「茨、私を裏切ったね」
突如事務所に押しかけてきた閣下は悲しそうな顔をしてそう言った。寝耳に水で目が点になる。いや、色々と暗躍しているではないかと咎められると痛い腹があるのは事実だけれど、少なくともそれらが閣下への裏切りに繋がることはなかった。きっと何か勘違いをしているのだろう。誤解が生じているのなら解かなければならないし、そういう話は衆目を集めるこんなところですべきではない。ひとまず閣下を空いている会議室にでも誘導しようと席から立ち上がる。と同時に、目の前にずいっとスマホが掲げられた。勢いよく差し出された腕に、思わずのけぞってしまう。たたらを踏んで、足をぶつけたキャスター付きのオフィスチェアが不協和音を奏でた。
「見て」
開かれているのはEdenの公式インスタグラムだった。なんてことはない、この間学校帰りに撮った俺とジュンの写真。制服姿が珍しくファンにかなり好評だった。特にやましいことも何もない普通の写真である。どこがいけないのか全く分からなくて、視線がスマホと閣下を行き来する。
「私には体を冷やすといけないからと温かい飲み物しか買ってくれないのに……」
閣下がずいっと顔を寄せて写真の中の俺の手元を指差した。透明な容器から伸びるストローは明らかに商品がコールドであることを示していた。確かこの日は季節外れに暑くて、まだ衣替え前の俺たちは噴き出す汗をどうにかすべく慌ててコンビニに避難したのだ。そこでジュンはコーラを、俺はアイスコーヒーを購入した。なるほど、それで裏切りなのか。合点がいったけれど、中身のお粗末さに俺はひくりと頬が引き攣った。なんというか、しょうもなさすぎやしないだろうか。たかがアイスコーヒー一杯だぞ?子どもか!
「……えー、閣下、これには深く……はないかもしれないのですが訳がありましてですね」
などと素直に言えるはずもなく、俺がなんとか言い訳をしようと口を開くと、スマホをおろした閣下がムッとした表情で俺を見た。俺の思考の先を読んで牽制するような視線だった。
「……茨」
「はい」
「私が言いたいこと、賢い茨なら分かるでしょう」
真顔の閣下がデスクを迂回してどんどん距離を詰めてくる。整いすぎているがゆえ、表情のない閣下に凄まれるとかなり迫力があった。
「あの、閣下、落ち着いてください、ね?」
迫ってくる閣下から視線を外すことができない。視線を逸らしたが最後、何をされるか分かったものじゃない。そういう圧を感じた。ライオンに睨まれているような心地だ。冷や汗が背筋を伝う。俺はじりじりと後退しながら、閣下をなんとか宥めようと試みた。
「閣下、ちょっと、話を」
けれども閣下はそんな俺なんてお構いなしに躙り寄る。デスクの後ろはそう広くなく、あっという間に俺は壁際に追い詰められてしまった。それでも閣下は止まらなくて、壁に手をつき俺を囲い込むようにして顔を近づけてくる。
「近い近い近い!」
鼻と鼻がくっつきそうで、俺はぎゅっと目を閉じて顔を逸らした。滑り込ませた両手で閣下の胸を押し返すけれど、びくともしない。これは折れる気がないな、とさすがに察した。俺が首を縦に振るまでこの人はやめないに違いない。
「あーもう! わかりました!」
じい、とほんの数ミリ先から肌を焼くようなチリチリとした視線を感じる。そんなことできないと分かっていても、俺はその視線から逃れようと限界まで首を逸らした。筋がぴくりと強張って痛めてしまいそうなくらいだった。
「分かりましたから離れてください!」
「……なにが分かったの?」
「行きましょう! カフェ! アイスコーヒー飲みに!」
「本当に?」
「本当です!」
ふっと圧迫感が引いたのを察して、今しかないと慌てて閣下の囲いから抜け出した。隣で臨戦態勢をとって振り返ると、さっきの圧など最初から無かったかのように閣下がとても幸せそうににっこりと微笑んでいた。
「……嬉しい」
約束だからねと仏のような顔で微笑む閣下の後ろで、フロアにいた社員全員がともすれば痴話喧嘩まがいと受け取られかねない俺たちのやり取りから必死に目と耳を逸らしていることに気がついて絶望した。本日の事務仕事はまだ始まったばかりだ。