しずく、しずか、しずむ【七】帰ってきたら「ただいま」って言うのが、当たり前だった。
この家から返事をしてくれる人が誰もいなくなっても、二十年以上続いた習慣は、なかなか抜けなかった。
「おかえりなさい」
まだ電気をつけてもいないリビングの闇から、返事が返ってくる。
パッと明かりがついて、そいつの姿が視認できた瞬間──
同時に「うわッ!!」という声が勝手に出た。
「もう!いい加減慣れてくださいよ!」
「いや、でも……慣れるもんじゃないっていうかさぁ……」
家にさ、白蛇の下半身に男の上半身がついてるやつがいて、しかも目ぇ見開いて俺を凝視してたらさ。
びびるよな?絶対。
だって、家にいちゃ駄目な部類だもの、こういうのは。
どんなに顔立ちが綺麗でも──いや、だからこそ、異質感、違和感、異物感がこびり付いて、どうしても剥がれない。
人工的な灯りの下で、白く滑らかで、濡れてるみたいにも錯覚する鱗が、リビングに入る俺のあとを、するすると追いかけてくる。
台所には入るなって言ってある。
単純に危ないからだ。
調理中は油も跳ねるし、刃物も使う。
この狭い空間で、長い尾を踏まない自信が、俺にはない。
──本当は、もっと強く言うべきことがほかにいっぱいあるんだけどな。
だから、台所とリビングの境界線にぴったり張りついて、ずっとこっちを見てるんだ、あいつは。
“美味しそう”だと感じている人間の料理姿なんて見ていて、楽しいか?
作ったものでビールを飲んでる俺のことを、じっと見てる。
たまに、細長くて先の割れた舌を、チロリ、と覗かせながら。
この空気が、耐えられない。
この存在を、どうしても受け入れられない。
(今日も、味があんまりしねぇな……)
「要らないんですか?」
食べきれなかった皿を下げようとした、そのときだった。
「あ、ああ……作りすぎたかもな。おまえ、食うか?」
「はい。食べてもいいなら」
チロチロ、と揺れる舌。
新しい箸を出してやろうか……と思った瞬間、ウサミは皿を掴んで、そのまま傾けた。
大きく開いた口に、流れ込んでいく残り物たち。
(……うわぁ……)
きれいに平らげられた皿だけが手元に残り、しばらく沈黙が流れた。
チロ、とまた舌が見えたかと思ったが、違った。
何かが、ぽとり、と皿に落ちた。
炒め物に入れてた、椎茸だった。
「僕、これキライです」
浮かべるしかめっ面。
「──……ははっ、あはははっ」
「何がおかしいんですか!」
「いや、悪ぃ。なんでもない。次から言うよ、“椎茸入ってるぞ”って」
なんだ。
案外、怪異も食いもんの好き嫌いくらいは、あるんだな。