海の魔女は丸いものが足りない あるところに、人魚たちのつくった楽園がありました。それはそれは美しい海底の王国で、色とりどりの珊瑚に囲まれて、人魚たちが鮮やかな尾びれを優雅に揺らしながら泳ぎ、暮らしていました。
その王国の魔女の一族にドラルクという名前の男人魚がおりました(魔女とは悪魔を信奉する者たちのことでしたので男でも魔女と呼ばれていました)。上半身は人の体で、下半身は魚の人魚であり、尾びれは幻想的なほどに美しい、きらめく紫色をしていました。そしてドラルクの歌声はどの人魚よりも美しく、楽園にふさわしい、悪魔ならぬ天使の調べと褒めたたえられていました。ドラルクは両親を筆頭とする一族から非常に愛されて、何不自由なく暮らしていました。
しかしドラルクには悩みがありました。生まれた時から、何かが足りない、あるべきはずの何かが手元にないという欠落感があり、いつも迷子であるかのように、心もとない気持ちが付きまとっていたのです。幼い頃より、両親がすぐそばにいるのにきょろきょろと周囲を不安げに見わたしていたものですから、もしかして目が悪いのではないかと心配され、人魚のお医者さまに両親が相談したほどでした。お医者さまからは体に異常は無いと言われ、両親もドラルクも、困ってしまったものでした。
成長したドラルクはむやみにきょろきょろするようなことはなくなりました。それは諦念によるものでした。そんなことをしても探しものは見つからないとわかったのです。ドラルクは、両親を説得し、魔女の能力を利用して、とある取引を始めました。それは訪れた者の願いを叶える代わりにその代価をいただくというものでした。
あるとき読経のような独特の音調で話す人魚がドラルクのもとにやってきて言いました。私は美しい歌声がほしい。歌手となってこの海すべてのいきものに希望を与える仕事がしたい。
――ならば、この私の歌声を差し上げましょう。その代わりに私の目となって海全体を見てきておくれ。この海のどこかに私の探しものがあるかもしれないから。
あるとき下半身が蛸の人魚がドラルクのもとにやってきて言いました。私は蛸足ではなく尾びれを持って生まれたかった。貴方のような美しい尾びれが欲しい。
――ならば、この尾びれと貴方の蛸足を交換しましょう。足がたくさんあれば同時に多くのことができるし、探しものをするのに便利そうだ。
あるとき人魚姫がドラルクのもとにやってきて言いました。陸の世界にあるクッキーというお菓子が食べたい。海でも食べられるクッキーをつくってくれ。
――ならば、私が作りましょう。その代わり、以前よりも早く泳げなくなった私をいつか助けておくれ。もしかしたら私の探しものはすばやく動くかもしれないから。
願い事を叶える蛸足の魔女はいつしか有名になり、数多くの人魚たちがドラルクのところへ訪れました。しかしドラルクの探しものは見つかりませんでした。ドラルクの家にはいつも丸いものがたくさん置かれていて、それを見た客たちは丸いものが好きなのかと丸いものを土産にし、更に丸いものが増える、丸いもの屋敷となっていました。しかしその丸いものたちも、ドラルクの心の穴を埋めてくれるわけではないのでした。
永い年月が流れました。もはやこの海にはドラルクの探しものはないのかもしれません。この蛸足を人間の足に変え、陸へ上がり、探す範囲を広げる必要があるのかもしれないと、ドラルクは考え始めておりました。
そんなある日のことです。その年の天気は藻類であることが多く、ふよふよと緑色のまるい植物が、陸の上で例えると雪のように、海底へとゆっくり漂い落ちてきていました。サンゴや貝たちは大喜びで、大量繁殖していました。ドラルクの家の周囲にも鮮やかないきものが増え、そしてそのうちの一匹が、ある時ふらりと部屋まで迷い込んできました。丸だらけの部屋のなかでその存在は浮いていましたが、それを見つけたドラルクは、なにか強烈な心惹かれるものを覚えて、そっと両手の平で持ち上げました。
それは、シャコガイ族の子どもでした。まだ育ちきっていない貝が、上下にわずかに開くと、そこには玉のような可愛らしい子どもがおりました。
――ああ……。
ドラルクはその子を抱き締めて、ピスピスと涙を流しました。人魚の涙は真珠になりますので、ころんころんと足元にたくさんの丸が散らばって、ドラルクの部屋が更に丸いもので埋め尽くされました。しかしもう、それらの丸は、ドラルクには必要ないのでした。
――すべて思い出した。ずっと会いたかったよ、ジョン。
ドラルクは手のなかにいる自分の半身へ向けて、泣き笑いを向けました。
それは7月1日のこと。とある夏の、海底での出来事だったのでした。
完