できそこないのマリア ──ああ。
周囲をぐるりと見渡していた男の視線が、数十センチ下に向けられた。そこにいる人間が声を上げたからに他ならなかった。
戦場の空は灰と同じ色をしている。生憎の曇天だ。仄かな命の灯火がいくつも消えた地面から立ち上った魂の煙が立ち込めたようだった。腐臭と血の匂いとが混ざり合い、胃の中身を否応なくひっくり返させるような臭気を生んでいた。
「なんだ」
短い言葉を追いかけるように、からりとどこかで音がした。瓦礫が落ちて砕けたのだろう。
長身のサルカズは源石の浮かんだ頬を僅かに歪めた。わざわざ問いかけてやったというのに返事がないのだから、仕方のないことだった。
焔にかたちを与えたような瞳が見下ろす先、フードに包まれた頭がすこしだけ揺れた。ややあってそれが振り向く。なんの表情も見えない。
「そんなに怖い顔をするなよ」
「問いに答えろ」
戦場では一時の気の緩みさえも命取りに成り得る。それを男は──エンカクはよく知っていた。何より、この人間がわざわざ声を上げた場合はろくなことがない。独り合点しているのを放置して後々面倒事を持ってこられるくらいなら、その場で吐かせた方が余程マシだ。
夜の闇を引き伸ばしたような薄壁の向こう側、ドクターはひとつため息を零した。面倒だと思っているのがありありと分かる音だった。
「本当になんでもないんだが。……あそこに転がってる遺体、あるだろう」
妊婦だったんだなと思ってさ。
そう続けた声は無機質さを帯びて、瓦礫と灰とで斑になった地面へと落ちる。エンカクはドクターが顔を向けた先に視線を投げた。
言葉の通りだった。瓦礫に頭を押し潰されたと思しき女性の腹はまるく膨らんで、ゆとりのあるワンピースを押し上げていた。底の平たい靴が片方だけ脱げて地面に転がっている。不自然に硬直した足は真白い。
そう珍しくもない光景だろうに。エンカクは思った。
任務のために赴いたこの地は元より紛争が絶えない。ロドスに所属するよりもずっと前、フリーの傭兵であった頃に幾度か足を運んだことがある。その時彼が流した血をも飲み込んで再び町を形成するに至った土地は、ほんの数日でよく知る姿に戻っていた。
自分よりもずっと背の低い指揮官がどんな顔をしているのか、エンカクには分からない。ただこの人間に黙りこくられるのはあまり好ましいものではなかったから、無造作に音を放った。
「思うところでもあったか」
僅かに俯いていた顔がゆるりと上向いた。ちいさな吐息だけが耳に届いて、暫く後に答えが返る。
「何を言っても傲慢になるだけだろう、こんなのは」
「よく分かってるじゃないか」
「じゃあ聞くなよ、性格悪いな」
「お前がそれを言うのか?」
「絶対言うと思ったよ。全くもう、ああ言えばこう言う……」
呆れたように肩を竦めた後、ドクターは歩き出した。一時間ほど前に出た指揮本部の方向だ。エンカクもそれに続いた。
靴の底が砂をすり潰す音が二人分、途切れることなく続く。数歩分自分よりも前を歩くドクターを見下ろした。首元で緩く結ばれた紐が、戦場の風を受けてふわふわと揺れている。五感の殆どから伝わる情報の全てから、それだけが酷く浮いていた。
エンカクは足を止めた。首だけを向けるようにして、背後を仰ぎ見た。
ロドスが到着した時にはもう何もかも遅かった。密やかに息を吹き返した民の営みは容易く蹂躙され、後には屍と瓦礫の山とが残るばかりだった。テラの大地においてはありふれた光景のひとつだ。
わざわざドクターが来る必要もなかった。ロドスが任されたのは避難民の救護であって、戦闘ではない。エンカクはドクターの護衛としてここにいるだけだった。それを無理矢理連れ出すようにして来たのは、他ならぬドクターだった。
その気になればすぐにでも握り潰せてしまうだろう頭の中に詰まった脳の持ち主が何を考えているのかなど、エンカクは知らない。知りたくもない。投げつける言葉はいくらか浮かんだが、その殆どは彼の胸の内で溶けるように消えてしまった。
であればこれも問う必要はないだろうと、男の喉の奥でぐちゃりと潰れたものがあった。
けれど、小さな背はそれを拾い上げてしまった。
「……忘れないでいようと思ったんだよ」
押し殺された声が囁く。
全てを忘れたばけものは、元に戻ることを何より恐れながら、戦場に立っている。いつか自分がその身を全て浸すだろう地獄に。
鼓膜を揺らしたその答えにエンカクは僅かに瞠目して、何も返さないことを選んだ。
どちらが本来のお前なのだと、そう問うことができなかったからだった。