鯉博 夢十夜パロ(オマージュ) ふと気づくと、夜だった。
目の前にはあのひとが静かに横たわっている。
「もうすぐ私は死ぬよ」
静かな声だった。このように話す人だったかと思って、不思議と思い出せなかった。ただ珍しいとだけ感じた。
薄い壁の向こう側にあって、よく見えないことの方が多かった顔が外気に晒されている。髪が白い枕の上に散らばっているさまがやけに鮮烈だった。そのひとは存外まろやかな輪郭をしていたことを、今初めて知ったように思った。
不健康そうな白さはそこにはない。新雪の奥底、紅梅が眠っているような頬をしている。いつもよりずっと健康そうに見えた。とても死にそうに見えないそのひとは、やはり死ぬのだという。その声があんまりにも静かで、染み入るようだったから、ああ死ぬのだなと思った。
「死んでしまうんですか。もう」
覆い被さるようにして覗き込む。身体は重かった。
「死ぬとも」
何を見ているのかよく分からない人だった。視線の先に何があるかは分かるのに、いつだって遠いどこかを見ていた。けれど今は違った。リーは、烟るような睫毛で縁取られたまなこの奥に己の姿が在るのを見た。
漸く、おれを。身のうちから湧き出た衝動に近い何かは、かたちを得る前に消えていった。
これでも死ぬのかと思った。こんなにはっきりと、自分を見ているのに。
「……ねえ」
もうじき死ぬそのひとは眠たげな目をして、小さく呼びかける。ここにはふたりの他、誰もいない。
寝ているその人の近くに手をついて、そうっと身をかがめた。内緒話をするかのようだった。
「なんですか」
「私が死んだら、埋めてくれ」
「そんなこと言わないでください」
「君こそつれないことを言うなよ」
ふう、と。赤い唇から吐息が漏れた。
いのちが吐き出されている。僅かに空いた隙間から、生がするりと抜け出していっている。
それが嫌だと思った時にはもう、唇が重なっていた。行くな、行かないでくれと縋り付いていた。
ずっと近くでそのひとは笑っていた。ばかなやつだと困ったように笑っていた。ばかにしていると言うには、幾分やさしすぎる顔だった。
「大きな真珠貝で穴を掘ってさ。そうしたら、そのうち天から落ちてくる星の破片を置いてくれ。墓標だ。それで、待っていてほしい。また、逢いに来るから」
「……いつ、逢いに来てくれるんです」
つう、と逸らされると思った視線は、そうはならなかった。
ほんの僅かな例外を除いて、誰のことも見ていなかった瞳は、今はずっとリーだけを見ている。
「日が出て、沈んで。それをずっと繰り返すだろう。赤い日が、何度も同じように───君は、それでも待っていてくれるかい」
返事はしなかった。かわりにひとつ頷いた。
静かな声が、ぴんと張った弓の弦のように響いた。
「百年だ。……百年、私の墓の傍に座って、待っていてくれ。きっと、逢いに来るから」
待っています。ぽつりと返した。
まるいひとみに映りこんだ自分の姿が揺らぐのを見た。ぐちゃりと崩れて、水面が綻ぶ。白い頬を涙が伝った。
───もう死んでいた。
リーはそれから、ドクターが言った通りにした。庭に出て真珠貝で穴を掘った。これほど大きな殻をもった貝がいたろうかと思うこともなく、黙々と掘った。なめらかな七色が、土をすくうたびにちらちら光っていた。湿った土の匂いは、思ったより不快ではなかった。
暫くたって、穴は掘り終わった。
ドクターをその中に入れてやる。柔らかな布団を被せるように、火の消えた蝋燭のようになったそのひとの上に土を被せた。そのたびに、また貝の裏側はちらちら光った。月の光を反射しているのだと、その時初めて気がついた。
それから星の破片を拾ってきて、土の上にそっとのせた。大きくて、まるくて、ぽうっと白く光っていた。たぶん、空から転げ落ちてくる途中で角がとれたのだろう。抱き上げた腕と胸が、少しだけ温かった。
リーは苔の上に座った。ここで待とうと思った。
あのひとの言った通り、幾度も日が昇っては落ちた。とおを数えたあたりから、指折ることをやめた。ずうっと待った。不思議と、それ以外のことは考えなかった。けれどもあのひとは来なかった。
すっかり苔むした標を見た。
「おれは、騙されちまったんですかねえ」
降り出したばかりの雨のような声だった。
すると、標石の下からすうっと何かが伸びた。リーに向かって、青い茎が伸びてきた。それは胸の辺りまで来て、ぴたりと成長を止めた。と思えば、その先で所在無さげに揺れていた細い蕾がふわりと花開いた。真白な百合だった。鼻先で揺れるそれの匂いは噎せ返るようで、けれど嫌ではなかった。
どこからともなく雫が垂れた。ぽたりと滴るそれをじかに受けて、花はふらふら揺れた。
気づけば白い花弁にそっと口付けていた。たった数秒が永遠のように感じた。
花から顔を離した時、リーはふと空を見た。
暁の星がたったひとつ瞬いている。それはちらちら光っていた。
百年はもう来ていたのだと、その時初めて知ったのだ。