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    潜入編その1
    やっと全員集合~~
    ちなみになんですが、まだ誰も付き合ってません

    #うちよそ
    atHome
    #うちよそBL
    privateBl

    うちよそ第2話【第6幕】 車から降り立った先、ガラス張りの自動ドアの前には、紺地に赤い線がアクセントのクラシカルな制服をぴしりと着こなした、大柄なドアマンが立ち並ぶ。恭しい挨拶を幾度も受けつつ、追眠と玖朗は自動ドアを通過した。
    「……う、わ」
     踊り場を挟んで建物内に足を踏み入れると、追眠は危うく立ち止まりそうになる。そこに広がっていたのは、大きなシャンデリアが輝くエントランスホールだった。磨き上げられた白い大理石の床が、煌めくシャンデリアの灯りを反射している。目の前にあるロビー装花は軽く100本は超えるだろう色とりどりの薔薇で、彫り装飾の施された美しい大理石の台座に鎮座していた。どこからか、荘厳なクラシックが控えめに聞こえてくる。
    「……猫」
     微かに呼ばれて我に返る。何とか足を止めずに、追眠は玖朗の後に続いた。玖朗は木製のカウンターへ足を進めていく。
    「ようこそ当館へ。招待状を拝見してもよろしいでしょうか? ……ありがとうございます。こちら、お部屋の鍵でございます。先頭より二桁が、お部屋の階層を表しております。お荷物は先にお部屋の方へ移しておりますので、このまま前夜祭をお楽しみくださいませ」
    「どうも」
     玖朗は受付係に案内状を見せた後、小さなカードを受け取っていた。恐らくカード型のルームキーだろう。会話はすべて日本語だが、これくらいならまだ予想が立つ。
     踵を返した玖朗の横に並び、長く伸びるワインレッドの絨毯を歩く。両脇には、ホテルの従業員らしい男たちがずらりと並んでおり、順に一礼していく。
    「ようこそ」
    「いらっしゃいませ」
     変な気分だ——普段中華街の雑踏しか歩かない追眠は、道を歩くだけで頭を下げられる状況に戸惑いつつも、玖朗に倣って歩を進めた。ちらりと目を眇めると、示し合わせたようなタイミングで頭を下げていく真っ黒な燕尾服姿の従業員らも仮面をつけている。これも演出なのか、それとも彼らの正体が知れると困る理由があるのか、その両方か。
     道を指し示すように続いていた絨毯が途切れる。玖朗が立ち止まったため追眠も立ち止まった。エレベーターホールの前だ。階数ボタンの前で背筋を伸ばしていた仮面の従業員が深々と頭を下げる。ベルボーイとして役柄の違いを示すためか、薄い灰色の燕尾服を着ていた。
    「ようこそいらっしゃいました。本日より此度の催しが終了いたしますまで、当館は貸切となっておりますので、心ゆくまでお楽しみいただければ幸いにございます。……それでは、ご案内いたします」
     口上が終わるのと同時にちょうど扉の開いたエレベーターを、男は手で指し示した。玖朗と目が合う。追眠が軽く頷いてみせると玖朗はエレベーターの中に歩を進め、追眠もエレベーターへ乗り込んだ。最後にベルボーイが乗り込みボタンを操作すると、扉が閉まったエレベーターは滑るように滑らかに登ってゆく。案内係の男が押したのは18階のボタンだ。階層ボタンは25まであった。つまりこの建物は最低でも25階はある。普段、せいぜい2、3階が関の山の中華街で生活している追眠は、あまり乗る機会のないエレベーター独特の浮遊感と、示された階層の非現実感に若干の目眩を覚えた。すぐに柔らかい通知音が鳴ってエレベーターの扉が開く。案内係が扉の向こうを示した。
    「18階、前夜祭のパーティー会場でございます。それでは、いってらっしゃいませ」
     エントランスホールよりも眩い光が、既にエレベーターの内部からも窺い知れる。大勢の人間がいる空間独特の、どこか浮足立ったような空気感。三拍子の優雅なワルツはもしや楽団による生演奏だろうか。
     いよいよだ。ここから先は、追眠が暮らす世界とは全くの別世界であり、そして——あの殺人鬼に関わる何かが、蠢く世界だ。ざわりと心が騒めいて、皮膚をちりちりと焼くような緊張が身体を走っていく。追眠の総毛立つ心身に気づいたのか、玖朗が小さく呟いた。
    「……準備はいい? 猫」
     美しい紫の瞳が問いかけてくる。そう、今回はこれまでと違って、一人ではないのだ。
    「……あぁ」
     そっと息を吐いた追眠が小さく頷くと、玖朗は少しだけ微笑んで一歩踏み出していく。追眠も、隣に倣い歩み出した。
     真紅のカーペットが敷き詰められた廊下を挟んで、目の前には開け放たれた真っ白な扉。その向こうに、絢爛なるパーティー会場が広がっていた。
     エントランスホールを遥かに上回る数のシャンデリアが天井からいくつも連なり、その灯によって煌々と照らされた大広間には、仮面をつけた人々がひしめいている。会場を音で彩り続ける楽団は、音を会場内に均等に届けるためだろうか、中央近くの区画に陣取っていた。壁際には真っ白なクロスが敷かれたカートがぎっしりと並んでおり、エントランスホールで見かけたのと同じ、黒い燕尾服に仮面姿の従業員がひっきりなしにカート上の料理を補充したり皿に盛りつけたり、盆に載せて会場内の客に配り歩いたりしている。
     一方来客はというと、立食式の食事を楽しむ者もいれば、談笑に興じている者もいる。皆、色合いやデザインは様々だが、いかにも高級そうな艶光りするドレスやスーツに身を包んでいた。奥の方にはローテーブルとチェアが並ぶ一角も見える。休憩スペースかもしれない。普段目にしない、そして今日明日を境に二度と目にしないだろう煌びやかな空間に、追眠は怯みそうになる。だが、心を奮い立たせるつもりでふるふると首を振った。
    「あぁ、なるほど……吽凱が勿体ぶってたのはこういうことか」
     玖朗がふいに小さく呟いた。
    「は? なにが?」
    「いや……猫は気にしないで」
     そう答えると、玖朗は目を細めた。仮面越しに晒されたままの紫の瞳が、面倒くさがるような、うんざりするような表情を帯びる。だが、玖朗はそのまま何を言うでもなく歩き出したため、言葉の意味を窺い知れないままに、追眠は慌てて玖朗の隣に並びついていった。あちらこちらで女性の高いヒールが目立つが、追眠は幸いなことに、色鮮やかな刺繍の施された高さのない白のチャイナシューズだ。これなら何かあった時、最悪走って逃げることができる。ちらりと隣の足元に目をやると、玖朗も追眠と揃いのデザインの紺のシューズを履いていた。
     目指す先は決まっていると言うように、玖朗は迷いなく歩みを進めていく。追眠は何か件の殺人鬼について掴めるものはないかと目を凝らし耳を側立てながら、玖朗の隣に並んで歩き続けた。あちこちで囁かれる言葉はどうやらすべて日本語のようだ。女性たちの纏うドレスの裾が花びらのようにあちこちで揺れ動いていた。色と人の奔流、香水の香り。まるで回転する万華鏡の中にいるようで、中華街の喧騒とはまた違う人々のささめきにくらくらと目が回る。
     ふと、玖朗が止まった。比較的多い人数、集団が連なって談笑している一画だ。
    「っ……!」
     途端、品定めするような視線が一斉に集まるのを感じ、追眠の肌にぞわりと鳥肌が立った。着飾った大群がこちらを見ている。ぎょっとして腰が引けてしまった追眠の隣で、玖朗は朗らかに微笑んでみせた。
    「你好。素晴らしい夜ですね、皆様」
     聞き慣れた柔和な声に、追眠は何とか踏み留まった。表情をつんと取り繕って背筋を伸ばす。清廉に、潔白に、高潔に——小華の言葉は正直ピンとこないが、それでもどうにかそれらしくして乗り切るしかない。
    「御機嫌よう。美しいドレスですね、華やかな貴女によく似合っていらっしゃる。さて、よろしければひとつお伺いしたいのですが、この会場では日本語の方が相応しいのでしょうか?」
     玖朗は、一番近くにいた女性に声を掛けた。肩が大胆に開いたデザインのシックなワイン色のマーメイドドレスに、赤みがかった茶に染められた、手入れの行き届いた長髪。仮面は複雑にくり抜かれた黒の半面だ。玖朗が日本語で話しかけると、女性はにこりと微笑んだ。
    「そうね、ここではどんな小さなことであっても素性に繋がるお話は御法度だけれど、それくらいならお教えしても構わないかしらね……この催しの参加者は日本人ばかりだから、その方がいいと思うわ。ご年配の紳士方は、モノリンガルも多いみたいだし……貴方、ここは初めて? どんな事業を?」
    「語るほどのものではありませんよ……主にこの国と中国とを繋げるような商いを細々と。この場に集うのが心苦しいほどの零細で、お恥ずかしい限りです」
    「あら、その割に随分と値の張りそうなペットを連れているのね」
     玖朗はにこやかに女性と会話を続ける。だが、二人が話しているのは日本語だ。追眠に会話の内容は理解できない。仕方がないので追眠は、その他大勢から飛んできている好奇の視線をまるきり無視して、相変わらずのすまし顔を作っておいた。
    「私も見目のいい子をたくさん飼ってきて、目は肥えている方だと思うけれど……その子、とても美しいわ。白磁の肌に宝石の瞳、東洋と西洋のミックスね」
    「お褒めに預り光栄です」
    「北欧に多い緑の眼を受け継いでいるのも珍しい……どちらで手に入れられたのか、伺っても?」
    「そうですねぇ……それは、商売上の秘密とだけ」
    「まぁ残念。私も久しぶりに、もっと若くて美しい子を探そうかしら」
     この会場で向けられる視線は、中華街で受けるものとは視線の粘度とでも言うべきものが異なる。上手く形容しがたいが、纏わりついてくる視線は両手で振り払いたくなるくらい不快だった。だが今回ばかりはいつものように睨み返すわけにも一発蹴りを入れるわけにもいかず、追眠は会話を続ける玖朗の隣でなんとか表情を作り込んだまま視線を走らせ、情報収集を試みる。すると、玖朗と話す女性の背後に不気味なくらい近い距離で張り付いている、スーツ姿の男性の存在に気が付いた。細身の長身、脱色して綺麗な金に染まった、ワックスで整えられた髪。スーツはどこで売っているんだと尋ねたくなるくらい、原色をかき混ぜたカラフルな柄物だ。男の顔も仮面越しのためはっきりとしたことは言えないが、ホストクラブにでもいそうな、見目は整っているだろう男に思えた。男が追眠に向ける視線には何故か、他の好奇の視線にはない棘がある。
    「ところで……貴方のその瞳は、流石につくりものよね?」
    「これですか? えぇ、それは勿論」
    「美しいパープルね。紫の瞳を生まれ持っていたのは、数世代前の欧州の女優が最後らしいわ……もしも今現在、天然のその瞳が存在していたら珍しいなんてものじゃない。いくらお金を積んでも惜しくないと仰る方が、この会場内でもどれだけいることか……時価いくらの値がつくのかしらね、想像もつかない」
    「とんでもないお話ですね。私のこれは、仰るとおりただの紛い物ですが、なかなか精巧にできているでしょう?」
    「えぇ、とても。まるで本物と見紛うくらい。でも私は、どれだけ出来がよくてもつくり物をコレクションに加えるつもりはないの。やっぱり本物でないと……宝石も瞳も顔の造形も、本物だからこそ希少で、価値がある。そうでしょう?」
     玖朗と会話していたはずの女が、追眠を見ている。にんまりと微笑む女の見目は美しいものの、ぎらぎらと何かの欲を滾らせるその瞳は、なんだか獲物を狙う爬虫類のように思われて気味が悪い。
    「その子の緑の瞳は、本物? やっぱり素敵……希少な上に美しさも上級。最高品質のエメラルドのよう」
    「おや、お言葉は大変嬉しい限りですが……この子は、誰に譲る気もありませんよ」
     玖朗が話しかけると、女性の視線が玖朗に戻った。会話の内容は分からなくとも、彼女がなにかろくでもないことを話していることは何となく予想できる。それでも、玖朗はあくまでにこやかに会話を続けていた。
     こいつもなかなか大した奴だよな。
     隣の男をちらりと見上げてそんなことを思っていた追眠を、向かいにいる長身の男は相変わらずものすごい形相で睨んでいる。不思議だ。あの男とは正真正銘初対面で、会話すらしていないのに、なぜ燃え滾るような憎悪を追眠に向けているのだろう?
     とはいえこのまま素知らぬ顔を続けるのも、それはそれで癪に障る。もし中華街であれほど分かりやすく喧嘩を売っている視線から目を逸らせば、いい笑い者だ。追眠は怒りに燃える男の瞳を真っすぐに見つめ返した。男の眼は、アジア人に多い暗い茶の瞳だった。男の方も目を逸らそうとはせず、より一層分かりやすく憎しみの籠った視線を向けてくる。いっそ殴りかかってきてくれれば、正当防衛の名のもとに実力行使で叩きのめせる——そんな不穏な考えすら過ぎっていたが、残念ながら玖朗と女性の会話が終わってしまったようで、玖朗は軽く会釈をしてからゆっくりと歩き始める。すると男の視線も追眠から剥がれ、途端に本来の執着対象らしい女性に戻った。どうも男を一発ぶん殴る機会はなくなったらしい。まぁいいかと追眠は男から視線を外すと、玖朗の隣に駆け寄った。
    「なにか分かったか?」
    「……そうね、ここの連中が思いのほかクソだってことぐらい、かな」
     先ほどまでの張り付いた笑顔はどこへやら、玖朗はげんなりとした表情で溜息をついた。
    「まだ中華街のヤクザ共の方がマシかもしれない」
    「そりゃ大概だわ」
     まぁね、と玖朗は苦笑してから続ける。
    「俺たちの"お目当ての彼"がVIPに名を連ねてるから、ひとまずVIP客へのコンタクトの取り方をそれとなく尋ねてみたけど、そもそもこの会場内でVIPを見分ける術はないらしい。相手がどこの誰なのか全く分からないことにこそ、この会の価値と愉しさがある……だそうで」
    「なんだそりゃ。金持ちの愉しみとやらは随分変わってんだな」
    「そうみたいだね。ともあれ、見分ける方法がないとなるとVIPにコンタクトを取るのは現状難しい……何せ全員似たり寄ったりで同じに見える」
     玖朗が肩を竦める。ついでに追眠は尋ねてみた。
    「さっきアンタが喋ってた女の後ろに張り付いてた奴、すげー俺のこと見てたんだよな。あれ、なんだったんだ?」
    「あぁ……猫が羨ましかったんだよ、きっと。あの女、猫の目が綺麗だって褒めてたから」
     玖朗が不快そうに目を細める。余程苛立たしいことを言われたのだろう。しかし、日本語も理解できなければ口八丁の立ち回りも苦手な追眠は、中華街のスラムでの時のように玖朗の防波堤になることはおろか、援護すらまともにできない。
    「さっきの会話もそうだけど、どこからも日本語しか聞こえてこない……悪い、今回は頼りきりになるかもしんねェ」
     追眠は唇を引き結んだ。これまで、賭け事は技術や実力で、それ以外の面は腕っぷしで相手を黙らせてきた。口先だけの技術なんてまどろこっしいばかりで、全く必要ないと思って生きてきたのに、言葉で戦えないことをこんなに歯がゆく思う日が来るなんて思ってもみない。
    「やだなぁ、謝らないでよ。ここが日本人ばかりなのはあの“陰険な眼鏡”もそう言ってたし、覚悟はしてたよ。これは適材適所ってやつ。気負わないで、猫」
     玖朗は朗らかに微笑んでみせる。“陰険な眼鏡”、この場で吽凱の名前を出さないようにするための玖朗なりの配慮だろうが、それにしたって吽凱が“陰険な眼鏡”なら、玖朗は“陰険なグラサン”だろう。五十歩百歩だ。目を瞬かせる追眠に、玖朗が続ける。
    「俺もさっき、敢えて開口一番中国語で話してみたけど、怪訝な表情の人間ばかりだった。想像以上に中国語を理解している人間は少ないかもね」
    「つまりアンタとのこういう会話は気兼ねなくできるってことか」
    「断定はできないけどね。そういうフリをしてる人間が紛れ込んでる可能性もあるし……聞かれても問題ないよう言葉選びに注意してね」
     追眠が素直に頷くと、玖朗は追眠の肩を軽く叩いた。
    「あのね、猫。言葉が分からなくても、猫が隣に立ってる、それだけで十分に俺の武器になるんだよ。メイドの子たちが言ってたでしょ、立ち振る舞いだけで人に印象付けることはできる」
    「そんでも、それも難しいんだよ」
    「そう? さっきはよくできてたよ、“いいところの猫”」
    「んー」
    「納得いかないって顔してるね。じゃあ、麻雀してる時を思い出してみて。ろくな牌がなくても、いい役が揃ってるようなフリするでしょ? それに似てる」
    「あー……分かる、ような……?」
     追眠が首を傾げると、玖朗はくすりと笑う。
    「それじゃあ、俺が会話で情報を集めるから、猫はそれらしくついてきて」
     そう言って歩き始めた玖朗に追従しながら、追眠はまた、ひっそりと首を傾げた。
    「それらしく、ねぇ……?」

     会場内をゆるりと歩いて移動していた玖朗はそのうち、その辺にいた男性客に声をかけ、愛想笑いを浮かべて談笑しはじめた。情報収集の間、追眠は再び会場内の人間を観察する。楽しげに笑う男、女。仮面で顔を隠した者たちは一見上品ぶっているが、その実会場内はなにか奇天烈な熱気に満ちていた。
     ふと一人の女性の動きに目が止まったのは、立ったり座ったりしたまま、さして動くことなく談笑に興じる群衆の中で、大きく動きのある動作をしていたからだ。
     右手をまっすぐ広げ、左手を胸の前で折る。その後右手を胸の前で曲げるともに左腕は後方に下げ、右足を下げて腰を落とす。顔を上げてから、目の前の人物と目を合わせにこりと微笑む。随分変わった礼の仕方だ。日本の礼とも、中国の合掌とも違う。西洋風というかなんというか、劇場の上で洗練された役者がしていそうな、美しい一礼だった。
     ああいう作法があんのか。へぇ。
     何か役に立つ場面があるかもしれないと、追眠はその動きを頭の中で反芻する。2、3回動きを脳内で繰り返していた、が。
    「あの……」
     玖朗と歓談していたはずの男がいつのまにか追眠の方に近寄ってきていた。追眠は弾かれるように顔を上げる。けれど追眠が何かするよりも早く、玖朗がにこやかに微笑んで一言告げると、男はばつの悪そうな表情を浮かべてそそくさと去っていった。
    「なんだ? 俺に何か言ってたか?」
    「猫が気にする必要はないよ。下種の下らない戯言だ、訳す価値もない」
     玖朗が冷たく吐き捨てる。今度は一体何事なのか。だが言葉の分からない追眠は、玖朗が訳さない限りは首を傾げる他なかった。
     それからも情報収集に勤しむ玖朗の隣で“いいところの猫”のような振舞いを心がけていた追眠だったが、そのうちの何人かは、先刻の男同様、不思議と追眠に興味を示し話しかけてくるようになった。
    「なんなんださっきから……俺、なんかとんでもなく行儀悪いこととか知らねー間にやってたりするか?」
    「いや、猫はなんにも悪くないよ。立ち振る舞いもよくできてる。ただ……」
    「ただ?」
     追眠の問いかけに対し、玖朗は急に歯切れが悪くなった。
    「あー……俺たちの中華風の出立ちが珍しいのかも。ほら、洋装が多いでしょ」
     確かにそうだが、それを言うなら玖朗だって中華服だ。むしろ玖朗の着ているものの方が伝統的な中国の民族衣装に近しいのだから、薄いストッキングに短くてぴらぴらしたチャイナ服姿の追眠より、むしろ玖朗の方が注目されて然るべきである。それに、口達者な玖朗が何やらもごもごと言いあぐねているのも気になった。
    「……忌々しいことこの上ない」
     小さく玖朗が呟いた。細められた紫の眼は心なしかぎらぎらと殺気立っているように思える。
    「大丈夫か?」
    「……うん。ごめんね、少し休憩しようか」
     玖朗は歩き回る黒服の盆からグラスを二つ掬い取ると、人の少ない壁際を目指し、追眠の背をそっと押した。

     壁際に辿り着くなり、玖朗は深くて重い溜息をつく。
    「どうした?」
    「いや……あのメイドたちには悪いけど、あんまり綺麗にし過ぎるのも考えものだなって」
     先ほど玖朗が言っていた、中華服が目立つという話だろうか。いや、他にも絶対に何かあるはずなのだが、玖朗と他の招待客たちの会話が理解できない追眠には、これ以上の理由はどうしても推し計れない。
    「猫は言葉が分からないのを気にしてるけど……俺はむしろ、奴らの言葉が猫に分からなくてよかったと思うよ」
     玖朗は、追眠に寄りかかるように頭を寄せてきた。
    「ね、猫……きっと会場じゅうに目を光らせてるんだろうけど、見ないでよ、あいつらなんか」
    「は?」
    「誰とも眼を合わせないで。猫の眼が腐ったら困る」
    「何言ってんだよ? そういうわけにはいかねェだろ、会話が聞けない分、せめて目で見えるものくらいはきちんと見ときたい。可能性はかなり低いだろうが、あいつ本人がここにいる可能性だってゼロじゃねェんだぞ」
    「それはそうなんだけど……」
    「アンタ、さっきから変だぞ」
     追眠が言うと、玖朗はグラスを傾けていた動きをぴたりと止めた。
    「なぁ、何を言われてる? アンタにだけ背負わせたくない」
    「それは……」
     玖朗が言葉を詰まらせたその時、一瞬、追眠の視界の端で何がが光った。追眠は気になって、視線を走らせ光のもとを探す。というのも、女性たちが身に付ける煌びやかな貴金属よりももっと無機質で、硬質な光が反射したような気がしたのだ。そして、シャンデリアの灯りを反射するそれを見つけた追眠は、茫然とした。
     初老の男の隣に、まだ幼い、13、4歳くらいの少女が立っている。淡い水色のドレス、ノースリーブで大きく開いた少女のほっそりとした首には、ジュエリーではなく革製の首輪が括り付けられており、そこから鎖が伸びていた。銀色に光る鎖の先は、談笑する男の手の中に繋がっている。
    「は……? なんで、鎖……」
     さながら、飼い主とその飼い犬のように——だが、鎖の先にいるのは人間、それも年端も行かない少女なのだ。虚ろな目をして立ち尽くす少女、鎖による拘束。異様な状況に、周囲の人間は当然気づいているはずなのに、微笑みを浮かべ談笑を続けている。困惑、言い知れない嫌悪、その他とにかく嘔吐してしまいたいような感情が沸々と胸中で渦巻いて、追眠の唇は勝手に戦慄く。途端、玖朗の両手が伸びてきて、追眠の視界を覆った。玖朗の溜息が聞こえる。
    「余計なこと言って、むしろ意識させちゃったかなぁ……失敗した」
    「なんで、アンタ……気づいて……」
    「そうね、俺ははじめに気づいてた。できれば猫には、このまま気づいてほしくなかったけど……ね、猫。こっちを向いて」
     両手を離すと同時に、玖朗が言う。おどおどと玖朗に向き直った追眠の肩に、玖朗が手を置いて囁いた。
    「察しの通り、ここは普通のパーティー会場じゃない。ここにいる連中は全員、さっき猫が見たような、“素敵な”性癖を持ってる奴らだよ。連中は、自分の側に置いてる人間を人間扱いしてない。この際だから言うけど……ここに足を踏み入れた時点で、“そういう意味”で俺たち自身も狙われてる」
     つまり先ほどまで、追眠に声を掛けてきた連中は、皆——そう思うと、吐き気がした。
    「っ、きもち、わるい……」
    「大丈夫、ちゃんと俺が守るから」
     華やかで美しい世界は、急激に醜く薄汚いものに変貌してしまった。けれど玖朗の瞳はちかちかきらきらと、尚も美しく輝いている。柔く溶けた瞳は今まで見たことがないほど優しい。多分、きっと、玖朗の今の言葉は嘘ではない。そう思うと、何故だか胸がぎゅっとなった。
    「俺のこと、信用してくれる?」
    「……うん」
     追眠がこくりと頷くと、玖朗は顔を綻ばせた。
    「ありがと。じゃあ、嫌かもしれないけど……猫には、今までの感じを続けてほしいな」
    「“いいところの猫”?」
    「そう。そうしたら俺が、連中を追い払ってあげる。アンタらなんかに売れるほど、うちの猫は安くないって」
    「分かった。けど、アンタの方は大丈夫なのか」
    「……俺?」
    「ぴかぴかに仕上げてもらったのはアンタも同じだろ。しかも、今日は……」
     それ以上は口にせず、追眠はただ黙って狐の半面にそっと触れた。くすりと玖朗が笑う。
    「ふふ、あの性悪な眼鏡も騙し通せたんだから、ここの連中を騙すなんて訳ないよ。それに、幸い俺は猫ほど人気者じゃないしね?」
    「止めろ気色悪い、いらねェよ変態からの指名なんざ」
    「あっはは、ごめんごめん」
    「——失礼!」
     仮面越しに破顔した玖朗の朗らかな表情は、乱入してきた大きなだみ声によって一瞬で鳴りを潜めた。招待客の正体を知ってしまい嫌が応でも身体が強張る追眠を隠すように、玖朗が前に歩み出る。
    「どうも。何用でしょうか?」
    「やぁ、会場内で噂になっておりましてな、美しい紫の瞳に長い黒髪……いやはやこれは、想像以上に……」
     速足で駆け寄ってきたのは、小太りの男だった。男のそばには付き従っているパートナーがいない。相手を連れていない奴もいるのか、追眠がそう思った矢先、男は玖朗の眼前で興奮気味に叫んだ。
    「貴殿はまさに、私の理想そのものだ!」
    「…………はい?」
     追眠は、にこやかに対応している玖朗の表情が少しだけ引き攣っていることに気づいた。逆に、男の方は前のめりでひどく熱心な様子である。そうして殊更に、玖朗の顔を覗き込もうとする。追眠ははっと気づく。日本語はほとんど分からないが、男の言葉に何度も「目」という単語が入っているのが聞き取れたのだ。
    「その目は本当に自前のものではないのですか? なんと美しい」
    「ハハ……お褒めに預かり光栄です」
    「つくりものにしても大層美しい……まるで宝石が生きて輝いているようだ。ぜひ、直接見てみたい」
     無粋な男の手が玖朗の仮面に伸びていく。その時、追眠の身体は自然と動いていた。自分の身体を男と玖朗の間に滑り込ませると、玖朗を数歩下がらせる。
    「おいオッサン、そりゃ“ルール違反”だろ。素性を探らないのがここのルールなんじゃねェの?」
    「は?」
     惚けた男は追眠の言葉を理解していない様子だった。だが、すぐに侮蔑の表情を浮かべる。
    「何語だそれは? いやそんなことはどうでもいい、飼い主の会話に割って入ってくるなぞ、なんと無礼な!」
    「猫、ちょっと待って。……抑えて」
     日本語は分からない。ただ、どんなことを吐き捨てられたのかは大体理解できた。ふんと鼻を鳴らした追眠は、制止しようとする玖朗を横目に、男の蝶ネクタイをぐいと引っ張る。
    「うわッ」
     強制的に前のめりになりバランスを崩した男を今度は思い切り後ろに押すと、男はどすんと尻餅をついた。
    「貴様ッ、飼い猫の分際で、何を——」
     がなる男を前に、追眠はくすねておいた小さなフォークを眼球の目前まで突き付けてやる。
    「ひぃッ……」
    「そんなに見たいなら、自分の眼でも見てろ」
     追眠の言葉は伝わらない。だが意図は十分に伝わったようだった。
    「……なん、なん、なんッ……」
     口がきけなくなったらしい男は、そのままずりずりと後退りをしている。
    「猫」
     振り向くと玖朗が何とも言えない笑みを浮かべていた。
    「ありがたいけど……ちょっとやりすぎかも」
    「なんでだよ? 見ての通り、殴っても蹴ってもない。それにこのくらい、唯の脅しだってすぐ分かるだろ」
    「中華街の人間ならね。だけど残念ながら、この会場の来賓様の中にそれが分かる人間は多分いない」
     玖朗に言われてはっと周囲を見渡すと、痛いくらいひしひしと視線が集まっているのに追眠は気づく。何だというのだろう。変態が何をしていても目を向けないのに、この程度で目立つとは、ほとほと金持ちの価値観は理解できない。だが、追眠の行動が玖朗のここまでの我慢と努力を台無しにしてしまったのも紛れもない事実だった。
    「……悪い、つい……」
    「いや? むしろ俺は感謝してるよ」
     けれど、玖朗が柔く告げるのと同時に、黒服があちらこちらから近づいてくる。
    「対処は俺に任せてくれる?」
    「分かった」
     追眠が目を伏せると、玖朗は辺りの様子を窺いながらそっと囁いた。
    「猫、卑下する必要はないんだよ? だけどお互いを守るために、もう一つ約束を追加しよう。もし今夜、似たような場面に出くわしたとしても、その対象が俺でも猫でも——絶対に手を出さないようにしてほしい、必ず俺がなんとかするから。約束できる?」
     これ以上玖朗に迷惑は掛けられない。追眠は頷く他なかった。
    「……あぁ……」
    「いい子だね」
     整えられた髪を崩さないよう、ほんの少しだけ追眠の頭を掠めるように撫ぜた玖朗の手が離れていく。
     ガキ扱いすんな。
     心中で悪態をつきながらも、集まってきた黒服に柔和な笑みで応じる玖朗の隣で、追眠は目を伏せるばかりだった。

     その後、玖朗の手腕により黒服も散り、騒ぎはすっかり沈静化した。何やら憤慨した様子のあの男も玖朗に何某か囁かれると退散していった。
    「てか、やけに熱心だったけどあのオッサンは何つってたんだよ? あいつ、まさか……見抜いてたのか?」
    「あー、いや、そういうわけじゃなくて……」
    「ん?」
    「えっとね……お金払うから一晩中鞭でぶっ叩いてくれって、さ……」
    「……うっわ……いやでも、金払いはよさそうだったじゃん。断ってよかったのか?」
    「ちょっとやめてよ、考えただけでゾッとする。俺だって仕事は選ぶよ」
    「わりぃ」
    「猫、声が笑ってるよ……ハァ、別にどんな趣味だろうと勝手にする分には構わないけど、巻き込まれるのは御免被りたいね。ほんとに」
     重い溜息とともに玖朗がぼやく。その向こうで、ふと聞き覚えのある声が聞こえた気がして追眠は目をやった。
    「だーからマツリ、目ぇ見えないフリしろって!」
     周囲の人間より頭一つ、いや二つは高い背の高い男と、対して埋もれてしまいそうなくらいの小さな影。
    「目がっ! 見えないー!!」
    「いや口で言ってもしょうがねぇだろ。あーあー、分かってねぇなぁ……オレに! 捕まって! 歩くんだよ!! 真っ暗闇を歩いてるつもりで歩く、いいな?」
    「あいっ!」
    「それから、走らねぇ、勝手にどっか行かねぇ、騒がねぇ。はい繰り返して言ってみー」
    「えっと、えっと!!」
     男の袖のない赤いチャイナ服から飛び出した腕にはびっしりとタトゥーが入り、周囲の金持ち共を無言で威嚇している。一目で上質な生地だと分かる真紅のチャイナには、金の糸で睡蓮が金糸で以って流麗に描かれていた。金色のド派手な半面はイタリアのカーニバルのそれだ。何重もの流線模様で縁取られ、飾り付けに使われた小粒のダイアモンドたちが照明を反射してキラキラ光る。赤と金と、あの背丈とあのタトゥーと。男はとにかくこれでもかと言うほど目立っていた。
     対して子どもは丸く可愛らしい赤黒の帽子に、腕がすっぽり隠れるほどに長い袖の黒のチャイナ服。黒の褲子クーツは膝下から少しくらいの長さで、幼さを強調している。ボタン部分や縁取りは金色で、褲子や袖の折り返し部分は目を引く赤色だ。相も変わらずなぜ周囲の様子が分かるのかと首を傾げたくなるほどに、その目には真っ黒な布が何重にも巻かれており、目にあたる部分には、金字で何やら呪文めいたものが細々と書き加えられている。札か目隠しかという違いはあれど非常に分かりやすい。コンセプトはどう見てもキョンシーだ。揃って会場内で異彩を放っている、どうにも見覚えがありすぎる二人を追眠は目で示した。
    「玖朗、あいつら」
    「……しっ、他人のフリ、だったでしょ。馬鹿かあいつら、潜り込んでるクセに目立ってどうする」
     玖朗の眉間の皺が深くなる。玖朗と二人してしばらく様子を窺っていると、やや及び腰の周囲の客と会話していた霊霊が突然げらげらと笑い出した。
    「アッハ! オレ、ガキの目をくり抜くヤベーやつだと思われてんじゃん、ウケる〜」
    「ウケる〜〜!!」
     分かっているのかいないのか、隣でマツリもけたけたと一緒になって笑っている。玖朗は取り繕うことも忘れて頬を引き攣らせていた。
    「あの子ども、ついていく相手を間違えてるでしょどう考えても」
    「まぁ、どっちもやばいな」
    「本当にね……そもそも、あいつらに潜入なんか無理な話だったんだよ」
     兎にも角にも何より目立つ二人に意識を持っていかれて、追眠も玖朗もひたひたと近づいてくる人影に気づかなかった。
    「失礼、ご挨拶をよろしいですかな?」
     背後で言われてはっとする。追眠は玖朗と一瞬視線を交わした。今度はどちらが“ご所望”されるのやら——二人で仕方なく振り返る。
    「どうも」
     玖朗がにっこりと笑顔を浮かべる横で、追眠は言葉を失っていた。
     立っていたのは中年の男だった。特注サイズらしいスーツは今にもボタンが弾け飛びそうで、にまにまと笑みを浮かべる顔はぎらぎらと油ぎっている。だが、それはいい。ここはそんな奴ばかりだからだ。ただ、男が引き連れている少年はマツリよりも幼い。あるいは10歳にすら届いていないかもしれない。そんな小さな少年が半袖の白いワイシャツに袖のない黒のジャケット、丈の短い黒の半ズボン、ウサギの半面を身に纏って、こんな場所にいる。しかも目の前の男は、少年の丈の短いパンツから露わになった太腿を撫で続けていた。
    「ほう、これはこれは……美しい猫だ」
     悪夢だ。追眠はそう思った。殴りかからないよう自分を律するのでやっとで、表情まで作れている自信がなかった。何とか誤魔化そうと、先ほど見かけたあの一礼を真似してみる。くるりくるり。指先を伸ばして、腰を低くして。にっこり笑うところまでは再現できなかったが、許容範囲内だろう。多分。
    「素敵な挨拶じゃあないか……どこで覚えたのかな?」
     男がにんまりと笑う。追眠が腰を下げた体勢でいるため、男の方が少しだけ視線が高い。舐めるような視線に皮膚が粟立った。けれど追眠がさっさと下がるよりも前に、毛むくじゃらの太い油ぎった手が伸びてくる。反射的にはたき落とそうと思った、だが。
     ——手を出しちゃダメ。約束できる?
     玖朗の言葉が頭をよぎり、一瞬迷った追眠は、動かずその場に留まった。
    「ほお、なめらかな肌ですなぁ」
    「っ……」
      べたべたとした手が頬から顎をこの上なくゆっくりとなぞっていく。瞬間、追眠はひっと声をあげそうになった。男のもう一方の手が、追眠の腰に伸びていた。腰を撫で回す手の温度が薄い衣服越しに伝わってきてぞわりとする。
    「これはさぞ、抱き心地がよかろう」
    サー、どうぞその辺りでご勘弁を」
     玖朗が制止らしき言葉を日本語で言ったようだが、男は意に介さない。男の手がとうとう腰から尻まで降りてきたとき、追眠に我慢の限界が訪れた。
     アーアーアーアー。
     むり。もうむり。死ね。
     頬を触る手を叩き落として、背後で芋虫のように蠢くもう一方の手もさっと払った。
    「……気安く、触らないで」
     仮面越しに目を細くして、下から男を睨め付ける。なるべく冷たく、居丈高に聞こえるように告げたのは、追眠が知っている数少ない日本語だった。
     多分これで触るなって意味の日本語で合ってた、はず。
     視線で射殺すつもりで冷たく男を睨んで、さっと玖朗の隣に戻る。
     もう無理だ。これ以上は化けの皮が剥がれる。もう一回同じことされたらもうぴらぴらの服がどうとか手を出すなとか全部ほっといて、絶対こいつ蹴り殺す。
    「失礼、うちのネコは気位が高いもので」
     この状況でもへらへらした笑みを崩さない玖朗を追眠は横目に見遣って、生まれて初めて尊敬した。
     俺にはあんなのぜってー無理だ。
    「いやいや。主人のみに忠実であるということですな、実に素晴らしい!」
     男は白々しくぱちぱちと手を叩いて見せた後、にんまりと笑った。何を言っているのかは追眠には分からない。ただ、とても嫌な笑みだった。
    「客人の手を振り払う粗相をしても尚、美しい緑の瞳に目を奪われて、うっかり折檻を忘れてしまいそうだ。しかしそこは主人たるもの、心を鬼にして罰を与えねばなりますまい? そう例えば——粗相の相手である私に、ペット自ら許しを乞うとか」
     ずいと男が一歩近づいてくる。何か醜い思惑を宿したぎょろりとした眼が追眠を捕らえてから、玖朗に視線を戻して細められる。この顔は追眠もよく知っている。笑っているのに笑っていない——クソのようなマフィア共がよくこんな表情をしている。それでも、玖朗は全く揺るがずにこにこと微笑んだままだった。
    「……うちの子は用心棒も兼ねているんです。従順なだけでは、用心棒は務まらない。お転婆で申し訳ありませんが、うちはこれでいいんですよ」
    「ほう?」
     男は納得していない様子で玖朗を見つめ返して、おやと表情を変える。
    「貴殿のその目は?」
    「ああこれは」
     玖朗が首をかすかに傾げてにこりと笑う。
    「この子の眼は本当に綺麗でしょう? ですから今日だけ、私も瞳を装ってみようかと……紫は緑の相対色ですしね。紛い物とはいえなかなかの出来栄えでしょう?」
    「なるほど。粋な計らいですな」
     こうなると玖朗だけが頼みの綱だ。うんうんと頷いてみせる男の視線から隠れるように、追眠は玖朗の斜め後ろに下がり、指先で玖朗の長いチャイナ服の袖を掴んで微かに引っ張る。早くこの男の前から消え失せたい、その一心だった。
    「貴殿は、この会は初めてですかな? お目当てはオークションの珍品かね?」
    「えぇ」
    「ふむ、皆そう言うが……私などは、オークションなどおまけのようなもので、むしろ今夜がメインディッシュですなぁ。如何でしょう? ここで出会ったのもなにかの縁、今夜お宅の"用心棒"を、少し味見させてはいただけないか? 私は躾けるのも上手いですよ」
     男の視線が再び追眠に向いて、追眠の肌にぞわりと鳥肌が立った。今回ばかりは追眠も、日本語が分からずよかったと心の底から思った。この男は絶対に碌なことを言っていない。
    「謝礼は弾みましょう。あぁ、先程のお宅の猫の非礼の詫びという形でも私としては構いませんぞ」
     男が言うと、とうとう玖朗が追眠の前に出て、男の視線を完全に遮った。
    「……非礼? これはこれは、不思議なことを仰いますね? 礼節を欠いているのは、断りなくこの子に触れたあなたでしょうに。あぁ、私には詫びなど不要ですが。失礼」
     玖朗が突然踵を返したため、追眠は一瞬呆気に取られた。ただ、目瞬きをした追眠の背を玖朗が押したため、それに従う。
    「猫、あれはだめだ。離れよう」
     耳打ちしてきた玖朗にこくりと頷き、男の視線の範囲から消えるように速足で会場内を移動する。そろそろ大丈夫か、と追眠が背後に恐る恐る目をやると、大勢の客の影に隠れ、先ほどの男は視界の中から消えていた。
    「……大丈夫?」
     安心したように一息ついて立ち止まった追眠の顔を、玖朗が覗き込んでくる。追眠は眉を吊り上げた。
    「大丈夫なわけあるか、キモい汚いキモい!」
    「だよねェ……猫、なんではじめに振り払わなかったの」
    「手ェ振り払うのも“手を出す”ことになるかもって、思ったんだよ!」
    「振り払うくらいなら大丈夫だよ」
    「違いが分かんねェっつの!」
     ほとんど悲鳴のような声で訴えると、玖朗は宥めるような笑みを浮かべた。
    「頑張ったね、張り倒さなかったのは偉いよ」
    「だって、アンタと約束したし……また騒ぎになるのはやだし……」
     むぅと唇を尖らせてぼそぼそ言うと、不思議と玖朗の瞳がまた優しくなっていく。
    「俺と約束したこと、律儀に守ろうとしてくれたんだ?」
    「……またアンタの努力を無に帰すわけにはいかないだろ」
    「謝謝、猫。約束したのに、助けに入れなくてごめんね」
    「別に……ちゃんと助けてくれただろ。それに俺はオンナじゃないし、あんくらい……」
    「あのくらい、じゃない」
     妙に強い語気で発された一言に、追眠はふと玖朗を見上げる。何か生真面目なような、真剣なような表情は、追眠が見上げると同時に溶けて消えて、いつもの笑みの奥に隠れた。
    「とにかく、もう二度とあんなことが起こらないように、俺も気を付けるから」
    「おう」
    「そういえばさ……猫はどこで覚えたの? あの日本語」
    「あぁ、“触るな”って意味で合ってたか? 中華街で悪絡みされた日本人の姉さん方が言ってて、覚えた」
    「あぁ、それで『触るな』じゃないんだ……」
    「あぁ?」
    「ううん、いい返しだったよ。たまたまにしても、まさに“いいところの猫”って感じだった」
    「そりゃどーも……?」
     日本語の意味はどうにも掴みにくくて、そう言われても追眠はぴんとこない。褒められているのにどうにも釈然としない追眠の背を、玖朗が「行こうか」とそっと押す。追眠は玖朗をまじまじと見上げた。
    「どうしたの?」
     立ち止まったままの追眠を、玖朗が覗き込んでくる。いつも隠されている秘密の瞳が公然と晒されているからなのか、常よりもはっきりと玖朗の感情が垣間見える。時折向けられる優しい視線と柔らかな表情に、追眠は何故だかそわそわしてしまう。
    「……なんでもない」
     何だか、背筋がこそばゆいような心地がした。



    「おかし、おかし」
     唱えながら小さな歩をを進める。周囲の人間は訝し気に、布できつく覆われている瞳を見つめてくる。彼らがその視線の意味を声に出さなくても、その声は、言葉は、いつだってよく“視える”。そんなのはいつものことだ。だから、マツリにとってそんなことはどうでもよかった。それよりも。
    「おかし!」
     ぱっと表情を輝かせたマツリの前には、立派なチョコレートファウンテンがいくつも鎮座している。そこは、会場内のスイーツゾーンだった。様々なケーキやタルトや焼き菓子がたくさん並べられているが、マツリの目当ては目下このチョコレートファウンテンだ。
    「はじめて、みた! すごい!」
     甘い香りを放つ茶色や白やピンクのチョコレートが留まることなく流れ落ちていく様を、マツリは目の周りに固く結ばれた布越しに見つめる。そして、周辺の客がマシュマロやフルーツを刺した串をチョコレートの滝に浸しているのを見て、また歓声を上げた。
    「すごい、すごい! 僕もやりたい!」
     フルーツ串はどこにあるのだろう。視線を“掻い潜らせ”て探そうとしたとき、カラフルなフルーツが刺さった串、探していたそれが目の前に差し出された。
    「君のお探しものは、もしかしてこれ?」
    「わぁ! そう、これ!」
    「ふふ、じゃあこれ、あげるよ」
     男性にしては高めの、柔らかな声。探し物を差し出してきたその手の主を、マツリは見上げる。ふんわりとした笑顔を浮かべているのは、さらさらの亜麻色の髪を肩まで伸ばした青年だった。
    「はい」
    「ありがと!」
    「どういたしまして。君、一人?」
    「ひとりじゃないよ! どこかに、れーれーがいるよ!」
    「おや……れーれー、っていうのが、君のご主人様?」
    「ごしゅじんさま、って、なぁに? かみさまみたいなの?」
     マツリが首を傾げると、青年はマツリの前で膝を曲げて、視線を合わせてきた。布の下にあるはずの瞳を確かめるように見つめてくる。
    「神様……そうだね、似たようなものかも。ねぇ、君のその目隠しの下は、どんな風になってるのかな」
    「んー?」
    「その眼、もしかして、君のご主人様がくり抜いたの?」
     男はにこりと、人好きのする柔らかい笑みを浮かべる。
    「見たいなぁ……本来眼球があるはずのところにぽっかり浮かぶ空洞……それにしても、杖もなしに歩き回れるなんて、すごいね」
    「んー……」
     男の言葉の意味が、マツリにはよく分からなかった。分からなかったから、その男の中に浮かぶ言葉を、ただ口に出した。
    「『欠損愛者』」
    「えっ?」
    「『すごいなぁ、めをえぐりだすなんて……ぼくもまだやったことないや。ひさしぶりのしゅうかくだ、きょうはこのこをかっていこう』」
     マツリは微かに首を傾げて、たどたどしくも淡々と続ける。
    「『どこからせつだんしようかなぁ。うで、あし、てくびよりさきだけをさきに。わくわくするなぁ』」
    「なっ……なんで……」
     さっと顔色をなくした男は数歩後ずさった。
    「なんで、ってなぁに?」
    「だって、それは、僕の——」
     茫然と言いかけた男は突然言葉を切ると、マツリの背後を見上げた。
    「えっ……?」
    「あっ!」
     マツリの唇からにぱっと笑みが零れる。誰がやってきたのか、視えたからだ。マツリがぱっと振り返ると、仏頂面のスーツの男が仁王立ちしていた。
    「えっ、あっ、もしかして貴方が彼のご主人様、ですか……? 」
     艶のある黒のスーツに目の覚めるような青色のシャツ、洒落たチェックのネクタイに胸元で輝くシャンパンゴールドの宝石。煌びやかなシャンデリアの光を反射する金色に近い髪をぴしりとオールバックにした厳めしい表情の若い男——劉仁は、眉一つ動かさずへらへらと笑う男を見下ろしていた。
    「あの、実は僕も似たような趣味が——あっ、えっと、アハハ……違いましたか……?」
     劉仁にぎろりと睨まれた男はさながら虎に睨まれた蛙の様相で、憐れなほど声が裏返っていた。焦り、恐怖。苛立ち、怒り。男と劉仁の中で奔流する感情の羅列を、マツリは自然と目で追う。が、ふと劉仁の背後に視線を向けた。
    「——なー、そこのカッコいいオニーサン?」
     背後から近づいてきた声に、劉仁が微かに目を見開いた。
    「お取込み中か? そいつ、オレの連れなんだよ。やー、面倒見てもらって、どーも」
     いつもよりも豪華な赤いチャイナ服と派手な仮面を身に付けた霊霊が、にやにやしながらやってきた。
    「あー! いたー!」
     マツリはぱたぱたと駆けていき、霊霊にしがみつく。
    「いたー、じゃねぇよ。そりゃオレの台詞だっての。勝手にいなくなんなし」
    「『マツリから目を離すなと言ったろう』」
    「それ何語? あー……中国語? オニーサン中国の人? ワリィ、オレ中国語分かんねぇんだわ」
     霊霊は日本語しか話せない。が、中国語を理解できる。けれど人は、違う言語を話す者同士の会話が通じているとは考えない。だから、劉仁が中国語、霊霊が日本語を話してさえいれば、互いに知らぬ存ぜぬを貫きながら多少なりとも情報交換ができる——そういえば二人は先日、そんな作戦会議をしていたかもしれない。霊霊がマツリの肩をとんとんと叩く。視線を劉仁に向けたまま、霊霊は心中に、マツリへの指示を浮かべていた。
     “ワンワンの頭の中、覗け。”
     言われたとおりに、マツリは劉仁の心中を覗き込む。表層ではない、もっと奥。たくさん浮かぶ言葉の中から必要なものを掬い取るためには、集中する必要がある。
     じっと目を凝らすと、世界のすべてが遠くなる。騒めきが遠くなり、人々の心中の言葉が溢れかえる視界がクリアになり、マツリは静まり返った静寂に取り残される。周囲から誰もいなくなる。
     劉仁はマツリを“拒絶”していない。だから、不必要に力を込めなくても深部まで情報が拾える。“対象”から飛び出した映像が、文字列が、目の前に映し出される。マツリはそれをただ見つめた。
     これを書き換えることもできる。消去することもできる。深部まで侵入してぐちゃぐちゃに掻き回した人間は、大人たちから“狂ってしまった”と表現されていた。中身を綺麗に正せば、元に戻すこともできる。絶対に戻せないくらいに、滅茶苦茶にすることもできる。なにか言葉を書き加えれば、みんなマツリの言葉どおりに動く人形になる。けれどマツリは、そんなことはしない。
     センセーがそう言ったから。
     劉仁のことは好きだから。
     霊霊の役に立ちたいから。
     映像を見ながら、ふと、隣に誰かが立っているのを感じた。
     “彼女”がマツリの隣に並ぶようになったのは最近になってからだ。彼女はいつも、ただ立ち尽くしている。何を語ることもなく。

    「『お前がどうしてもというから仕方なくマツリの同行を許可したが、これ以上はダメだ。ここはマツリの教育に悪すぎる。黒服に声を掛けて、客室へ行け』」
    「だーからオニーサン、オレ中国語分かんねぇんだって。えっなに、なんか怒ってんの?」
    「『あぁ怒っているさ。いい加減マツリを巻き込むのを止めろ。いいか、マツリを同行させるのは今回で最後だ。それと、部屋に行ったら徹底的に部屋の中を先に調べることを忘れるなよ。監視カメラや盗聴器の類が設置されている可能性もある』」
    「えーちょっと、何言ってんのか全然分かんねぇわー」
    「『ほとほと白々しくて苛つくな。……ホテル内の監視カメラの映像については、外の部下がハッキングに成功し常時チェックしている。万が一お前たちの客室に近づく者があれば伝えることはできる。だが、それ以上の助力は難しい。いいか、マツリだけは守れ。お前が巻き込んだんだからな』」
    「おっけーおっけー。お前がオレの連れを気に入ったことだけは分かった」

    「——くろくて、あかくて、しろくて、おおきい」
    「……なんて?」
     気が付くと、上から霊霊が覗き込んできていた。マツリはにぱっと笑みを浮かべる。
    「んーん! なんでも! ないよ!」
    「そうか? 終わったか?」
    「だいじょうぶ!」
    「んじゃ、帰るか。じゃあなー、中国人のオニーサン」
     霊霊がひらひらと手を振ると、劉仁は不満そうに顔を顰めて腕組みしていたが、それ以上何を言うこともなく踵を返すと、きびきびと去っていった。ふいに霊霊がマツリの手を握る。
    「お前、すーぐどっか行くからな。こーやって捕まえとくことにするわ」
     霊霊が言う。マツリは、ぱっと満面の笑みを浮かべた。
    「うん!」
    「おい。振りかぶんな振りかぶんな」
    「うん!!」
    「だからー、力いっぱい振んな、って……」
    「あの、あの……あなたがその子のご主人様かな? 少しお話ししたいんだけど……」
     黙って立ち尽くしていた男が霊霊に駆け寄ってきた。安堵、執着、欲望。浮かぶ仄暗い感情に、マツリは霊霊の手のひらを少しだけ強く握った。
    「あ? お前まだいたの? ってか、ご主人様ぁ? なんだそれ、キッモ」
     霊霊がすぱんと言い捨てると、男は少し怯んだが尚も追い縋る。
    「ねぇ、その子を僕に譲ってくれないかな? お金は言い値で払うよ」
    「…………は?」
     目を見開いて、霊霊は一言だけ音を発した。霊霊の中にふわりと、一つだけ感情が浮かぶ。
    「ふ、不愉快だったならすまない。けれどあのね、僕はッ……」
     対して男の周囲では、男の感情が黒く絡まり折り重なって、ぐるりぐるりと輪を描いていた。焦りと恐怖、諦めきれない執着。マツリは握った霊霊の手を軽く引っ張った。
    「れーれー」
    「ん? どーした」
    「お金以外で何かほしいものがあれば、っ——え?」
     言葉を並び立てていた男は不自然に動きを止めると、回れ右をして立ち去っていく。男の周りで踊っていた言葉は消えて、代わりに書き加えられた言葉が男の背に大きく真っ赤な字で浮かびあがる。
    「うふふ、おしまい!」
    「マツリぃ」
    「ん!」
    「やり過ぎんなよ。お前がそれやると、ワンワンの機嫌が悪くなってメンドクセェ」
    「あいっ」
    「返事だけはいいんだもんなー。ま、とりあえずここ抜けちまうか」
     霊霊がマツリの手を引いてくれる。
     うれしい。たのしい。うれしい。
     マツリは繋いだ手を、力いっぱい振りかぶる。

     九楡羅マツリは、この力を使わない。
     大事な人に害が及ばない限りは。
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    👏👏👏😭😭😭👏👏👏🌋
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    Replies from the creator

    みなも

    DONEとんでもない書き間違いとかなければ!これにて!完結!
    7か月もかかってしまった……!
    長らくお付き合いいただき、本当にありがとうございました!!
    ウルトラバカップルになってしまいましたが、今の私が書けるウルトラスーパーハッピーエンドにしたつもりです!
    ものすごく悩みながら書いた一連の3日間ですが、ラストは自分でも割かし納得いく形になりました
    2024.3.24 追記
    2024.4.30 最終稿
    玖朗さんお誕生日SS・2023【後編・3日目】 ゆっくりと瞼を開けたその瞬間から、身体が鉛のように重く、熱を持っていることが分かった。たまにある現象だ。体温計で測るまでもなく、発熱していることを悟る。
    「ん……」
     起き上がろうとした身体は上手く動かず、喉から出た唸り声で、声がガラガラになっていることに追眠は気づいた。そういえば、引き攣るように喉も痛む。ようやっとのことで寝返りを打って横向きに上半身を起こすと、びりりと走った腰の鈍痛に追眠は顔を顰めた。ベッドサイドテーブルには、この状況を予期していたかのように蓋の開いたミネラルウォーターのペットボトルが置かれている。空咳をしてから水を含むと、睡眠を経てもなお疲れ切った身体に、水分が染みていった。
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