連れては行けぬ 人ひとり死んだところで、世界は廻ることを止めたりなどしない。変わらず日は昇り、月は沈むだろう。色濃い悲しみもいずれ記憶の彼方へと姿を消す。何もかも自明のことだ。
それでも、今この時自分の心臓は波打つことをやめたのだと、そう錯覚することはあるだろう。
「⬛︎⬛︎⬛︎」
棺の中。与えられた役からも、舞台からも降りることなく息を止めたそのひとが眠っている。今はまだ瑞々しさを保ったままの花に囲まれて。死にゆくいのちが、物言わぬ骸を彩っている。
「⬛︎⬛︎⬛︎」
名を呼んだ。二回目だった。その名で、その名だけで呼ぶことは、とうとうできないままだった。
答えはない。
組まれた手の上に、そうっと花を置く。重いものを持つのが苦手な人だったから。
血の通わなくなった肌の白と、横たえた花の赤が脳裏に焼き付く。視界が滲む。ほたりと落ちる。
リーさん。そう呼ぶ子らの声が遠かった。肩に置かれた手も、背を擦る手も、何もかもが弱々しい。龍のおおきな身体からは悲哀だけが溢れていく。
その日の葬式で送られたのはひとりだけだ。
けれど、死んだのはきっと、ふたりだった。
◆
ざあざあと水が流れている。照明の下でてらてらひかる銀の口から溢れているそれは泡を溶かして、一緒くたに排水溝に滑り込んだ。人気のない食堂で、リーはひとり洗い物をしていた。
もうすっかり夜だった。時計を見ればきっと、二時間もしないうちに日付が変わることが分かるに違いなかった。
今日は十月の末日だった。この日に催される行事の名をハロウィーンという。リーが顔を出しに来たのがたまたまこの日で、菓子の準備やら飾り付けやらに追われる若人たち──リーにしてみればの話だ──が健気に映ったものだから、そこに混ざって手伝いをしていたのだ。だいぶ重労働ではあったが、未だ前線に立つこともある身からすればそれほど辛いものでもなかった。
山のように、とは行かずとも子供たち皆に行き渡る程度につくられた菓子が形成した山はすっかり姿を消して、後には一日中働きっぱなしだった調理器具が残った。リーは自分からその後片付けを買って出たのだ。あの日以来、一人でいることは少し辛くなって、けれど今日は十分すぎるほどの賑わいに身を浸したから。すこしだけ、一人になりたくなったのだ。
一際深い悲しみがこの艦を覆った日が過ぎても、彼と彼の子供たちはロドスとの協力関係を断たなかった。それが所長の意思でもあり、所員らの意思でもあった。
あの日から数年が経って、子供たちはずうっと大きくなった。それに従って、顔を出すことも随分と減った。
乗員らの顔ぶれもその多くが入れ替わった。静かな哀悼が度々満ちては引いていった。
"あのひと"が愛した少女は涙を拭い、立ち続けることを選んだ。あのひとによく似て、強い子だった。
何もかもが変わって、その中でリーだけが立ち止まっていた。
「……」
彼の他には誰もいない広間の中、唯一の音がひたりと止まった。仕事が終わったのだ。濡れた器具を乾燥機に突っ込んで、蓋を閉じる。
これでもう、やることはなくなった。もう夜も遅いし、一晩だけ泊まって事務所に帰ろうか。そうリーが振り向いた時、視界の隅にしろい何かが映り込んだ。視線を察知したのか、ひゅんと引っ込むのまで見えた。
穏やかで、けれど奥底に鋭さの潜む声が飛んだ。
「誰ですか?」
答えはなかった。その代わりに、しろい何かがひょっこり姿を現した。今度は引っ込んだりしなかった。
食堂の入口から頭を覗かせたそれは、昼頃に見たちいさなモンスターたちのひとつによく似ている。違う点はと言えば、あの子たちと比べて随分大きいことくらいだ。
シーツを頭から被ったような姿をしたそれは、顔に当たる部分に黒い目と口があった。ちょうど黒い紙を切って貼り付けたような塩梅のそれはにっこり笑っていた。シーツ越しに手にぶら下げられたカボチャのバケットも同じように笑っている。
ロドスには様々な人種がいるし、年代だって幅広い。大方任務に出ていて昼頃に来れなかったオペレーターだろうと思って、リーは拍子抜けしたように肩を落とした。頭に浮かんだ候補は数人いる。何もおかしいことじゃなかった。
足元までシーツに覆われたそれはずるずる布を引きずって近づいてくる。思わず声をかけてしまった。あんまりにも足取りがおぼつかないので心配になってしまったのだ。
「ああ、あんまり動かないでくださいよ。転んじまうでしょ」
おれがそっちに行きますから。そう続けてシンクの上に僅かに残ったお菓子の袋を摘んで駆け寄った。
近くに寄って分かったことは、その子はやっぱり子供にしては大きかったことくらいだった。ちょうど、記憶の中のあの人のような───いや、やめよう。ゆるりと頭を振る。
「どなたか分かりませんがね、せめて足元くらい出しとくもんですよ。その格好で転んだら、顔面からいっちまう」
そう言ってしゃがんで、足元でたわんだ布を払ってやろうとして……できなかった。その子が飛び退くように後ずさったからだった。
「え、なん……あ。いや、おれはただ単に、その辺の布どうにかした方がいいかと思っただけなんですけど」
もしかして良からぬことをされるかと思ったのだろうか。心外にも程があるが、子供からしたら図体のでかい自分は怖かろう。そう思って優しい声で害意のないことを伝えれば、おばけはこくこくと頭を縦に振った。分かっている、ということだろうか。
そのさまが、何故かひどく重なった。記憶の中のあのひとに。
リーは暫し黙り込んで、気を取り直すようににっこ り笑った。
そのまま、一日中聞いていた言葉を口にした。
「トリックオアトリート」
ちいさなおばけが微かに首を傾げた。自分が貰うはずではないのか、といったような具合だ。可愛らしいものだ。そう思いながら、リーは続ける。
「一日中お菓子を配る側をやってたら、一回くらいは貰う側もやりたくなっちまいましてね」
おばけはこくんと頷いた。そっか、と言っているようだった。
「声が出ないなら、無理に喋らなくていいですよ。こちらは差し上げますんで、おれも何か頂いても?」
元よりここは鉱石病患者の集まる場所だ。人によっては声が出ないことだってありうる。きっと話さないのはそのためだろうと、リーは結論付けた。
しゃがんだ拍子に視界に入ったバケットの中には、いくつかの菓子が入っていた。たまにはこういうのもありだろうと思って口にした言葉だったが、それには首を横に振る動作が返った。
「ダメですか?」
こくん、と首肯される。
記憶の中のあの人が重なる。
──そんなわけがないのに。
「そうですか」
シーツに覆われた頭がゆるゆると左右に揺れた。内側にいる"誰か"が迷っているのは明白だった。
記憶の中のあの人が、また重なる。
──……本当に、違うのか?
「どうしても?」
そうと図って出したはずの声は想像よりも震えていた。
は、と息を呑むような音が聞こえた。
聞き覚えのある音だった。
それが誰なのか、もう分かってしまった。
「……なんて、冗談ですよ」
からかってすみませんね。
そう笑って、少しだけ身をかがめた。所在なさげに揺れていたバケットに菓子を放り込んでやる。かさりと音を立てたそれの下に積み重なったものを数秒見つめて、リーは身体を元のように立てた。
「もう夜も遅い、お帰んなさい」
ひらり、手を振った。
おずおずと頭を下げたおばけがすうっと後ろを向いた。かえるのだろう。
リーはそれを見送ろうとついていった。食堂の扉を押し開けて、廊下へと出たおばけを見下ろす。
「迷子にならないように、気をつけて」
今自分は、上手く笑えているだろうか。
笑えているといい。そうリーは願った。
ちいさな背中が遠ざかってゆく。おぼつかなかった足取りは軽かった。まるで、布がまとわりつくための足がないかのようだった。
廊下の奥に消える寸前、それはくるりと振り向いた。
しろい衣がふわりと広がる。
なかみが見えた。
そうして、瞬きの間に消えた。
がらんとした廊下、ひんやり冷たい金属の壁にもたれかかったまま、リーは呟いた。
「あなたがくれたものなら、なんだって食べたのに」