①
台風の影響で昨晩から強まる風雨は今が頂点だと言わんばかりに荒れ狂い吹き荒んでいる。ニュースでは今年一番の猛威をふるっているだとか、過去三十年で最も強い台風だとか天気予報士が力強く訴えていて、どの局も最大限の警戒をと口を揃えて報道していた。スーパーからは食料品が消え、ホームセンターからは養生テープが消えた。交通機関は最接近時間に合わせて計画運休し、街の明かりも消えている。
茨も必要最低限の人員だけ確保し他の職員には在宅ワークか休暇を取るように指示をした。こんなことで労災だ何だといわれるよりも一日休ませてやる方が余程効率的であったし、そのための準備は以前から進めていた。茨自身も雑誌の撮影が延期となりアイドルとしての仕事は無くなった。その分上長として事務所の仕事を請け負い、帰せる職員は家に帰した。
正午過ぎとはいえ雨風の強まる外は真っ暗で、最低限の人間しかいないオフィスも明かりを絞っているため薄暗い。窓には職員が念のためにと養生テープを貼って帰っており、瀟洒なオフィスには不釣り合いで滑稽さを感じた。
(予報では夕方には通過しているとの話でしたが……)
付けっぱなしのテレビからは道路の倒木や氾濫危険水位まで上昇した河川の情報がひっきりなしに流れており、被害の大きさが伺える。しかしながら、茨はその映像をどこか遠い地方での出来事のように感じていた。窓には大粒の雨が叩きつけられており米印の隙間からはぼんやりとしか街の様子は窺えない。防音施工の窓のおかげでごうごうと吹き荒れる風の音も小さくしか聞こえず、暗いこと以外はそんなに危険な状況とはあまり感じられなかったからだ。
(閣下たちは大人しく過ごしているでしょうか)
同じように撮影が伸びたり中止になった凪砂は、滅多にない自然の猛威になぜか昨日からテンションが上がっていた。台風コロッケなどという言葉をどこからか聞き齧ってきたらしく、昨晩茨は夕食にコロッケを所望された。懐中電灯をどこからか探し出してきていたし、コンビニで二リットルの水も調達していた。窓辺でじっと屋外の様子を観察している様子は初めての台風にはしゃぐ子どもと同じだった。これまでも台風などは毎年きていたはずなのだが、今回なぜこんなに(不謹慎だが)楽しそうにしているのか茨は理解に苦しんだ。
そんな時スマホがぶるりと震えた。私用の番号を知っている人間は少ない。茨は画面を確認しそれが日和からであることに更に目を見開き素早く通話ボタンを押した。
「もしもし」
「大変だね!凪砂くんが出ていっちゃったね!」
「は?!」
②
(台風の日に用水路見に行って死ぬ馬鹿が後を絶たないのはこういう人間がいるからなんでしょうね!)
先ほどまで遠い世界のように感じていた暴風雨の中に躍り出た茨は、傘が全く通用しないなか一瞬でずぶ濡れになりながらも走り出していた。
日和の話によるとちょっと目を離した隙に寮からいなくなっており、他の人にも手伝ってもらい隅々まで探したが寮内では凪砂を発見することはできなかったそうだ。スマホに電話をかけてもメッセージアプリに連絡を入れても応答はなく、もしかしたら事務所に行っているかもしれないと一縷の望みをかけて茨に連絡をしたということだった。茨はその話を聞いた瞬間、職員に一言断りを入れてオフィスを飛び出した。エレベーターを降りながら何度も凪砂に電話をかけるが日和のいうように一向に繋がる気配がない。仕方なく私兵と呼んでいる部下に連絡をして街中の防犯カメラに凪砂の姿が映っていないか調査するように指示した。日和のコネクションからも探してもらっているので、どちらかの網の目には引っかかることを願っていたが、じっと待つこともできず近場を探しに飛び出してきた。
昨夜あんなに楽しみにしていたのだから、もしかしたらなにか気になるものがあったり買いたいものがあって飛び出してしまったのかもしれない。困ったことに、凪砂は好奇心の赴くままに行動することがある。日和の話によると失踪からまだそんなに時間は経っていないようで、もしかしたらまだその辺にいるかもしれないと思うと、いてもたってもいられなかったのだ。本当にいなくなったのか、茨は自分の目で確かめなければ気が済まなかった。
ESの警備員に確認をしたが今日ビルに出入りした人間の中に凪砂はいなかった。ならばとESと寮の間の凪砂が興味を持ちそうなところ、例えば彼がこっそり可愛がっている野良猫の棲家や、毎朝綺麗だと眺めている花壇や、気に入っている店など(もちろん休業していた)、いろいろ探し回ったが結局影も形も見当たらなかった。その間も何度も電話を鳴らすがやはり応答はない。
茨は舌打ちしながら既に用をなさなくなっている眼鏡を取った。拭いてもすぐに雨粒に覆われてしまうが、これがなければ茨にとって世界は朧げで凪砂を探すなんて到底できなくなってしまう。雨粒を拭いかけ直して、凪砂が行きそうな場所をもう一度脳内でさらい始めた。
その時、足元に何か温かいものが擦り寄ってきて茨はびくりと体を震わせた。慌てて下を見ると凪砂が可愛がっている野良猫が足元にじゃれついていた。
「……こんな雨の中出てきては怪我をしてしまいますよ、早く家に帰りなさい」
茨はしゃがみ込み猫の尻を叩いて促したがじっと見つめてくるばかりで動く気配がない。なるべく雨に打たれないように庇ってやると猫はぺろりと茨の手を舐めた。そしてどこか棲家ではない方へ歩き出す。
「ちょっと」
小さく鳴いた猫はまるでこっちにこいと言わんばかりに茨を振り返る。茨は仕方なく追いかけると、猫は再び歩き出した。まるでどこかに茨を導こうとしているかのようだった。
「……」
茨は目に見えないものは信じない。それは愛などというふざけた名前の感情だけでなく、霊や超能力などの非科学的なものについても同じだった。だから猫が茨をどこかへ、好意的に捉えれば凪砂の元へ導こうとしているように感じる、というのは茨の理性の敗北を示す行為に他ならない。そんな童話みたいな話を茨は信じない。
けれど彼の足は主人の意志に反して素直に猫の後をついて回っていた。
③
猫は茨を近くの海岸、夢ノ咲の裏手の海まで連れて行った。
すっかり濡れ鼠になった猫がこのまま死んでしまうと凪砂が悲しむだろうと思い、途中から茨は猫を抱き上げ、猫が鳴くのに合わせて進路を定めた。茨自身もすっかり濡れそぼって体温が低下していることを感じていたので腕の中の小さな命は彼の体温低下にも歯止めをかけてくれた。ウィンウィンというやつだと猫に話しかけてしまった自分に、茨は一人気まずさを覚えていた。
「閣下!おられれば返事をしてください!」
もはや役目を果たさなくなった(そして拭う布も無くなった)眼鏡を外し、睨むように辺りを見渡す。辺りの暗さも相まってほとんど視界が機能しない。茨はならばせめて聴覚も動員しようと、凪砂のスマホに電話をかけた。風の音と大荒れの海が起こす高波の音で聴覚もさほど期待できなかったが、それでもないよりマシだと思ったのだ。
「閣下!」
黒く打ち寄せる大波に飲まれないよう距離をとりながら着信音が聞こえてこないか耳を澄ます。凪砂の髪は光を反射してきらきら神々しく輝くけれど、この状況ではきっとこの鈍色に飲まれて同化しているに違いない。ただでさえ悪い視覚だけではきっと見つけられない。
「にゃあ」
そんなとき腕の中の猫が鳴いた。覗き込むとある一点を見つめている。慌ててそちらへ向かうと激しくうねる波音の隙間から微かに機械音が聞こえてきた。走りながら目を凝らすと人影のようなものが見えた、気がした。
「閣下!」
嵐に負けないように声を張る。叫びすぎて少し喉がいがいがしたが、気にしている場合ではなかった。凪砂はともすれば波に飲まれそうな距離に立ち尽くしていたのだ。
「閣下!なにしてるんですか!そこは危険です!閣下!」
びゅうと正面から吹き付ける風に目を瞑る。けれど、足は止めない。強風が抵抗してきてほんの少しずつしか進まないが、徐々に茨の視力でも凪砂の輪郭がくっきりしてきた。
「閣下っ!」
あと少し、もう少し。
三メートルほどまで近寄っても凪砂からのリアクションは見て取れない。茨は精一杯叫びながら彼の進路を阻む雨風に立ち向かう。
「閣下!……チッ、こンの、やろう」
あと二メートル。鈍く輝く髪が見えた。朝一つに結ってやった髪はすっかり解けていて縦横無尽に煽られている。この潮風では日々懇切丁寧にケアして美しさを保っていた髪が信じられないくらい傷んでいることだろう。きっとこの雨で体温も根こそぎ奪われているはずで、風邪など引いては明日からのスケジュールにも影響してしまう。そもそもなぜこんな日にこんな場所にいるのか意味不明だ。
走り回ったことと冷たい風雨にさらされて体力の限界に達していたこと、それから凪砂の理解不能な行動に、茨の怒りは頂点に達していた。
「戻ってこい!乱凪砂!」
肺いっぱいに空気を吸い込んで、茨はこれまでで一番大声で名を呼んだ。空気が震えるくらい叫んだ。こんな大声、訓練中でも出したことはないと思った。なりふり構わず出した声は喉を痛めて明日は大変なことになるかもしれなかったが、今ここで彼を失うことに比べれば明日一日の仕事なんて、たいしたことはない損失だ。だから、力一杯腹から声を出した。怒りがそうさせていた。
「……い、ばら?」
あと一メートルといったところだった。
茨の渾身の叫びが聞こえたのか、凪砂がブリキの人形のようにぎこちなく振り返った。びしょ濡れで重たいはずの髪がバタバタとはためいている。本人は何故だか不思議そうに目を丸くして茨を見つめた。ざぶんざぶんと黒い波が凪砂の後ろで彼を飲み込まんと迫っている。
「やっとこっち向いたな馬鹿野郎!」
利き手を伸ばす。青白く蝋人形のような手首を二度と離さないように強く握った。色に反して、その腕はきちんと温かかった。
④
「りんご食べられる?」
凪砂の失踪から二日が経った。台風はすっかり通り過ぎて街も元通り賑やかしさを取り戻した。茨はというと長時間雨に打たれていたため、その日のうちに高熱を出してベッドの住人になってしまった。意識が朦朧としていてどうやって帰ったのか記憶になかったが、寮で待機していた日和のおかげで迅速に病院に運ばれ点滴と薬をもらい、本日ようやく起き上がれるくらいまで回復したところだ。同じだけがそれ以上雨に打たれていたはずの凪砂がケロッとしていることに納得いかない茨だったが、大事な最終兵器が無事であったことにはほっと胸を撫で下ろした。
「お粥もあるけれど、どちらがいいかな。食べたらお薬飲もうね」
凪砂はその日からつきっきりで茨の看病をしていた。熱でうなされる彼の氷枕をかえたり、目覚めた茨に水を飲ませたり、寝巻きをかえてやったりと甲斐甲斐しい様子だったとは先ほど見舞いに来たジュンから聞いた。
「……どちらもいただきます」
「無理はしなくていいよ」
「腹が空いてるんですよ」
結局、何故凪砂があそこにいたのか理由は不明のままだった。凪砂が話すことを拒否したのだ。日和が問いただしても駄目だったというのだから、余程言いたくない事情があることが推察された。とはいえ、それでは茨も納得しかねる、というのが本心だった。今もいつもと変わらない表情で茨にお粥を食べさせようとしているが(もちろん茨はそんな恥ずかしいことはできないので凪砂からレンゲを奪い取る)もしまたあのようなことがあったらと思うと気が気ではない。理由がわからないからこそ対策のしようがないのだ。かつて凪砂にGPSをつけていたこともあったが、きっともうその手法は彼には通用しない。
「なに?」
お粥を腹におさめながら恨めしげに凪砂を見ていると彼がこてんと首を傾げる。かわいこぶっても騙されないからな、という気持ちでじとりと睨む。
「もしかして、信じてない?本当に私、もうあんなことしないよ。あの時はああするしかなかったから」
「台風の日に海に行くなんてどういう理由があれば仕方ないことになるんですかね」
「それは言えない」
「それですよ、それ!だから信じられないって」
そこまでいって茨は咳き込む。起き上がれるようになったとはいえ、全快したわけではないのだ。微熱が続いていて咳も出るし体にはだるさが残っている。食欲が回復してきているからまもなく良くなるだろうと茨は思っているが医者の許可が降りるまで仕事は禁止だと日和に口酸っぱく言われている。
「ほら、大声出すから」
凪砂は慌てて茨の丸まった背をさすった。粥の入った器とレンゲを取り上げて代わりに水を差し出す。
「信じてくれないなら、契約しよう」
「は?」
「契約。君が一番安心する方法でしょう」
咳で痛んだ喉に水が心地よい。ひとしきり咳き込んで落ち着いた茨からカップを受け取った凪砂はおもむろに右手の小指を差し出した。
「指切り」
「……そんな子どもだましより、書面で交わしたいんですが」
「じゃあ後で書いてあげるから、今はこれで我慢して」
凪砂がぐいぐい小指を押し付けてくるものだから、茨は深いため息をついたあと、そっとその小指に自身の小指を絡めた。満足げに凪砂が微笑む。
「ゆびきりげんまん うそついたら はりせんぼんのーます」
ゆびきった。軽く腕を振られて絡めた指が離れる。こんなことで本当に約束が守られるのか甚だ疑問であったが意固地になった凪砂が面倒臭いことを茨は重々承知していた。契約書の文面をしっかり考えなくては、と心に刻む。ユニットを組むときですら契約書を交わさなかったのにこんな馬鹿げたことで交わすことになるとはおかしな話だった。
「君と、それからあの可愛い子に、私は本当に感謝してるんだよ」
「可愛い子って、あの猫ですか」
「そう。ふふ、じつは猫又だったりしてね」
「……しっぽは分かれていませんでしたが」
凪砂は愛おしそうに茨を見つめる。その視線がむず痒くて、茨は取り上げられた粥を引き寄せてかきこんだ。そんな顔をされても、茨には応えてやる言葉がなかったからだ。凪砂を助けたかったわけではない。茨にとって凪砂がいなくなるということは、この世界でてっぺんをとる最短ルートを失ってしまうことと同義だった。だからかけずり回って探し出したし、彼が熱を出さなくてよかったと思った。これは自分のためにとった行動で、言ってしまえばビジネスの延長で、感謝されたり、そんな顔を向けられるようなことではないのだ。
「ありがとう、茨。私をこの世につなぎとめてくれて」
だから凪砂がどんな顔でそう言ったのか、茨には全く想像もつかなかった。