東京湾にコンクリ詰めでも、目を開けると視界いっぱいが真っ青で面食らった。次いでここが海中だと気が付き、ああなにかヘマをしてついに東京湾に沈められたかなと諦めかけた後、いやいやこんなところで諦めてたまるかまだ生きてるんだから!と慌てて口元を覆ったが、不思議なことに呼吸が苦しくなくてさらに驚いた。
なんなんだ、ここ。夢か?
「おやあ、『うみへび』さん、きてたんですね〜」
一人百面相をしていたらどこからか聞いたことのあるのんびりした声が聞こえてきて慌てて振り返る。海の中なのに声がするなんて奇妙なことだが、呼吸ができている時点ですでにおかしいのでそういうものだと思い込むことにする。突っ込み始めたらきりがない。それに、今のところ変な環境に放り込まれた以外では心身共に危害は加えられてないしこの声も有害なものではなかった。
「……深海氏」
「はあい、りゅうせいぶるう、しんかいかなた、です、きらっ」
ふよふよとピンクの着物みたいなものを羽織って漂ってきた深海氏も海中なのに息をしているし言葉を発している。やはり夢なのだろうか。それにしてももっと人選があっただろう、俺。
「さあ、いきましょう」
「行くってどこへ」
「『ちじょう』へ、ですよ。あなたをたすけてほしいと『いらい』がありましたので〜」
「依頼……って誰が」
冷たい指先が俺の掌を優しく包み込む。事情は何にもわからないし泳いでるわけでも海流があるわけでもないのにどこかに進んでいくし、深海氏はにこにこ微笑んでいるだけで全く説明するつもりはなさそうで本当に訳がわからない。
そもそもなんでこんなところにいるのだろうか。直前まで何をしていたかスケジュールが欠けらも思い出せない。
「あなたをだいじにおもっているひとから、ですよ」
うふふ、と一段と笑みを深くした深海氏が、普段のゆったりとした動きからは考えられないくらいの勢いで俺と繋いでいた手を振り上げる。えい、なんて可愛い掛け声には似つかないスイングだ。ぶんっと、遠心力に乗せられた俺は彼の手で簡単に投げ飛ばされて、海面へと急上昇していく。
「は?!」
「ぼく、いがいと『ちからもち』なんですよ〜」
深海氏に投げ飛ばされてロケットみたいな勢いで上昇する俺に深海氏がそんなどうでもいいことを話しかける。これは腕力の問題じゃないだろう。論点がおかしい。
「あまり『しんぱい』をかけてはいけませんよ〜」
親戚みたいに大きく手を振って見送る深海氏に言いたいことはいろいろあるが、この勢いで口を開けば舌を噛んでしまうのでぐっと口をつぐんだ。
水深が浅くなり陽光が差し込む。出口なのだと直感的に思ったが、この世界がなんだったのかはこれっぽっちもわからなかった。
「──茨!」
ぱちりと瞼を開くと閣下の顔が眼前に迫っていた。うわ、と声が出そうになったが口の中がカラカラで、詰まった喉から木枯らしみたいに乾燥した空気の通り過ぎる音だけが聞こえた。なんだなんだ。俺は海にいたんじゃないのか。
頭が混乱してなんのアクションも取ることができなかった俺はただ目の前にある顔と見つめ合うことしかできない。閣下も閣下で石像のように固まっている。と、惚けた俺の顔をぺたぺたと触りだした閣下は、こわばっていた表情をゆるめ、なんだかちょっと情けないような、ひどく安心して腑抜けた微笑みになった。
「よかった……」
これまで聞いた何よりも力なく安堵の滲んだとても細やかな声に、「しんぱいをかけてはいけませんよ」と耳元で誰かの声がリフレインした。