素直じゃない 暗闇。そこから己の輪郭が浮き出ていく感覚に引きずられて、緩慢に瞼を押し上げた。
温度のない音だと思った。最初何か近くでなっているのかとすら思えたそれは、意識の覚醒に従って人の声へと変わっていく。
否、元より人の声であったのだ。
「起きたかい、お寝坊さん」
「……」
「まだ喋れないか。無理しなくていいよ」
身体全体が泥にでも浸けられたかのようだった。だとすれば、その泥には毒やら棘やらが混ぜこまれているに違いあるまい。寝台に横たえられた男は、全身の痛みに顔を顰めた。起き上がることはできるだろうが、無理をすれば危ういと脳から危険信号が放たれている。身体全体に数カ所にわたって張り付けられた管も忌々しい。ち、と舌を打つ。常よりも弱々しい音だった。
鼻腔に否応なく染み込むような匂いは医療部のものだった。滅多に足を運ばないが、嗅いだことがないわけではない。だが自ら来た覚えのない場所に、何故自分がいるのだろう。そう思ったのが顔に出たか。戦場以外では殆ど動くことのない表情は、今ばかりは素直だったらしい。変わらず淡々とした声が紡いだ。
視界の片隅に黒っぽいかたまりがいる。視線だけを投げる。想像した通りの人間が、そこにいる。
「覚えてないのか」
「……いや、いい。今思い出した」
「そうか」
こいつ、やけに静かだな。いつもはもっと騒がしいというのに。男は──エンカクは、ただそう思った。そこには不可解さだけが滲んでいる。
すこしだけ疑問の色を帯びた声が記憶の引き出しを開けたか、己がこうした状態に置かれることになったきっかけが徐々に思い出された。
なんてことはない護送任務の帰りだったはずだ。血と硝煙の満ちた戦場はそこにはなく、自分以外にも適役はいくらでもいるだろうと無言で自分を見下ろしてきた長身のサルカズを笑顔で宥めた上司に、半ば引きずられる形で参加していた。抵抗しなかったのは面倒だったからだ。この顔をしたドクター相手に食い下がったが最後、あの腹立たしい笑顔のまま舌鋒鋭く論破されるのは目に見えていた。
だが問題はその帰りだった。戦場で最も恐ろしいのは、屈強な戦士でもなければ最新鋭の兵器でもない。死に際し、何も失うものはなくなった人間だ。そんなことは誰もが知っていて、けれどそれが実際に牙を剥くまでは誰もそれを思い出せない。残党はいなかったはずだ。それはデータが証明している。けれど所詮データはデータで、この世に絶対はない。ロドスにとっては一任務に過ぎずとも、彼らにとっては一世一代の大勝負だったのだろう。かくして緻密な0と1の網から逃げ仰せた1人の残党が放ったランチャー砲は、帰投するばかりだったロドスの移動用車両に直撃した。幸運だったと言えるのは、炸裂したそれが車両ごと吹き飛ばすようなものではなかったことだけだ。それ以外は軒並み不幸だ、だってエンカクとドクターがいたのは後方座席で、爆発をモロに食らったのもふたりだったのだから。
寝床すらも戦場に在った身が本能で危険を察知した。だからあれはただの反射だ。並んで座り、時折相槌が返るだけの会話を一方的に続けていた人間を強く引き寄せたのは。
意識がぶつりと途切れる前、乗せられた担架の上で聞いた幼子の泣く声が頭の中で反響していた。
「……」
「…………」
互いに押し黙る。エンカクに庇われたとはいえ、ドクター自身も無傷ではすまなかったらしい。座る姿勢が少し歪んでいた。けれどそれだけだ。目に見える範囲での負傷はない。いいことだ。そう思う。これが死んではエンカクが真に望む戦場を作り出せる怪物もまた死ぬのだから。安堵に似たわずかな温もりが胸に灯ったのは、きっとそのためだ。
黙り込んだまま、じいっと自分を見つめている人間の顔は不気味だった。エンカクを見ているようで見ていないような、そんな目をしている。用がないなら出ていったらどうだ、その気味の悪い目をやめろと文句がぷつぷつ浮かんだが、いずれも言葉になることはなかった。
色褪せぬ記憶の中にいたこの人間は、想像よりもずっと表情豊かだった。それでも、いつだってエンカクは、このドクターが何を考えているのか分からなかった。ロドスで保護した子供たちに向けた慈愛を湛えたそれと同じ瞳で、モニター越しの戦場を冷たく見下ろしている。そのちぐはくさが、エンカクにとっては。……
「……いるならいるで何か話せ。気味が悪い」
視線を逸らし、そう吐き捨てる。爆発を食らったらしい背が痛んだ。動けないなら痛みを紛らわせるような暇潰しもできやしない。なら、そこにいる人間に喋らせておいた方がいい。そう判断してのことだった。
「君にそう言われるの、久しぶりだな」
呟くような声だった。懐かしむような色を帯びて、少しの間を空けて続く。
「一目惚れしたって言った時以来だ」
「余計に具合が悪くなるような話をするなら帰れ」
「ひどいなあ」
息の抜けるような音。なんとはなしに向けた視線の先、能面のようだった顔はわずかに笑んでいる。
「君以外に負傷者はいないよ」
「……」
「……えーっと、君と私以外だな。でも私は軽傷だ、ほぼ無傷と言っていい。君のおかげだ」
「そうか」
「うん」
「……暇なのか」
「ええ?そんなわけないだろ。私は清く正しい社畜だぞ、ここにはさっき来たばっかりだ。他の子は先に来てたみたいだけどね」
ほら、と白い指が指し示した方向に首を動かす。横になったままでは分からなかったが、寝台の程近くにあるテーブルの上に果物やら花やらが置いてあった。
見たところ、そう日は経っていない。自分がこうして臥せっていた時間もそう長くはなさそうだと、エンカクは息をついた。戦うものにとって、身体を動かせない期間が長く続くのは致命的だからだ。
「療養庭園の皆からね」
「見れば分かる」
「パフューマーは勿論だけど、スズランなんて半泣きで心配してたよ。後で顔を出してあげるといい」
「……ああ」
下手をすれば蹴り飛ばしてしまいそうな程に小柄なヴァルポが浮かんだ。そういえば、あの日も同じ部隊にいたはずだ。ではあの泣き声の主もあれかと思って、目を閉じた。どろりとしたものが動かない身体を足元から覆い始めている。
「眠いのか?」
「……」
「……ま、それもそうか。悪かったね、おしゃべりに付き合わせて」
小さく何かがぶつかるような音がした。恐らく椅子から立ったのだろう。見舞う人間が眠るのなら、これ以上いる必要もないのだから。
ふと、顔の皮膚がざわめいた。近づいたものが空気をかいて、その余波を受けたのだろう。
それは歪に浮かんだ源石結晶をつうと辿って、エンカクの薄い頬を撫ぜた。羽根でくすぐった方が余程それらしいだろうと思う程度の弱さだった。
抵抗する気力は湧かなかった。
眠いからだろう。だからこの手を振り払う気も起きないのだ。そう思った。
「きみがいきていて、よかった」
囁く声は泣いているようだった。
その時ようやく、泣いた幼子が誰だったのかを理解した。