ドクターには恋が分からぬ。ドクターには、石棺より救い出される以前の記憶が無い。文字も書ければ会話もできるが、己がどのような人間であったか、どうやって生きてきたかをまるで思い出せぬ。であるので、かつての己が獲得した感情も学び直すよりほかなかった。
不理解、恐怖、動揺。負の感情は瞬く間に拾い直された。では正の感情──親愛、友情などだ──はどうかと言えば、それも概ね並行して獲得した。だが恋は分からなかった。目にすることはあった、話に聞くこともあった。だが実体験として、時には身を焼く炎と形容されるそれを得たことはなかった。
どんな感情を恋と呼ぶべきなのか、何をもって恋と定義するのか、ドクターは知らない。けれども別に構いやしなかった。今のドクターに必要なのは戦闘指揮の能力である。色恋に現を抜かしている暇など当然ない。
故にドクターは、自分が他者に向ける正の感情のほぼ全てを親愛と友愛のふたつに振り分けた。それに打算が含まれていないかと問われれば嘘になるが、ドクターはたしかに彼ら彼女らを大切に思っている。皆等しく。
だからきっと、この胸の痛みは何かの間違いなのだ。ドクターはそう考える。ぎりぎりと引き絞られるように痛む胸の中心に、無意識に手を伸ばしながら呟いた。
「リーに、好きな人が」
胸の痛みは消えない。
◆
事の発端は些細な会話だ。
一ヶ月ぶりに来艦したその男──リーから、煙草の匂いが薄れていた。以前はすれ違っただけでも鼻先を掠める程度には分かりやすかったはずのそれに気づいて、ドクターが声を掛けたのだ。禁煙でもしたのかい。そう、少しだけからかうような色を乗せて。
ドクターにとって、リーは数少ない友人の一人だった。まともな人間は、己の指示で戦場に送り出さねばならぬ相手を友と呼ぶのだろうか。それは、果たして許されることなのか?そう考えるのは暫く前にやめた。
自分だけ相手を友だと思っていたら寂しい。そんなふうに思うくらいの情緒はドクターにもある。だから、確実に自分をそう認識してくれているだろう相手のみを友人と呼ぶ。実に単純明快な理屈だとドクターは自負している。そしてリーはその中に含まれていた。
したがって、その言葉は深い親愛の念の元に発されたものでしかない。すっかり嗅ぎ慣れてしまったその香りが遠くなってしまったことを僅かに惜しみながらも、二の句を継ごうとして。ドクターはその口を半端に開けたまま固まった。まあとりあえず座りなよとソファへと差し向けた手が中空を揺蕩って、ぽてりと落ちた。
リーが、見たことのない表情をしていたからだ。口元には苦笑が浮かんでいるのに、その美しい瞳には滲み出すような温もりだけがある。さまざまな感情が混ざりあったそれをひとつひとつ分けることは、今のドクターにはできない。
……違う。近いものを見たことはある。子供たちと話しているのを見かけた時、たまにこんな顔をしていたはずだ。けれど何かが、何かが決定的に違う。なぜ彼は、私にこんな顔を向けている?
数秒のうちに思考が駆け巡り、緩やかに動きを止める。滞留したそれは単純な文字を形作って、脳内でぷかぷかと浮いている。
──どうして。
「……惚れた人が、あんまり好きじゃないって言うもんで」
永遠にも感じられた数秒の間、鬱金の瞳から伸びる視線がドクターを音もなく刺す。それから、すうっと視線が他所へと逸らされた。
瞬間、胸を一突きにされたような感覚がドクターを襲った。経験したことのない種のそれが何であるのか分からぬまま、反射的に胸元へと手を遣って、小さく息を吐いて。
そこからの記憶が、まるでない。
◆
自分はどうやら気絶したらしい。正気に戻ったドクターが最初に考えたことだ。見慣れた天井が視界いっぱいを埋めつくしている。つまりは自室だ。それもベッドの上。
一体何がどうしてこんな。ぽこぽこ浮かぶ疑問符をそのままに身を起こすと、何かがずり落ちる音がした。反射的にそれを掴めば、薄らとした煙草の匂いが鼻に届く。ちょっと重い。煙草のにおい。しっかりした生地。気絶した己のそばにいたであろう人物。よく回らない頭で断片的な情報を繋ぎ合わせつつ視線を横へとずらす。そこには走り書きのメモが残されていた。
──ちゃんと寝てください。外套は明後日回収しに来ます
追伸:掛け布団どこやったんですか 回収ついでに説教ですからね
「親……」
ドクターはぼやいた。メッセージの主の名前は無く、けれども誰であるかは一目瞭然だった。
掛け布団って何だっけ。ドクターは暫く考えて、ああと声を上げた。洗濯に出して返ってきたのをそのまましまいこんでいたやつだ。ちょうど夏だったから無くてもいいかと思ったのだった。どうせ自室に帰りついても気絶するように眠っている身であるので、睡眠中の快適さなど端から求めちゃいない。
でも今は秋だ。あのやり取りの後気絶したと思しき自分をここまで連れて来たリーは、さぞや困惑したことだろう。あの男が友人を寝台に放り投げるだけ放り投げて帰るわけがない。申し訳ないことをしてしまった。外套の替えは持っているんだろうか?
勝手に浮かび上がる問いが消えた頃になってようやく、ドクターは己を今の有様に追い込んだ痛みが再び姿を表したことを自覚した。
「いたい」
当惑した幼子のような声だった。
八割方覚醒した脳が、気絶前の記録を正しく脳裏に映していく。身体の主の意思に反して、再生機は何度も何度も同じ場面を繰り返し上映した。
『……惚れた人が、あんまり好きじゃないって言うもんで』言葉。声色。表情。
それら全てが苦痛を増幅させ、ドクターは浅く呼吸を繰り返した。近頃続いていた寝不足がもたらした不調だと思い込むことはできなかった。どこまでも冷静でたしかな証拠を元に全ての思考を編み上げる己が、それはお前が幾度も思い出しているものが原因だと吐き捨てている。
愕然とした声が転がり落ちる。問いの形をしたそれに答える人間は誰もいない。
「……私は、友人の幸せすら願えないほど狭量だったのか?」
己の人間性の醜さに戦きながらも、ドクターは思考する。あの瞬間胸に去来した疑問と焦燥とを、ドクターは嫉妬と名付けた。きっと大きく間違ってはいないはずだ。ロドスの一人の職員として、そして親しみやすい上司を目指して様々な年代や性別のオペレーターたちと交わした会話の中で得た情報の中に、類似した例が存在する。概ね女性同士の友人間での話だったが、自分と彼の場合も適応されるだろうと踏んだ。
だが、それで終わるのは早いと──何故かそう思う。違う違うと脳のどこかで誰かが叫び、じゃあ何なんだとドクターは叫び返す。分からない、分からないことは恐ろしい。記憶を失えどその知識の全てを喪失したわけではなかったドクターにとって、正しくラベリングすることが現状かなっていない感情は恐怖の対象でしかなかった。
「なんで、なんで、なんで……わたし、私は……」
半端に起こされていた上半身が力を失って、寝台へと倒れ込んだ。思考が黒く塗り潰されていく。それが限界を超えた恐怖によるものなのか、覚醒したばかりの脳を働かせすぎたことによるオーバーヒートによるものなのか分からないまま、あたたかな暗闇へと意識がのまれていく。
迷路を当てどなく彷徨う子供と同じ顔をした人間を、黒い外套だけがやさしく包んでいる。
その眠りの中で、ドクターは夢を見た。
視界は酷く朧気で、陽だまりのただ中にいるかのようにあたたかい。それが誰かの腕の中にいるからだと自覚するのに少し時間がかかった。そこから逃れようとする気持ちは、不思議と湧かなかった。
その誰かの手が、病的なまでに白いドクターの頬を優しく撫でている。それを追いかけるように頬にすり寄せられたものは唇だろうか。けれど、唇にしてはやや硬質でひんやりしているように思えた。
ぱた、ぱたと途切れ途切れに聞こえる音は穏やかな雨音に似て、触れ合った場所から仄かに伝わる体温がひどく愛おしかった。
この時間が永遠に続けばいいのにと微睡む人間を、誰かが静かに愛でている。
どこまでも穏やかで優しい夢。現実の自分に与えられることは、きっと永遠にない。
夢は夢であると割り切って溺れるにはあまりにも理性的なまま、ドクターはとろとろとした甘い夢の海から手を伸ばす。もう、目覚めなくてはならない。自分はここにいてはいけない。そんなことは許されない。
覚醒が近づく。それにしたがって、霞む視界が徐々に解像度をあげていった。
そして気づいた。自分が誰の腕に抱かれていたのか。
──自分が、誰に愛されたかったのか。
束の間の安らぎから目覚めた人間は、ぼろぼろと泣いている。
謝罪の言葉だけがいくつも口をついて飛び出すのに任せて、ただ自分の元に残されたぬくもりだけは汚すまいと寝台の隅へと押しやって、膝を抱えて泣いた。
その日、ドクターは恋を知った。
開く前に散ると分かった花の名前だった。