わたしなすてきな夢 1 フォルダの中のPSDファイルのアイコンを掴んで、Dropboxにアップする。プログレスバーの点滅が終了したのを確認して、ヘッドセットからDiscordで話しかける。
「14ページの背景終わりました、確認してつかあさい」
「了解なり!」
ティーチの返事に安心しつつ、預かっている25ページのファイルを開く。既にティーチがキャラクターを書き込んでいるが、背景は白い。
受け取っている参考写真を開き、背景とモブを書き込んでいく。
定時の八時の前には25ページも終わり、再度Dropboxにアップする、
八時のアラームが鳴ると、ヘッドセットからティーチが話しかけてきた。
『みんなたちのおかげで今日もノルマ達成! この分なら締切前に原稿を渡せるでござる』
お疲れ様でした、とオンラインのアシスタントたちが揃って返事をする。
『明日も十時に集合な、おまいらいいもん食って寝ろよ!』
グループ通話が切れ、以蔵は両腕を挙げて背筋を伸ばす。
「……今日もわし、頑張った」
しみじみとつぶやいていたら、液晶モニタにDiscordの通話ウィンドウが起動した。
ティーチからだ。
冷や汗をかきながら通話ボタンをクリックする。
「あ、鉄蔵氏?」
「ど、どういたがか。何か不都合があったがかえ?」
「そんなに気ぃ遣うなよ、知らん仲じゃねぇだろ。今回鉄蔵氏がヘルプに入ってくれたから今回余裕入稿できそうってもんだ。モブもきっちり俺の絵柄に寄せてくれて。声かけてよかったぜ」
その感謝に満ちた口ぶりに安心する。
「くろひー、おまん忙しいがにようニュース見ちゅうのう。わしに時間があったがを知っちょって」
「あれはひでぇと思ったからな。編集と原作の喧嘩に巻き込まれてコミカライズ連載中断だなんて、漫画家として他人事じゃねぇよ」
確かに、ここ一ヶ月ほどは会う人会う人から同情の言葉をかけられた。
原作は小説投稿サイトでも実力派という評判を受けていたし、『次に来るラノベランキング』でも上位に入っていたから、しばらくの生活は安泰だと思っていたのだが。
コミカライズの仕事に集中していたから、次のアイデアもそうすぐにはまとまらない。新たなコミカライズなどの企画に誘われるとしても、準備には相応の時間がかかる。
今まで作業をお願いしていたアシスタントの給料は、編集が責任を取って出してくれることになった。しかし、コミックスの発売や重版も白紙になって、想定よりも収入が大きく落ち込むのは既にわかっている。
アイデア出しや営業の合間に、スポットのアシスタントに入って少しでも生活費を稼ぐしかない。
「……で、鉄蔵氏。俺とちょっと真面目な話しない?」
「厭じゃのう、わしβやぞ? いくらおまんが稼ぐ男やち一緒になれんわ」
ティーチは顔を見ただけでわかるほどにα性が強い。
「いやーん、振られちゃったわぁ……じゃなくてだな。鉄蔵氏、うちに入る気ない?」
心の天秤を見透かされないよう、そっと息を吐いた。
「今度バソのやつが連載決まっちまってさ。もちろんそれはいいことなんだけどよ、うちは新しいチーフ決めなきゃならねぇだろ? 鉄蔵氏なら経験もあるから信頼できるし」
コミックスも二ケタを数え、アニメの二期も決まっているティーチは、既にプロダクションを法人化している。オタク仕草が強く、常にふざけているように見えるが、締切を破ったことは一度もないと言う。
安定、というワードが目の前をちらつく。
――けれど。
「ちっくと、考えさいとうせ」
「まぁ、すぐ返事がもらえるとは考えてねぇからよ。ただ、拙者が鉄蔵氏のテクニックを買ってるのは覚えててくれよな」
ティーチは明るい声を出して通話を切った。
ヘッドセットを外して、後頭部の髪ゴムを解く。
作画作業はもっぱら在宅でできるから、おっくうだと思っているうちに髪が伸びる。
連載を持っていたら時間がなく、終わったら金がない。
(まっこと、ままならんのう……)
癖毛をぐしゃぐしゃとかき混ぜる。
明日もアシスタント作業があるから、早く気分を切り替えて休まなければならない。
ぼさぼさ頭のまま、キッチンの冷蔵庫から発泡酒を一本取り出す。プルタブを引き、ひと口飲めばアルコールが血液に乗って回る。
酒を飲んで寝るのは健康によくない、とわかっていながら、以蔵は悪癖に浸る自分を抑えきれなかった。
◆ ◆ ◆
幼い頃から、観察力も動体視力も高かった。見たものを紙へ落とし込む技術もあった。
週刊誌連載の人気漫画を模写してはクラスメイトに見せ、欲しい欲しいとねだられるのが好きだった。
高校では美術部と漫研を兼部した。
高知には画塾などなかったので、美術の先生とマンツーマンでデッサンを繰り返した。給料が出るわけでもないのに、先生は以蔵の熱意に感銘して指導してくれた。ペンネームの『土井』という名字は先生からいただいた。
東京の美大に入って腕を磨きながら、漫画の持ち込みを始めた。今どんなジャンルやテーマが流行っているか、エンタメ業界の趨勢にはいつも気を配っていた。
初めて持ち込んだ編集部で、編集者は以蔵の原稿をちらちらと見て、
「絵はうまいね。美大通ってるんだって? 基礎はできてる。描き続ければ伸びると思う」
百戦錬磨の編集者から褒められ、有頂天になりかけた時。
「で、君は何を描きたいの?」
以蔵は思わず編集者の手の中の原稿を見た。
「え……」
あらすじはわかりやすくなるよう気をつけた。主人公が何を考えているか、心の声も含めて描いた。
「何を……って……異世界転生の俺TUEEEを」
「そうだよね。今流行ってるもんね、現世の知識を中世みたいな世界に持ち込んで無双するやつ」
編集者の頬に、わずかな嘲弄の動きがあった。
「それを描いて、君は読者に何を伝えたいの?」
考えたこともなかった。
絵のうまさは自覚していたから、漫画を描くことも自然と定まっているように感じていた。
大手週刊誌で連載を持ち、単行本が書店の平台に並ぶ、あるいは電子書籍サイトのランキング上位に入る――そんな未来を想定していた。
読者の存在など、今まで意識したこともなかった。
「何……って……」
「君が何を描きたいのかわからない。ただ流行りの題材を使って、読者に今まで読んだ作品と同じ読後感を与えたい。それをこれからデビューしようとする君が描いても、後追いにすらならない。僕らは流行りに流されない人が欲しいんだ」
心臓を掴まれるような感覚が襲ってきた。
「君が描きたいものを描けるまで、持って来なくていいよ」
そう言って編集者は原稿を封筒に入れ直して以蔵に渡した。一応の礼儀として編集部のエレベーター前まで送ってくれたが、既に別のことを考えているのが見て取れた。
どうやって安アパートへ帰ったか覚えていない。
描きたいこと。
読者に伝えたいこと。
流行りに流されないこと。
今までの以蔵の努力とは正反対だった。
丸一日食事さえ摂らずに天井を見て、昼にようやくパスタをゆでてスマホを手に取った。
『漫画の描き方 テーマ』
そんなワードで検索すると、漫画家や漫画家志望者がどんな風に感性を磨いているのかがうかがえた。
漫画を読むのは大事だが、漫画ばかり読んでいても人気作家の劣化コピーにしかならない。小説を読み、映画を観て、ノンフィクションに学んで、繁華街の広場で人間観察する。
見よう見まねで始めてみたが、感性が高まったという自覚は簡単にはつかなかった。
何者にもなれない自分のもどかしさを原稿にぶつけ、新興雑誌の編集部に持ち込んだ。
「うーん……」
編集者は首をひねった。
「荒削りだなぁ……何を言いたいかがいまいちわからない……」
ため息をついた編集者は、しかし手許のタブレットを手に取った。
「でも、絵はめちゃくちゃうまいよね、君。新人離れしてる。今、うちの別の編集部で葛飾北斎先生がアシを探しててね、勉強だと思って現場に入ってみるのはどうだい」
同じことを言われても、順番次第で印象が変わる。
北斎は、描き込みの精緻さとその密度を月刊誌の締切に間に合わせる胆力で有名な漫画家だ。
担当編集に連れられて初めて現場に入った時、編集者の足許に何かの塊がぶつかった。
「お栄ちゃん、元気かな?」
「おうサ! ととさまはかまってくれねぇけど!」
三歳ほどの元気な幼女は、北斎の娘らしい。
作業場は二十畳を少し超えたくらいで、上座にゲーミングチェアを備えたデスクが、その手前にデスクが四つ向かい合わせに並んでいた。それぞれ、机の上にはデュアルモニタと板タブが乗っている。
「お前さんが新しいアシかい」
北斎は精力にあふれているが、同時にどこか得体の知れない影もまとっているように見えた。現実離れした言い方をすれば、クトゥルフの邪神と取り引きしたかのような。
「学生さんって聞いてるケドヨ」
「北斎先生のところで勉強できるなら、学校をやめてもえい思うちょります」
大学三年になった以蔵は、卒業に必要な単位をぎりぎり取っていた。
正直、この頃の以蔵は優先順位がバグる程度に心のバランスを乱していた。
「いや、学校は卒業しろヨ。今半端な実力で来るより、学べるもんを身につけてから戦力になってくれた方が俺は助かる。もちろん仕事はしてもらうが、若いンだから三時間も寝ればいいだろ」
めちゃくちゃを言われていると思いながら昼は学業に励み、夕方から夜はアシスタントをして、身体を引きずるようにして安アパートに帰って寝た。
夕食が出て来るのはありがたかったが、妻のいないシングルファーザーの北斎はアシスタントの分も合わせて出前を取っており、濃い味に飽きることもあった。
ともあれ美大を卒業し、北斎の許で漫画のテクニックを学び、何人もの新人漫画家と知り合った。ティーチもその一人だ。
やがて感染症が流行り、ひとつの部屋に集まって作業することができなくなった。
そんな折、北斎が描いている雑誌の編集者から声がかかった。
『ファンタジーのコミカライズを描ける新人を探している』
もちろん以蔵に依頼したと北斎にも話が行った。
「先生……わしに務まるでしょうか」
「そろそろお前も独り立ちしてもらわねェと困る。こっちは雛鳥に餌をやってる気持ちなんだからヨ」
「けんどわし、先生ん家に来てから時間がない言うてオリジナル描いちゃぁせんですき」
「オリジナリティなんて、そんなもんは後からついてくんだよ」
自分を凡人だと思っている天才特有の物言いだ。己の才能を信じられなくなった以蔵には痛い。
「小僧、お前にいいもんやる。俺の本名知ってるか?」
「いんや……どこぞでおっしゃっちゅうがですか?」
「表立っちゃ言ってねェケドヨ……俺は中島鉄蔵ってんだ。お前に俺の名前やるヨ」
以蔵でも、弟子に名前をつけることの意味はさすがにわかる。
「先生! ほがぁな……」
「俺はお前に期待してるんだぜ、鉄蔵先生?」
北斎はからからと笑った。
ふわふわした心地のまま玄関に立つと、保育園児から小学一年生に成長したお栄がにこにこと手を振ってくれた。
こうして誕生した漫画家・土井鉄蔵は、師匠譲りの精密で美しい作画が一部の好事家から注目され始めた。
最初の連載は二巻で円満に終わり、次の大きな仕事に気合いを入れていたところだった。
発泡酒を一本飲み終わって、リビングのテレビをつけた。
ちょうど、『Ω雇用機会促進法』のニュースが読み上げられていた。
確かに、今のような『生む機械』扱いされるのがもったいなくなる人材もいるのだろう。有能な者が、Ωだというだけで社会から爪弾きにされるのは損失だ、と解説委員は言っている。
とはいえ以蔵の家族は全員βで、子を生むことを期待されるタイプのΩと接触する機会はない。社会問題として、己の手許に引き寄せて考えることは難しい。
抑制剤を飲んでいるΩも世間にはいるのだろうが、隠し通そうとしているのをわざわざ暴くほど悪趣味ではないつもりだ。
(……ま、仕事がのうなったわしの身の振り方より大事なもんはないきのう)
チャンネルをバラエティーに変えて、芸人が語る体験談に耳を傾ける。こういったものから刺激を受け、自分なりのアレンジをして作品に活かす――そんな努力も必要だろう。
しかし以蔵の心の器はまだ底に数滴の水が落ちているだけだった。
もう一本発泡酒を空けて、
(こういて禁酒もせんき、金がのうなるがじゃな)
と実感しながら、震えたスマホを見る。
仕事用に公表しているWebメールの通知は、PCだけではなくスマホにも届くようにしてある。仮に大きな仕事が来て、見逃しでみすみすチャンスを失うのは惜しすぎる。
どうせ迷惑メールじゃろ、と思ったら、
『コミック執筆のご依頼』
そんな文字列が、ロック画面に浮かんでいた。