彼の自称完璧な存在たる主がゲームにかまけて、彼に完璧とは程遠い生返事を投げてよこしたとき、頭のなかにとある光景が思い起こされた。それは永い旅を経て再会したときの主の部屋が丸いものだらけになっていた光景だった。
　それが自分を失った（と主が思い込んだ）ゆえの苦しみのあらわれであることは彼にもすぐにわかった。その光景にいろいろと思うところはあった――あったはずだが、めまいがするほどの強烈な嫉妬が、それを塗りつぶしてしまった。
　その丸いものたちが彼の代わりになどならなかったことはなんの慰めにもなりはしなかった。「主が代わりを求めた」という事実が楔のようになって存在していた。たとえば自分がここへたどり着く前に、親も故郷も失った、しかも怪我をしているちいさなアルマジロが現れていたら、主はどうしただろうか？
　自分が主とかけがえのない時間を過ごしたのと同じように、そのちいさなアルマジロもまたかけがえのない時間を過ごしたかもしれなかった。彼のいないところで。彼の知る由もないところで。

　嫉妬という感情を強く意識することになったその出来事は180年ほど経った今でも古傷として彼の記憶に残っていた。
　嫉妬することはもはや彼にとって慣れ親しんだ感情であり、辛いことではなかった。ほんとうに辛いことは別にあった。

　だから彼は家出ごっこをすることにした。

　街を歩いているといろいろなひとに話しかけられた。その何人目かの子どもが手にしていたゲームを見てふと彼は思った。あれは主が買う予定だったゲームじゃないかヌ。今日何作か買っていたけどあのタイトルはなかったヌ。買い忘れているのかもしれないから初回限定版があるうちに教えてあげたほうがいいかもしれないヌ。買いそびれたことに気付いたらくやしさで砂になるヌ。
　でも今頃まだ主は別のゲームに熱中していて彼のことを思い出しもしていないだろう。それを思うと頬がむっと膨らんできたので、まだ帰らないことにした。

　更に何人かと交流したあと、同居人の友達の母親と出会い、やさしい彼女は家へと招いて自らが焼いたケーキをごちそうしてくれた。
　彼女は前回の家出のときもやさしくしてくれた。そうだ、そのとき閃いたように、レンタル使い魔をして家を渡り歩いて暮らそうかヌ。先に彼を忘れてゲームばかりしたのは主のほうなのだから、ヌンが主をほうって暮らしてみたところで。おあいこだヌ。あてつけに、…………。
　考え込んでしまった彼にやさしく声がかけられた。お土産にケーキを持って帰る？
　…………。
　主はそろそろ彼の不在に気づく頃合いであり、書き置きをみつけ、あわててお詫びのケーキを作り始めたところかもしれなかった。だからお土産は丁重にお断りすることにした。しかしまだ帰る気にはならず、こんど何かケーキのお礼をすることを約束すると、彼はまたぶらぶらと歩き出した。

　――誰と会っても何を見ても頭の片隅に主の存在を感じた。いま主が隣にいたらなんて言うかを音声付きで想像した。それはほとんどテレパシーのように自動的に行われた。
　彼はとうとう観念して主のもとへ帰ることにした。

　おかえり、私のジョン。

　主のもとへ帰って実際に言葉を交わすと、負の感情はするすると夢のように消えていき、いつもの甘い感覚にひたされた。主からの確かな愛情を感じたし、主への確かな愛情を感じた。

　ほんとうに辛いのは、嫉妬をおぼえることではなく、この時間の価値を見失うことだった。

　主がたとえゲームに熱中し自分を忘れるようなことをしても、自分は主のもとへ帰る気になれる、という確認作業が彼には必要だった。それは価値を見失っていないということだから。
　そのついでにお詫びのケーキも食べられた。こんどの家出のときはリクエストも書いておこうかヌ。
　ひたすら申し訳なさそうにする主に、彼はちゅっと仲直りの口づけをおくってあげた。

　そのときの味からケーキを食べてきたことがバレて、しかも謎の察しの良さと誘導尋問から吸血鬼の手料理であることを自白させられてしまい、またちょっとした痴話喧嘩のもとになるのは別の話である。


完ヌン