『天上の愛』 天界の端のさらに端。小さな泉の畔にある木の陰に二人の天使がいた。一人の天使は困惑した表情で大きな木を背にして、羽が一回り大きな天使にじりじりと詰め寄られている。
「やはり……いけません。神の祈りから生まれし我々は精神のみでしか繋がってはいけない。それにあなたはこの天界で神に近い天使……禁忌を犯せばその大きな力を失ってしまいます」
「……お前に触れることが罪だというのならば……俺は聖なる力などいらぬ」
「マサト様……ぁ……だめ、触れられたら……私、は」
マサトと呼ばれた天使の手がトキヤという名の天使の頬に触れて、宝石のような二人の瞳が合う。マサトの手を覆うレースが肌を撫でて、吐息の掛かる距離まで近づくと蒼の宝石は不安で揺れるが、紫の宝石が優しく見つめて唇を塞いだ。
(マサト様の唇が……私の唇に)
トク、トク、トク……初めて触れた唇の温かさにトキヤの鼓動は知らない速さを刻む。だが、これは天に存在する者としての禁忌。神に遣わされ、人々へ愛を与え、導く天使は肉体の触れ合いを伴う愛し方や交わりは穢れを成すとし、禁忌とされている。キスも神の教えに背く、許されざる行為だが……一度きりならばまだ引き返せるはず、だった。
「唇というのは柔らかいのだな」
マサトに至近距離でそう微笑まれてトキヤの胸の高鳴りは止まらず、できることならもっと触れたいと思ってしまい、それが伝わったのか。抱きしめられている腕に力が込められた。
「お前は細いのだな。こうしていると折れてしまいそうだ」
「ふふっ、もう、そんなに脆くはありませんよ。……ン」
トキヤが小さく楽しそうな笑い声を零すと啄むようにちゅっ、と音をさせて唇、頬にキスが落とされていく。
「憂いているよりもそうやって笑っている方がいい」
これ以上は引き返せなくなってしまうと思いながらも優しい瞳に見つめられて、もう一度触れたくなったトキヤは震える手を背中に回して甘えるように衣を軽く掴んだ。マサトは小さく笑い、吐息と共にその物欲しそうな唇を塞いでくれた。
「……んっ、ンぅ……!?」
唇の隙間からぬるりと舌が咥内に入り込んできて反射的に身体がビクッと跳ねたが、優しく羽の付け根を撫でられて身体の力がすぐに抜けていく。
(これも……キス? 段々、身体に力が入らなくなって……)
何も知らないトキヤは咥内に舌が入り込んできたことに驚き、マサトは悪魔に魅入られてしまいこのまま喰われてしまうのかと過ったが、咥内をまさぐる舌が気持ちよくて気が付いたら夢中になっていった。
触れ合って交わることが何故、禁忌だとされるのか。愛する者に触れるとその者しか見えなくなり、他のことが考えられなくなってしまうからなのかもしれない。今まさにそんな心地のトキヤは頭の片隅でぼんやりとそんなことを考えていた。
「……は、ぁ」
甘い吐息が漏れて離れた唇から唾液が落ちた瞬間……穏やかで暖かい風しか吹かない筈の天界の風がびゅうっと強く、冷たく吹いて辺りが急に薄暗くなっていき、大きな音で雷鳴が轟くと脳内に神の声が響いた。
―― 天使ともあろう者が愚かにも禁忌を犯し、肉欲に走ろうとは……いますぐ改心せよ
いつもは荘厳で神々しい声もいまは冷たく、ただ威圧的だ。トキヤはぶるりと身体を震わせて、何も言わずにそっと身体を離そうとしたがマサトはその肩を抱き、力強く引き寄せた。
「……マサト様」
「愛を導く天使が何故、愛を捨てなければいけないのですか! 愛しい者へ愛を以て触れることがどうして罪だというのですか!」
マサトはトキヤを守るように抱きながら天を仰ぎ、神に訴えたが雷鳴が止む気配はなく、より一層冷たい声が響き渡った。
―― 我々は愛を与え、導く存在……愛を育むことは禁止してはおらぬが、不要に交わることは不浄であり、堕落に繋がるもの。それが何故、わからぬ? お前、それでも私に近い力を持った天使か?
神の怒りのあらわれか。ゴウッと先ほどよりも強い風が吹き、美しく咲く花の花弁が散り散りに吹き飛んでいく。
―― トキヤ……お前は非常に優秀だ。マサトのように私の加護を与えてやってもいいと考えている……いますぐ、改心し、不浄な行いをしないと私に誓え
それを聞いたトキヤは瞳を閉じて、大きく深呼吸をする。再度、静かに瞳を開くと千切れた花弁が目の前に落ちてきて、それを祈るように掴んでゆっくりマサトを振り返り、見つめた。
「マサト様、すみません……」
「ト……ッ」
眉を下げて辛そうな表情でマサトの首に腕を回して自分からキスを仕掛けてきた。驚いて目を見開いたマサトだったが、すぐに腰に手を回してトキヤからの愛と覚悟を受け止める。先ほど掴んだ花弁が手から離れ、渦を描いて薄暗い空に吸い込まれていく。
―― この……ッ、愚か者どもめ!
一際大きく神の声が響き、強い光が空を切り裂く。同時にマサトは力を込めて地面を強く蹴り、羽を大きく広げてトキヤを抱えながら一気に天へと羽ばたいて雷雲を越え、その先の眩い光の中へと消えていった。
「……キ……トキヤ!」
「ん……ま、さと……さま? まぶしい……」
天を駆け抜けたときの衝撃で気を失って倒れていたトキヤが瞳を開けると広げた大きな羽越しでも眩しいくらいの光を背にしたマサトが心配そうに見下ろしていた。
「ここは一体?」
「それが……わからないのだ」
神の雷から逃れるために力を振り絞って空を飛び、雲を突き抜け天を駆けて気が付けばその先には何もない、光が美しいこの場所に辿り着いていたのだという。天界のようにもみえたが、他の天使とコンタクトが取れず、神の気配も全く感じることが出来ない。
「私たちは……やはり、追放になるのでしょうか」
禁忌を犯した者は清らかな心がないと判断され、神により聖なる力をはく奪されて最悪は天界追放。行き場をなくし、その罪の意識に心が苛まれ、弱った心を悪魔に魅入られて堕天してしまう者もいる。しかし、二人の羽は変わらず純白で力も失った様子はなかった。
「――そうだな。神のご意思に背いたのだ……本来ならばそうだろう」
意味ありげに話したマサトはトキヤの手を取って指を絡めるように握るとトキヤに唇を寄せた。
「ん……、えっ」
突然、握った手の内側からやわらかい光が漏れ始めた。
「……トキヤ、一緒に手を離してみてくれないか?」
「は、はい……」
二人は息を合わせて同じタイミングで手を離すと手の中から小さな光の玉がふわりと飛び出して、二人の間でふわふわと浮いている。トキヤが瞳を瞬かせると光はすう……と消え、そこには小さな何かが居た。それは背中に指の先ほどの羽が付いていてパタパタと動かしても上昇できず、膝のうえにぽとりと落ちてしまった。手のひらサイズの生き物はトキヤの膝の上で二人の顔を不思議そうに見上げている。
「……天使、でしょうか?」
「恐らくは」
どうして握りあった手の中から天使が……トキヤは呟き、膝のうえの天使をじっと見つめた。
「身体の内側からいままではなかった強い力を感じないか? 泉のように湧き出るような……」
「……感じます。私は星の光が降り注ぐような感覚ですが、いままでにない大きな力なのは確かです」
見たこともない天界より美しい場所、いままでに感じなかった力、天使の発現。そして天使は、神の祈りの力でしか生み出すことができない存在だ。
「我々は、神と同等の力を得た……ということになるのだろうか」
「にわかには信じ難いですが……でも、そうでないとこの子が生まれた理由がわからないですからね」
貫き通した愛が大きな力となって天界から隔離された二人だけの聖域を作り出し、この天使は二人の聖なる力と心が合わさり、生まれたのではないか……推測にすぎないけれど、状況的にはあり得ることだった。
小さな天使は手を広げパタパタと羽を動かすが、少し浮く程度しか飛べず、見かねたトキヤがそっと抱えて二人の顔が見えるところまで上げてやると嬉しそうに笑った。
「……髪の色といいどことなく、トキヤに似ているな」
「ですが、瞳はマサト様と同じ色ですよ?」
二人は自然と寄り添って小さな天使を慈しむような瞳で見つめたが、ふとマサトの表情は神妙なものとなった。
「トキヤ……俺が神に逆らった所為で結果的に天界から出ることになってすまない。帰してやろうにもどうやってここまで来たか、俺自身にもわからなくてな……」
「いえ……どちらかといえば、火に油を注いだのは私の方ですから……すみませんでした」
戻る術がわからない以上は、もしかしたら堕ちたことと同意となるかもしれない。だが、掟に縛られ、愛しい者に触れることさえも憚られる天界より、ここで二人きり、一緒に生きていく方が幸せなのかもしれないとトキヤは感じていた。二人から生み出された小さな存在は手から降りて雲の上にころんと転がったかと思えばスヤスヤと寝息を立て始めた。トキヤは愛おしさがこみ上げてきてその小さな頭をそっと撫でてやる。
「愛するあなたと一緒なら私は何も怖いことはありません」
「ありがとう、俺もだ。何があっても俺がお前を、いや、お前とこの小さき者を守る……愛している、トキヤ」
静かに光が降り注ぐ中で唇を重ねて、いつかこの身が朽ちて違う何かになったとしても一緒にいよう……二人は永遠の愛を誓いあった。