わたしのすてきな夢 5 最寄り駅のロータリーに、知らされていた通りの黒に近い濃紺の色のセダンが滑り込んだ。
「以蔵さん!」
車窓から身を乗り出して手を振る立香を危なっかしいと思いながら、以蔵は助手席に乗り込んだ。
「お待たせ」
「言うほど待っちゃぁせんよ」
「じゃぁ、待ってなかったってことにしようかな」
くすくすと小さく笑いながら、立香はアクセルを踏んだ。
先日のオフィスカジュアルもフェミニンだったが、私服だとよりその傾向が増すらしい。
ショート丈の白いジャケットに、紫色のシアースカートを合わせている。メッシュ素材が運転席のレバーなどに引っかかりはしないかと心配してしまうのだが、本人は気にしていないらしい。
「車らぁ、持っちょったがか」
問うと、立香は正面を見たまま言った。
「お兄さんのを借りたの」
「兄やんも東京におるがか」
「一番上のお兄さんが地元で家を継いで、下のきょうだいはそれぞれ都会の大学を出て働いてて。お父さんの代もそうだったんだって。今の家も叔父さんの物件だから、安く貸してもらえてるんだ」
まだ二十代じゃろうにどればぁ稼いじゅうがか……と思っていたら、どうやら結構なお嬢様らしい。それはそれで気が引ける。
岡田家は幕末までは土佐の郷士だったが、御一新で身分を失って町人に混じって働き始めたらしい。刀も何も伝わっておらず、長男を東京の美大にやるような、格式ばらない普通の家庭になっている。
「つき合ってる人と舞浜に行くって言ったら、楽しんで来いよって。立香から浮いた話を聞くのも初めてだって。だから今日は、思いっきり楽しも?」
「ほうじゃのう……」
(取材じゃ、取材)
高校の修学旅行は沖縄だった。青い海の色は桂浜とはまた違ってさわやかだったが、やはり東京の方が刺激的だとも思っていた。
上京してからは勉強や漫画やアシスタントなどで時間もなく、無駄に遣える金もなかったから、テーマパークなど遠い世界の話として聞いていた。
一人ではハードルの高い場所へ、被写体を伴って行ける。
降って湧いた機会に、昨夜はスマホの容量を空けた。
立香も行くのは久しぶりらしく、
「以蔵さんが初めてなら案内できる……って思ったけど、アトラクションも増えたり減ったりしてるし、レストランのメニューも変わってそうだし」
「えいき。行ってわかることもあるろう」
ナビに従って轍を描き、車窓から見える物珍しい景色を見ながら、テーマパークに着いた。
日曜は混んでいる。開園前にもかかわらず車は駐車場の端に案内され、一つアトラクションに乗ったくらいの気持ちでエントランス前に着いた。
『TICKET』と書かれた窓口へ向かおうとする以蔵のジャケットの裾を、立香は引っ張った。
「何するがじゃ。チケット買わんと入れんろう」
「チケットあるよ? 言わなかったっけ」
立香はバッグからチケットケースを取り出した。
「ほら、これ」
コンビニで発券されたチケットを渡され、以蔵はしばし呆然とする。
「だって混むのわかってたし。先に買っといた方が絶対に賢いよ」
「いや……いくらじゃ。女に出さすらぁ、わしん矜恃が許さん。二枚分出しちゃるき、待っちょれ」
チケットを見て値段を確認する以蔵に、
「いや、大丈夫。こういう時はαが出すもんでしょ」
何でもないように立香は言った。
その言葉を受け止め、飲み込み、反芻する。
(……あぁ)
そして、思い至る。
(こいつはわしの知らん常識で生きちゅうがじゃな……)
「立香、おまん家のきょうだいにαは何人おる?」
消化の過程で思いついた推論を口にしてみた。
立香はほんの少し眉を曇らせて、笑った。
「うちね、全員α。そういう家系らしくて」
「ほう……」
(ほがぁなこっちゃろうと思うた)
いわゆる名家は、αが生まれやすいDNAを持つことが多いという。
考え方が逆で、αの人材が家を盛り立てるから名家になるのかもしれない。
どちらにせよ、藤丸家は地元では音に聞こえた存在感を持っているのだろう。
そんな環境で育てば、「抱かれたい」という願いを口にすることすら難しいかもしれない。
だから行きずりに近い、力関係で勝る男を捕まえた。
理屈は通る。
しかし、利用される側が素直にうなずけるかと言えば――
(ほうじゃ、取材じゃ。しかも、さっきまで計算しちょった取材費もタダになる。経費で落ちるがとおんなじじゃ)
頬に浮かぶ底意地の悪さを見られたくなくて、立香から顔を背ける。
(こいつがえい言いゆうがじゃ。わしが気にすることやない。わしはなーんも考えいでおればえいがじゃ)
「以蔵さん? どうしたの?」
心配げな声に呼びかけられて、大きく息を吸い、吐いた。
「以蔵さん」
冷静そうな顔を作って、振り返る。
「おう、すまんの。ちっくと考えごとしちょったがじゃ。こん中は写真でしか見たことがないき、どうなっちゅうか思うてのう」
「そう言われるとわたしも案内頑張っちゃえるなー」
浮かれた声の立香に、
(ほうじゃ。おまんがわしを利用する分だけ、わしもおまんを利用するがじゃ。もちろんえい目は見せちゃるき、くつろいでわしん取材費出しや……)
濁った感情を胸の鎧の中に封じて、以蔵は穏やかな笑顔になるよう顔面筋に命じた。
◆ ◆ ◆
「あいたっ」
車に乗り込もうとして、黒いねずみ耳のカチューシャが天井に触れた。立香が小さくうめく。
それを見て、以蔵は頭からカチューシャを外して助手席に収まった。
「ちゃっかりしてるなぁ……」
「賢者は歴史から学ぶ、っちゅうやつじゃ」
「歴史短すぎるねぇ……これ、どうしよ」
『これ』というのは、首からぶら下げたポップコーンのバゲットのことだ。立香がご機嫌で買い、おかわりもしたが、夢のおまじないが解けたら荷物になる。
「ほいたら」
以蔵はバッグの中に二枚は常備しているビニール袋を取り出した。二重に包んで、持ち手を縛る。
「兄やんの車なら、だきにせん方がえいろう」
「ありがとう」
袋を受け取った立香は、身をひねってそれを後部座席のシートの上に置いた。
かすの出る場所は少ない方がえいがやいか……と思ったが、食べ物の容器を床に置きたくないという気持ちもわかる。
「ベルト締めた? じゃぁ帰ろう!」
立香が高らかに宣言し、軽は駐車場から滑り出した。
すぐに高速に乗り、等間隔で通り過ぎる照明を目で追う。
大きな川を渡り、少しずつマンションの灯りが増えてきた辺りで、立香が小声で言った。
「以蔵さん……今夜、泊まってきます?」
(ほれ来た)
「わしはおまんの好きにしちょくれてえいよ」
「優しいね……」
頬を染める立香に、
「ほれ、前見ぃ。兄やん家に着く前に事故ったら目も当てられんき」
「そ、そうだね……」
立香の兄はタワーマンションに住んでいた。
駐車場の入口の前で立香がLINEを送り、五分ほどで通用口から男性が出てきた。オレンジ色の髪を、清潔に切りそろえている。
以蔵は頭を下げて、パーク内で買ったクッキーのアソートを差し出した。
「立香さんにはお世話になっちょります。つまらんもんですが、どうぞ皆さんで」
立香の兄は笑って紙袋を受け取った。
値踏みの視線を浴びたような気がするが、可愛い妹についた虫を警戒するのは当たり前のことだろう。
「以蔵さん、ちょっと表通りで待ってて」
立香は顔の前で手を合わせた。その後すぐに立香と兄が話し始めたから、空気を読んでエントランスの前へ行く。
天を衝くような、なんていうのは陳腐な形容だが、星空へ向けて高く伸び上がっている様は住人の名誉欲や自己顕示欲を示しているかのようにも見える。
それが虚栄に繋がったり、人を突き落としてでも己をよく見せたいという気持ちへ化けたりする。
人の愚かさは、いつの世でも絶好の題材になる。
吸いたいのう、と思うが、一等地の条例で路上喫煙は禁止されている。
破っても逮捕はされないとはいえ、車を借りた立場では兄の不利益を働かない方がいい。
パーカーの布地越しに煙草のボックスを撫でさすっていたら、立香が戻ってきた。
「話は終わったがか」
「うん」
「何ぃ話しちょったがか」
以蔵が問うと、立香の頬はわずかに固まった。
「……その」
「いや、言いとうないなら言わいでえい。家族ん話は他人に言えんこともあるろう。わしが無神経じゃったわ」
雰囲気をごまかすために笑う以蔵に、立香は目を細めた。
「どういた」
「ううん……おみやげは自宅用?」
「片方はほうじゃ。ちょうどのうがえい大きさの缶が欲しゅうてのう……もう一個の箱は、デビュー前からお世話になっちょった先生のお宅に届けよう思うての。アシがまだ自宅におるかはわからんけんど、小学生の嬢ちゃんがおるきチョコらぁどればぁあってもえい」
「それって、『鉄蔵』の名前をくれた先生? 大切にしてるんだね」
「腐っちょったわしに喝入れてくれた恩人じゃし……みやげがあったらお栄も喜ぶき」
「そういう気持ちが大事だと思うよ」
「ほうじゃのう……」
「タクシー捕まえる?」
「おまんがほいでえいなら」
「いっぱい歩いたから、疲れちゃったよね」
交差点から離れた路上で立ち止まり、三分ほどで空車のタクシーが来た。
立香を先に乗せ、両手いっぱいの荷物もろとも乗り込み、立香が家の住所を伝えると、タクシーは発車する。
「以蔵さん……あのね」
ちょいちょいと立香は手招きした。
その意図を察し、耳を口に近づける。
立香は以蔵の耳許で、エンジン音と同じくらいの声で言った。
「その……キャリアオイル、大容量六本セット買いました」
息が熱い。
以蔵は首を右に向けて立香の耳たぶをつまみ、
「気が合うのう、わしはローション買うてきたき」
以蔵の触れていた耳が、発火するのではないかと思うくらいに熱を帯びた。顔を覗き込めば、形のいい口がぱくぱくと動いている。何かを言葉にしたいが、何も言えない――といった風情だ。
「どういた?」
「いや、気が合うねーって……はは、あはは……」
「楽しみじゃったか?」
「はい……」
立香は両手で顔を覆った。
決して気持ちいいだけの行為ではないだろうに、そんなに男を迎え入れられる身体になりたいのだろうか。
今日も抱けないだろうとわかっているから、昨日のうちに処理しておいた。
もっとも、あの中学生のような割れ目と屹立して樹液を吐き出すクリトリスを見れば、どれだけ盛り上がっても萎えるが。
(……身体の相性以前の問題じゃ)
ふわ、と痛みと快楽の狭間で悶える立香の顔が脳裏に浮かぶ。
(余計なこと考えな。わしはご奉仕しちょりゃえいがじゃ)
鎧の中で、濁った感情が揺れる。
(取材じゃ。これは取材じゃ……わしらは利用し合うちゅうがじゃ……)
その一番底で、真っ先にかぶせた泥の下にある柔らかい部分が光を帯びたように感じたが――
気のせいだ。