あまりある未来[君を想う]
「ナルトは手を離さなかったんだね」とサイが言った。サクラは買い物かごを持ったまま、隣に立つサイの横顔を見上げた。いつも通り柔和な笑みを浮かべたまま、サイは「ナルトに野菜も食べさせよう」と手に取った茄子をかごに入れていく。
サイにとってはきっと何気ない言葉だった。記憶の中でまだ下忍だった頃の自分が涙を拭う姿が浮かぶ。サスケの手を離したくなかったのに、自分ではもうどうにもできなくてあの夜に離してしまった。そしてナルトの幼い背に一生のお願いを背負わせたのはサクラだ。当時は必死でなんとか絆を、離れていくあの人を取り戻したい一心だった。
自分のことばかりでナルトの気持ちをどれだけ踏みにじったのだろう。当時、ナルトがどんな思いだったのかはもう知りようがない。
でもサクラが離してしまったあの手を、ナルトはもう一度繋ごうと、離れたくないんだと追いかけていた。そういうところはきっとずっと敵わないんだろう。ナルトの諦めの悪さは誰よりだ。サクラはパックに詰められた橙色のみかんを手に取った。並べてある商品を見比べて、よりいい色のものを選ぶ。
「失ったものはたくさんあるけどアイツが諦めなかったから今があって、やっとここから始まる。……まあ、私はアイツにも、サスケくんにもほとんどなにもしてあげられなかったんだけどね」
サクラは苦く笑った。いつもしてあげられることは限られている。以前も不甲斐なさに落ち込むサクラをヤマトは励ましてくれたけれど、やはり自分は全てが遅い。届かなくなってからいつも思い知るのだ。
「そんなことないよ」
サイがサクラの手をゆるりと握った。サイの手は指先まで冷たい。まるで蝋人形のようにひやりとしている。でも繋いだ先から彼の優しさが伝わるような、そんな握り方だ。
「ボクはサスケのことがいまだに嫌いだ。でもサクラとナルトが彼をとても大切に思っているのは知ってる。そして彼が、同じように君たちを愛しく思ってるのもわかってる」
「サイ……」
当初出会った頃のサイと今のサイは全然違う。いやこれが本来の彼なのだろう。サクラは今のサイのほうが好きだ。こと感情においては一際不器用で拙いけれど、ひとつひとつの情を大切に慈しむ彼の姿はどこかサスケに似ている。
「生きていくうえで後悔はつきものだ。たらればなんて何度だって考える。でも、時間は戻らない。僕らはそれを嫌というほど知ってるはずだ」
「……ええ」
「サクラは負い目を感じているのかもしれないけど、君が二人を想う気持ちは充分に伝わっているよ。二人とも馬鹿だけど、それはわかってるさ。だからサクラ、もう自分を卑下しないで」
「……ありがとう。サイのそういうところ、サスケくんにちょっと似てるわね」
「ええ……それ、あんまり嬉しくないなあ」
サイは複雑そうな顔をした。あまり見たことない顔で露骨に嫌がるサイに、思わずサクラは吹き出す。
「でもちょっと妬けるなあ。君もナルトもサスケに夢中で、ボクはすっかり置いてけぼりだ」
「あら、そんなことないわよ」
サクラはぱちくりと目を瞬かせた。離れていこうとする温度の低いサイの手をぎゅうと強く繋ぎなおす。
「アンタだって第七班の仲間で、私もナルトもアンタのことが好きよ。アンタがいてくれたおかげで私もナルトも今に繋がってるのよ。それ忘れないでよね」
もう誰も離しはしない。大切なものは繫ぎ止める。たとえ繋いだ手がいつか離れてしまうときがきたとしても、後悔だけはしたくなかった。
「さて、早く買い出し終えてナルトとサスケくんのところに行きましょ! そろそろお腹空かせてるかもしれないわ」
「そうだね。……ところでサクラ、これはいつまで繋いだままにしとけばいいんだい?」
サイが居心地悪そうに繋いだ手を目で追う。顔にはばっちりと恥ずかしいからそろそろ離してほしいと書かれている。
「アンタねえ……女の子と手を繋いで、そんな感想言った日には引っ叩かれても文句言えないわよ」
「嫌だなあ、サクラだから言ってるんじゃないですか」
「どういう意味よそれ」
サクラは眦を釣りあげて、カラカラ笑うサイに食ってかかった。かなり立腹しているようで、今にも殴りかかりそうだ。片方はきつく拳を握っているのに、もう片方は相変わらずサイと繋いだままだった。サイの冷たかった手が次第にぬくぬくと温まっていく。買い物かごには橙色に輝くみかんがあった。
[愛すべき君たちへ]
未来というものはどう転ぶか実にわからないものだ。
ナルトに泣きつかれれば、袖にしがたい。サスケにつれない態度を取られれば、微笑ましく思う。サクラが一人浮かない顔をしていれば、つい声をかけてしまう。子どもをかわいいとは思ったことがなかった。むしろなにかを育てたり、教えたりするのは向いていないほうだ。ちょっと目を離せば余計なことはするし、ただでさえ特殊な事情を抱えた子どもが二人もいるのだ。他班より手が焼けるのは火を見るより明らかだろう。前途多難だなあと当時は思ったものだった。
先生と生徒。師匠と弟子。カカシとナルトたちの関係を説明するならそうだろう。上忍として師匠として、ときに叱り、褒めて指導する。そして里の未来を担う彼らの命を全力で守る。彼らが一人前に任務をこなせるようになるまで助けていく。実の親子ではないが、この関係性は生涯続く。そう、親子ではないから彼らと血縁はない。血縁はないのだが、親子とはまた違う繋がりで深く結びつくのだ。
昔、ナルトを背負ったときはまだその身体は未発達で頼りないものだった。それが今や里の英雄だ。久方ぶりに背に乗せた身体はしっかりと筋肉がついて、身長も随分伸びた。重くなったなあ。その重みを嬉しく思ったことをよく覚えている。
担当上忍として預かってから、手の焼ける子どもたちの背中を見ることが多かった。その背が力なく俯くのも怒りで震えるのも見てきた。そうしてまだ幼い背中が様々なものに押し潰されそうになるたびに、負けじと前を向いて大きくなっていくまでを見守ってきた。
カカシにできたことはおそらく多くない。どちらかと言えば、教え子たちに教わったことのほうが多いかもしれない。それでも、成長していく背中を見るたびにどうか彼らの歩む道が幸いであったらいいと思うようになった。これが庇護欲なのか、愛着なのかはわからない。途中すったもんだで三人の面倒をしっかり見きれたかと言えば、かなり怪しいだろう。そもそも尊敬たる師として見てもらえているかも怪しい。
しかしながらあの小さな背中たちが、大きくなって里の未来を担うまでを見てきたのだ。困っていたら力になってやりたい。途方に暮れていたら側にいてやりたい。カカシ自身、このような気持ちを抱く日がくるなんて思ってもみなかった。
だが、困ったことにかわいくて仕方がないのだ。それこそ三人がいくつ歳を重ねてもこの気持ちは変わらないのだろう。こんなことおそらくアスマが聞いたら目を丸くする。オビトは腹を抱えて笑いそうだ。らしくないのは重々承知だ。でも仕方ない。手のかかる子たちほどかわいいとはよく言ったものだろう。
[薔薇色の日々]
ナルトを苛んだ孤独をシカマルが真に理解できる日はおそらく生涯こないだろう。
客観的に見てもシカマルは健全な家庭環境で育てられた。母親は口煩いところはあるが、シカマルをいつも気にかけてくれていた。父親は母の尻に敷かれて情けない面もあったが目端が利いて、かっこいい男だった。口には決して出せなかったが尊敬していた父だった。
家に帰れば両親が「おかえり」と言ってくれる。食卓を囲んで、他愛もない話をする。そんなシカマルの「日常」が物心つくころからあったのだ。
ナルトはどうだったのだろう。帰り着いた先で部屋に明かりが灯っていることもなければ、嫌いな野菜を端に避けて「好き嫌いするな」と本気で怒鳴られることもない。シカマルの脳裏にまだ幼いナルトの背中が浮かんだ。腕も脚も棒切れみたいに細くて、その癖負けん気だけは人一倍強かった。
夕暮れまで共に遊んで、それぞれの親が迎えにきた幼少期を思い出す。シカマルが父と公園から帰り道を辿る中で、ナルトだけがいつまでもそこに一人でいた。気になって首だけ振り返ればナルトは寂しげに俯いていて、無性に嫌な気持ちになった覚えがある。
シカマルが父と手を繋いだまま「また明日会うんだからつまんねえ顔してんなよ」と声をかければ、ナルトは弾かれたように顔をあげた。一瞬嬉しそうな顔をするのに、泣きそうに眉を下げて「おう!」と片手を挙げて応える。その表情が記憶にこびりついている。かつて少年だった頃の自分は無意識に残酷だった。
ナルトに染みついた孤独はシカマルの想像を絶する。だからこそサスケだけが本当の意味でナルトを理解できるのだろう。誰より独りを呪った二人が、今や互いを唯一としているのだから因果なものだ。
シカマルはふうと息を吐いて、座っている椅子に深く腰かけた。火影室の窓へ目をやれば、青々とした空が広がっている。シカマルは視線を外に向けたまま服の衣嚢を探った。目的のものはすぐ見つかる。角が折れて傷んだ煙草の箱を衣嚢から出すと、机の上に積み上げられた書類と格闘しているナルトと目があう。
「吸うなら外だぞ、外」
「……わかってるつーの」
シカマルは諦めたように、手癖で引き抜いた一本を箱に押しこんだ。業務が立てこむと、ついつい本数が多くなる。徹夜続きのナルトが「一楽のラーメンが食いたい」と騒ぐのと同じかもしれない。すっかり集中も切れてしまい、シカマルは椅子に凭れて天井を見上げた。ナルトが書類と睨み合いながらキーを叩く音が室内に響く。
まだ下忍だった頃は想像もしなかった未来だ。思い描いていた人生設計図と随分違う。柄にもなく相談役なんて地位に納まって、献身的にナルトを支えているなんて過去の自分が知れば目を丸くするだろう。だが少年時代に浮かべていた普通の人生を摑まずに、ナルトの横で相談役をする自分がシカマルは嫌いじゃなかった。
もっと早くに、それこそあの日公園で俯くナルトの手を摑んでいたらまた違った未来だったのかもしれない。しかし、シカマルではナルトの孤独に寄り添うことはできてもそれ以上を知ることはできない。過去が人をつくるなら、本当の孤独を味わったことのないシカマルにはどうしたって一生理解できないことだ。
だからきっとサスケだけが、ナルトの心の柔いところへ踏み入れられるのだろう。それでもシカマルはサスケではないし、サスケになりたいと思ったこともない。
まず前提としてシカマルはサスケとナルトの友人関係は正直今でも理解できない。どんなに大切で、失いたくない絆でも友人のために片腕を失くしてヘラヘラと笑っていられるような馬鹿はナルトくらいだ。シカマルの知る友人関係の枠に納まらない二人については、惹かれあった定めだからもうどうしようもないのだと捉えている。
理屈じゃないんだろう。どれほどぶつかろうが、傷つこうがサスケもナルトも互いの手を離せない。難儀なことだ。
失ったものやもう手が届かないものを振り返って、泣いた日がシカマルにもある。喪失は何度味わっても堪える。ナルトも幾度となく味わい、その度に耐えて前を向いた。シカマルは多分そんなナルトを見たくないのだ。耐え忍ぶことが忍者の本質だったとしても、もうナルトが俯いて唇を噛み締めるのは嫌だった。
だから今度はあいつが辛いとき、寂しいとき側にいて手を引いてやりたい。間違えば諭し、少年の頃のような馬鹿をやれば呆れながらも笑ってやる。
ナルトに対してこんな情を抱く日がくるなんて思いもしなかった。でも側で支えてやりたいと思ってしまったんだから仕方ない。こんなんじゃサスケを笑えないな。シカマルは思わず自嘲の笑みを浮かべた。
「シカマル……お前いつまで休んでんだってばよ」
恨みがましい声が聞こえて、急に現実に引き戻された。ナルトがシカマルをじっと睨めつけている。どうやら思いの外考え耽っていたらしい。シカマルは「やべ」と目を泳がせた。
面倒な予感がして、慌ただしく手元に積まれた書類に取りかかる。しばらくナルトは疑り深そうにシカマルを見ていたが、気が済んだのかひとつ大きく伸びをした。まさか隣で共に仕事をして、ナルトに睨まれる日がくるとは思いもよらない。
たとえ自己満足であろうとナルトの側にいると決めた。その決意は青年の頃から揺らいだことは一度もない。生涯この男の背中を見る機会が多いのは自分だ。そしてその背を叩き、ときには撫ぜるのも自分だ。
それはきっと誰でもない、シカマルにしかできないことだ。柄にもないことを思っている自覚はある。だが、今の自分の在り方が嫌いじゃない。まあ、こんなことは口が裂けても言えないが。
シカマルは手を止めて、窓の外の暮れゆく空を見た。すっかり姿形は変わってしまったが、ここから見る空だけは変わらない。明けて暮れていく。その繰り返しだ。あと何度この火影室からこの光景を見られるのだろう。できるだけ多いほうがいい。
シカマルは朱色に染まる七代目火影の横顔を眺めて、漠然と明日も晴れるといいよなあと思った。