しあわせな蛇足 以蔵が立香に恋をしていた――。
立香にとってはあまりに現実味がなく、過ぎた想いの見せる幻覚かとも思ったのだが。
七時過ぎに、スマホが通知音を立てた。
『おはようさん』
今まで能動的に送られることのなかったLINEのメッセージに、立香はいっぺんに覚醒した。
『二日酔いしてないか、のうは悪くないか』
文章特有の、以蔵の標準語寄りの言葉遣い。愛しいものを与えられて、胸の内側が潤う。
『大丈夫、問題ないです』
『ならえいけど』
『心配?』
『彼女さんを心配するのは当たり前だろう』
(彼女さん、ってわたしのこと)
昨夜の告白は嘘でも偽りでも、夢でも幻でもなかった。
『今日の学校は何時から?』
『土曜だから休みです』
『二度寝しなよ』
今までのうっすらしたものではない、はっきりした気遣いを向けられて、涙がこぼれそうだ。
『以蔵さん、好き』
『わしも』
今までの『知っちゅう』という答えとは明らかに違う。以蔵の気持ちが、立香に向けられている。
立香と同じ時期から恋心を抱いていた、ということには思うところがないでもないが――今は想いが通じ合ったことを素直に喜びたい。
黒ポメラニアンが『!』マークを浮かべているスタンプが送られた。
『今日予定はあるか』
『いつも通りカフェから以蔵さんちに行く予定です』
『少し時間くれ』
今までなかった誘いに動揺する。
『直接渡したいものがある』
立香はフォウくんが『OK』と言っているスタンプを返したが――
改まって、なんだろう。
(悪いことじゃなければいいけど……)
そう考えてから、するべきことを思い出す。
今日は休日。つまり、以蔵のために少し手の込んだ料理が作れる日だ。
昨日はあんなことがあったから、食材の買い出しはできていない。
せっかく早起きできたのだから、近所のスーパーの朝市に行ってみよう。お得価格の商品を見て、献立を考えたい。
そう思いついたら、行動せずにはいられない。
立香は早速顔を洗おうとユニットバスに向かった。
「ご苦労さん」
保温バッグを肩がけして現れた立香に、以蔵は指定席から手を振った。
行きつけのカフェの内装には何の変わりもないはずなのに、光と色彩が満ちているように感じてしまう。その真ん中にいる以蔵の周りには、きらきらと星が舞っている。
「まぁ、座りぃ」
以蔵の言葉に、正面の椅子を引いて腰かける。やって来たウエイトレスにホットのオレンジペコを注文して、メニューをテーブルの端に寄せたら、以蔵が呼びかけてきた。
「立香」
その、少しばかりかしこまった口調に、こちらも背筋が伸びる。
「なんでしょう」
「これ、やる」
以蔵が取り出したのは、一封の茶封筒だった。
「わたしに? 開けていい?」
以蔵はうなずく。
テーブルに置かれた封筒を早速手に取ってみた。手触りから、手紙の類ではない。小さくて重いものが入っている。
封はされていなかったから、逆さにしてみる。口からこぼれたのは、鍵だった。
「これ、どういう……」
「いつまでも郵便受けの鍵使われるわけにはいけんきの」
ぼそり、と言葉をかけられる。
その言葉に、いっぺんに胸が熱くなった。
昨日までの立香はストーカーだった。以蔵の家に入るには、マンション一階の郵便受けに置いてある合鍵を使っていた。
「思ってはおったがじゃ。あこに置いちょったら防犯上問題がある。うちには盗るもんはないけんど、こん先何があるかはわからん」
「実際、不審者が入り込んでましたしね……」
「不審者が何か言いゆうな――まぁ、ほがなわけで、さっきこれ作ってきた。好きに使いぃ」
以蔵は頬を染めて視線を逸らした。
「いいの?」
「彼女さんに不法侵入さすわけにゃいけんろう」
目頭が熱くなるのがわかった。鍵を握りしめる両手が震える。
昨日まで、まったく脈がないと思っていた。なんとかして以蔵に振り向いてもらえるようにと、必死に術を模索していた。
嘘みたいだ――でも、嘘ではない。
「あぁ、こがなことで泣きな。おまん、涙腺がちゃがまったかえ?」
「以蔵さんのせいだよ……好き……」
なんとか落涙はこらえて、目許をハンカチで押さえる。そして、前々からうっすら考えていたことを伝えようと思いつく。
「以蔵さん、わたしね、ずっと以蔵さんのごはん作ってたでしょ」
「なんじゃ、毒でも入っちょったか」
以蔵は愉快そうな笑顔を作った。斜めになる唇の角度がかっこいい。
「そうじゃなくてね……人間の身体の細胞って、どれくらいの周期で入れ替わるか知ってる?」
「わしが知るわけないろう」
「粘膜は三日、皮膚は一ヶ月、血液は半年、骨は三年――らしいの」
「それがどいた」
「だから――以蔵さんの身体、わたしのごはんだけでできるようになればいいなって」
以蔵は数秒口を開けた後、唾を飲み込んだ。
「つまり……おまんの作る飯でわしん身体ぁ作らせぇ、と」
「うん」
以蔵は大きく嘆息する。
「おまん、おっもい女じゃのう」
「重い、よね」
語尾が濁ってしまう。
確かに重いと思う。こんな執着を向けられて、不愉快になる人もいるだろう。
言うべきではなかったのかもしれない。
しかし目の前の愛しい人は白い歯を見せた。
「重いがは知っちょったき、今更じゃ。ほがなとこも全部含めておまんじゃ。こがなことで嫌うたりはせんき、安心しぃ」
好きな人から肯定される。しかも、自分の欠点だと思っていたところを。
立香が好きになったのは、こういう人だ。
時に目先の欲に流され、困ったことも引き起こすけれども、心から想ったものごとに対しては真面目な人。自分がするべきだと決めたことをやり遂げる人。
好き――。
しかし今ここで以蔵を困らせてはいけないので、なんとか物理的に口を塞ぐ。
そんな立香を見て、以蔵は優しい顔になった。
運ばれてきた紅茶に砂糖を一杯半入れて、香りを味わいながら口にする。
「もうわしん身体は血までは入れ替わっちゅうわけじゃな」
「うん」
「骨もあと二年で」
「そう」
「……好きにしぃ。わしは出されたもん食うだけやき」
その言葉に大きくうなずく立香だったが、実は話には続きがある。
人体において、代謝の激しい部位は頻繁に入れ替わるが、そうでない部位もある。
脳や心臓の組織は、ほとんど入れ替わらないという。
しかし、『ほとんど』ということは、少しは立香にも割り入る余地があるということだ。
できれば、わずかでも脳や心臓に立香の爪痕を残したい。
もちろん、まだまだそんなことは伝えられないけれど――
「何作ってきた」
「角煮。コーラで煮たの」
「ほにほに、えいのう」
手を繋いで以蔵の家に着き、三階までの階段を上る。
ドアの前に着いて、以蔵は立香を見た。
「鍵、開けとうせ」
その言わんとすることを一拍遅れて理解して――顔に血が集まった。
今までのように忍び入るのではなく、手順を踏んで正式にこの家に迎え入れられる。
この鍵は、その象徴だ。
「以蔵さん、ありがとう……」
「頼まれたことして礼らぁて言いなや」
大きな手がオレンジ色の髪をかき混ぜる。
鉄製のドアノブの鍵穴に鍵を差し入れ、回す。
がちゃ、と施錠の外れる音はストーカーだった時と同じ音なのに、今はとても温かい。
そっとドアを開け、勝手知ったる玄関に入る。
すかさず腕を引かれ、厚い胸に頬を押しつけられる。
「もう離いちゃれんぞ」
ドアの蝶番が鳴り、熱い吐息が耳朶を打った。