが、得体の知れない怖さが忍び寄る気がした。男が指さしたのはビルにつけられた看板。
そこには、【成田法律事務所】と書いてあった。
***
「おはようございます」
入るつもりもなかったのに、断るはずが気がつけばその法律事務所の中に入らされていた。強引に背中を押されたわけでもない。そのまま私は駅に行けば良かったはずなのに、「時間ある? 暇じゃない? でも、自分、少し落ち着いた方がええよ。うち、珈琲でもなんでもあるから飲んでくとええよ」
人の良さそうとはまったく言えないのに、気がつけば階段をあがり、二階にあるその事務所に入ってしまった。こんな朝早く。
にもかかわらず、窓際の机には、一人の大層綺麗な青年がスーツ姿で座っていた。
「きょうじさん、朝からですか……」
こちらを見て、入ってきたのが男だけではなく私もだと気づいた青年は、少しだけ目を見開いてから、小さくそう言って、それからすぐに手前にある応接セットへとやってくる。
「おはようございます、どうぞ腰掛けてください」
丁寧な物言いに、困惑しながら私はその場に立ち尽くす。
「え、でも……別に私何も相談したいわけじゃなくて……」
「ああ、気にしなくて良いですよ。そのおっさん、気になった人がいるとすぐ事務所に連れ込むんです。今時ヤクザでもそんなことせえへんのに、厄介なオッサンなんですよ」
少しだけ混じった関西弁に、この青年も関西の人なのかと思った。
けれど、後ろの大男のような圧の強さはない。
キラリと胸に光るひまわりに、彼が弁護士なのだと分かる。
「ええ、さとみくん、びといわぁ。なんでもかんでも連れてきてるわけやあらへんのに」
「それならしっかりもてなしてください。お嬢さん、珈琲は飲まれますか?」
ポンポンと私が間にいるにもかかわらず二人は会話しながら、最後に私にそう聞いた。
「え、あ、はい」
思わずそう言ってからしまったと思ったが、すでに遅い。
「お姉ちゃん、コートひっかけるよ」
うしろの【キョウジさん】と呼ばれた男が私に手を差し出すので、私はコートを思わず渡してしまう。
「荷物はこれに入れてな」
「は、はぁ……」
言われるがままにトートバッグをそこに置く。
「レイコーとホット、どったがええ?」
「れいこ?」
「ああ、アイスコーヒーとホット、どちらにしますか?」
いつの間にかテーブルの対面ソファに座った【サトミくん】にそう聞かれて、私は思わず「アイスで」と返していた。
今日は朝からとても暖かいので、ホットを飲む気にはなれなかったのだ。
「きょうじさん、あの、チョコも御願いします」
「はぁい~」
サトミくんの言葉に機嫌良くキョウジさんは返事をすると奥へと入っていく。
この二人はどういう関係なのだろうと思った。
青年は私より少し上、三十代半ばに見えた。キョウジさんは四十後半には見えたので、十歳は年が離れているだろう。
掃除をしていたのはキョウジさんの方なので、彼は事務員なのだろうか。
でも、どうして私をここに引きずり込んだのかが分からない。
もしかして――
そこまで考えて、私は思わず首元に手をやってしまう。
「声……」
「え?」
静かな声で、サトミくんが私に話しかけてきた。落ち着いた柔らかい声だった。
「声、掠れてますね。風邪ですか?」
茶色の優しいセルフレーム越しに、心配そうにそう問われ、私は慌てて首を横に振る。
「いえ、そうでは……あ、いや」
否定はしたが、風邪でなければなんなのかと問われたら困ると思ったが、幸い、それは問われなかった。少しだけホッとする。
「はい、キョウジ特製珈琲やで~!」
戻ってきたキョウジさんは、事務所の中だというのに大きな声でそう言うと、私にはアイスコーヒー。サトミくんにはホット珈琲を渡した。
そして机の真ん中に置かれたのはウイスキーボンボン。
朝からそんな物を置かれて私は戸惑う。
「あ、お酒は駄目でしたか?」
「……は、はい」
私はお酒は得意ではない。だから正直にそう答えると、サトミくんは「そうですか」と静かに肯いた。
「今日はどこかへお出かけの予定でしたか?」
「いえ……あ、はい」
やはり私は変な返し方をしてしまう。こういうとき、どう返事をすれば良いのか分からなかった。
駅には行くつもりだった。電車にも乗るつもりだった。けれど、そこから先の行き先を決めてはいなかった。
そのことをまるでサトミくんは見透かすみたいに、
「体調、本当に悪くないのですか? 声がずっと掠れています」
と私を心配する。
私は首元のタートルネックをさすりながら、「大丈夫です」とだけ返した。
私は大丈夫なのだ、私は――
「爪、綺麗ですね」
「え?」
他愛のない話をまだサトミくんは続けるつもりらしく、珈琲にミルクとガムシロップを入れようとした私の手を見てそう言った。
私は自分の手を見て、ドキリとする。
右手の親指の爪が折れていた。左手は綺麗なままだが、右手は明らかに不格好で、慌てて隠した。
「どうしました?」
幸い、サトミくんが見ていたのは左手の方だったらしく、私は少しだけホッとした。
ガムシロもミルクも入れるのはやめた。
そのまま左手で右手の親指を隠しながら、アイス珈琲を両手で持って飲み干す。
早くここから出ようと思った。
どうしてここに入ってしまったのか。過去の私を問い詰めたくとも、気がついたらキョウジさんに無理矢理でもなく招かれていたのだから、どうしようもない。
ああ、早く、ここから逃げないと――
そう思った時だった。
突然、私のトートバックの中で携帯電話がけたたたましく鳴る。
こんな時間に着信がくるなんてあり得ない。それが恐ろしくて怯えると、
「大丈夫ですよ、とっていただいて」
とサトミくんに言われてしまい、私はどうしようもなくて、震える手でトートバックの中に手を入れる。昨日着ていた白いセーターが邪魔だ。それを押しのけつつも携帯を手にとると、着信は彼氏からだった。
一瞬、息を呑み……
それからホッとして涙が出そうになった。
けれどすぐに、今度は混乱した。どうしよう。どうしよう。
今度こそ私はそう思った。
だってこの携帯は、彼氏とカップリングアプリが入っている。彼氏が私の場所を突き止めたら私は――
思わず反射的に立ち上がる。ぐらりと素足のスリッポンが不安定になり、私はバランスを崩しそうになった。
「おっと」
それを背後からキョウジさんが支えてくれた。
そして手前では私の左手をテーブル越しにサトミくんが掴んで、よろけるのを止めてくれた。
サトミくんは、私に柔らかい目を向けると静かに言う。
「大丈夫ですよ、警察は呼びません。生きていて良かったですね」
「え――」
私は言われたことが一瞬理解が出来なくて言葉を失ったが、すぐに彼が私がしてきたことを分かっていることに気づいて、唖然とした。
「ど、どうして――?」
「ん~……」
困ったような、なんとも言えない苦笑いを浮かべると、サトミくんは私に言う。
「首、絞められたのかな? と思って」
「――!」
どうしてそう思ったのだろう。
サトミくんは淡々と説明してくれる。
「今日は朝から暖かいのに、マフラーもつけて、中もタートルネックでしょ? そしてしきりに首を触っている。風邪を引いているわけでもなければ、酒ヤケでもなさそうだし」
確かに私は首をしきりに触っていた。
今朝方、彼氏と喧嘩して、いきなり激昂した彼に首を絞められたのだ。
殺されるかと思った。意識がなくなると思ったとき、頭の方に彼が飲んだままだらしなく放置していたビール瓶があったから、それで彼の頭を殴ったのだ。
そのまま彼がバタンと倒れてしまったので、私は彼が死んだかと思って、そのまま彼の家を出てしまったところ、キョウジさんに呼び止められてしまったのだった。
「酒は飲まないはずなのに、貴女からはほんのりビールの匂いがして、そのトートバックの中の白いセーター、少しだけ赤い染みが見えました」
今朝、彼氏の頭を殴ったときに、少しだけ血がでていたのだ。
白いセーターにはそれがついていたので、やむを得ず彼氏のタートルネックを探し当て、それを着て出てきた。
「それに左手はそんなに綺麗なのに、右手だけ爪がボロボロだから、ああ、何か片手でやったんだな……と思ったところに、突然の電話で、貴女が怯えた顔から一転して安心した顔になったので――」
「それだけで――」
「あ、すみません。一番肝心なことを忘れていました」
サトミくんは困ったようにはにかむと、チラリと私の背後のキョウジさんを睨み言う。
「この人が連れてくる人、大抵碌でもないことに巻来れている人しか連れてこないので、あなたも何かあったんだろうなと思って」
サトミくんはそう言うと、私にもう一度、「座ってください」と促した。
「もしかしたら、僕がお役に立てるかもしれません。だから、何があったのか話してくれませんか? 詳しくは何一つ分からないので」
優しい笑みは、私を安心させるものだった。
私はへたりと座り込むと、泣きながらサトミくんに話しはじめる。
彼氏に殺されそうになったこと。
逆に殺してしまったかもと思ったこと。
そうではなかったと安心したけど、もしかしたら彼がくるかもしれないこと。
それらを淡々と聞いてくれたサトミくんの背後で、キョウジさんが少しだけ席を外したけど、帰ってきたら彼はニコニコしながら、
「彼氏さん帰ったよ~ お姉ちゃんはこれから警察行って、殺されそうになったって言えば大丈夫ヨン」
と言ってくれた。
気がついたら、私は誰も殺していない被害者になっていた。
警察が迎えに来てくれたので、ついていくまえに、せめてもお礼だけでもとサトミくんに向かって声を掛ける。
「あの、成田さん……!」
サトミくんと言うのも気が引けて、そうサトミくんに呼びかけると、サトミくんは大きく目を見開いてから、くすりと笑った。
「僕、岡って言うんです」
「え? じゃあ?」
キョウジさんを見れば、彼も
「俺もオカです~」
と嬉しそうに自分の左手を見せてくれた。
そこにはキラリと光る指輪があって、私はポカンとすると、サトミくんははにかみながら言う。
「成田って名字はもう使わないから、記念に残しているだけなんです」
何故なのか分からないけれど、そう言ったサトミくんの手にも指輪があって、私はなんとなくだけど二人の関係が分かった気がした。
***
朝から突然の来客対応をした後、僕は深くため息を吐いた。
「僕、徹夜だったんやけど?」
「奇遇やね、俺も」
ニコッとした狂児さんが腹立たしい。
僕はぐっと彼の首を引き寄せると、問答無用で口づける。
驚いた顔をした狂児さんの口の中に、あめ玉をコロリと一つ。
「ん……? んんん?」
僕は口を離すと、ニコッと笑って言う。
「狂児さん、風邪引いてるでしょ?」
いつもならカーデガンなんて羽織らない人が今朝は温かいのに羽織って外に出ていたのでそう言うと、狂児さんは苦笑いしながら、
「ほんに聡実くんにはかなわんなあ」
と言った。