しずく、しずか、しずむ【一〇】観光客が多い。
人の流れが戻ってくるのは、いいことだ。
でもな、居すぎだろ。
隠れ家だと思っていた店が、席がいっぱいで入れなかったりして──
「こんなとこまで?」って、さ。
それに、
駅前のスクランブル交差点。
青信号が灯ると同時に、人、人、人。
その中で、必ずすれ違う。
俺以外には視えない、そういう類のやつに。
無いものは、視えないふりをして、すり抜ける。
“無視”が、いちばんだ。
雑踏の中に混じる、空気を震わせない声。
白黒の交差点、その向こうまでが、やけに遠い。
ずっと、なにも視えないふりをしてきた。
なにも聴こえないふりをして。
そうやって、“普通”の顔で日々をやりすごしてきた。
そういうところが、駄目だったんだろうな。
家の中を横切ったり、部屋の隅に浮かんだり、風呂場で沈んだり。
日常に潜むそれらを、見て見ぬふりをするたび、
俺の“普通”は、誰かに嘘をついているみたいだった。
娘が成人し、大学も卒業して、ようやく夫婦としての一段落を迎えた、そんなある日だった。
あなたは、ずっと私に、なにかを隠してる。
それを教えてほしい。
分かち合いたいの。
そう言ってくれたのに。
俺は、言えなかった。
言ったら、どうなる?
言って、どうする?
“普通”に疲れ果てていたくせに、
それでもなお、言えないまま、
演技を続ける方を選んだ。
それで、少し経ってから、別れてほしい。
あなたを嫌いになったわけじゃない。
でも、これからは別々に歩みましょう、って。
息が詰まるのも、当然よな。
この先の人生をともに歩む相手が、ずっと何かを隠してると知りながら、それでも「なにもないよ」って、笑ってごまかすんだから。
特に夏は、視えてしまう。
温度と湿度のせいか、よく視える。
ゆらゆらと、陽炎のように形を変えながら、すぐそばまで来ようとする。
ああ、
もう、
「──やめてくれ!」
気づいたら叫んで、走り出していた。
走って、走って……。
シャツが汗で背中に張りつくせいで、夜になっても気温が下がらないせいで、この歳になって急に走り出したせいで、もう、ぜんぶ気持ち悪い。
俺が何をしたっていうんだよ。
俺が──
気づけば、家についていた。
玄関の前で肩で息をして、扉を開けて、靴を脱いで、灯りをつけて、リビングに入った、そのとき。
「“ただいま”は?」
するり。白く長い尾が、俺の体に巻きつく。
忘れかけていた習慣を咎める声は、感情の波のない、まっすぐな音。
「……た、だいま……」
ウサミの体が、汗でどろどろになった俺の体を抱きしめる。
ひんやりとしていて、心地いい。
ウサミが来てから、家の中を走り回っていた“それら”は視えなくなった。
夜も静かで、それでいつの間にか、ウサミと住むこの家に安らぎを覚えるようになっていた。
こんなにも、冷たいのに。
こんなにも、人間じゃないのに。
「おかえりなさい」
俺が、なにをしたって言うんだよ。本当に……。