家庭訪問一人暮らしver.「やあ」
「……」
セキュリティも何もないボロアパートの前に、似つかわしくない人影がひとつ。あたりの風景に似つかわしくない、やけに身なりの良いそいつは俺の顔を見るなりにっこりと作り物めいた笑みを俺に向けてきた。……帰ろうかな。いや、俺の家そこなんだけど。
「何か用?」
「用と言えば用かな」
「……。いきなり家まで来るような用事? つか、何で俺の家知ってるんだよ」
「そりゃあ生徒名簿に載ってるし」
「職権乱用にも程があるだろ……」
呆れつつ自転車を止め、家の鍵を取り出す。バイトが終わって職場の飲食店を出たのが21時。それから家まで15分もかからない。とはいえ下校してから数時間経っている。こいつは一体いつからここでつっ立って待ってたんだ? まさか、俺の予定を知っているわけじゃあるまいし……。
フィガロを素通りして家の鍵を開けると、当然のようにお邪魔します、と後ろをついてきた。うちに上げるとは言ってないんだけど。かといってここで帰れと言って帰るような雰囲気でもない。ろくでもない思いつきに振り回されることを半ば諦めつつ、ぱちぱちと部屋の電気をつけていく。丸1日人がいなかった室内は冷え切っていた。
「へぇ、結構綺麗にしてるんだね」
フィガロは興味深そうに家の中を観察している。その、やたらと質のよさそうなコートをかけておくような場所なんか、ウチにはないんだけど……。居住空間に他人を連れ込むことなんか滅多にないから、慣れない違和感を誤魔化すようにあたりを片付ける。
「で? 用事って何」
「うん? ああ、そうだな……家庭訪問、みたいな?」
「こんな夜中に家庭訪問にくる教師がいるかよ。だいたい、ウチ来たって俺しかいねぇ、し……ん、」
上着を脱いで、鞄を置いて、ストーブをつけたところで腕を引かれた。当たり前のようにキスが降ってくる。抱き留められて、ふわりと香水の匂いがした。こりゃどっか遊びに行った帰りだな。外気で冷えた手が顎を掬う。真冬に待ちぼうけをくらっていた割に冷え切ってない指先は、服の中に侵入して肌に触れるとすぐに温度を取り戻した。熱を分けた身体はぞわりと鳥肌が立った。
「っ、は……これが『用事』?」
「さあね、どうだったかな」
そのままベッドまで追いやられる。本当に、よくこんなんで養護教諭なんかやってるよ……と言いたいところだが、言ったら喜びそうだから言ってやらない。
「ダメじゃない、俺みたいなやつを簡単に家にあげちゃ」
「あんたがそれ言うのかよ」
「事実だろう?」
少なくとも、押し倒しながら言うことじゃねぇだろ。そう思ったけど言わなかった。フィガロは着ていたコートを乱雑に放り投げると、ベッドに乗り上げキスを再開した。しわになりそうだな、と横目に見ながら見慣れた天井と見慣れた男のミスマッチさに少し笑った。
***
別に、恋人なんかじゃないと思う。
腐れ縁と距離を置きたくて、そいつが近寄らなそうな場所がたまたま保健室だった。その頃はただの養護教諭だとしか思っていなかったから、患者がいない間は退屈なんだ、話し相手になってよ、なんて言われて、それとなく悩みを打ち明けてしまった。それで、……それで、どうしてこんなことになったのかは今でもよくわからない。
くたくたの体をベッドに放り出して、顔だけ動かす。家に上げるなり1回、風呂で1回。散々喘がされて、もう文句を言う気にもならなかった。風呂だって狭いから1人で入ると言ったのに聞きやしない。元をただせばフィガロが悪いに決まっているのだが、触れられると反応してしまう俺も俺だ。不良校のダチには思春期の割に性欲が薄そうだとか、不能か?と揶揄われたこともあるが、実情は淫行教師に抱きつぶされてるから女にかまけてる暇がない、なんて、口が裂けても言えない。
「ふふ、疲れちゃった?」
「誰のせいだよ……」
いつの間にか窓際に掛けられていたフィガロの服をぼんやりと眺めていると、もう一人分の重さでベッドが沈む。唇が触れ合ったところから、水が流し込まれた。すっかり飲み干したあと、名残惜しげに舌が咥内を舐る。
恋人じゃなかったら何だろう。セフレ? 不倫相手? そもそもフィガロが結婚しているのかどうかすら知らない。覚えている限り左手薬指に指輪が嵌っているのを見たことはないが、教師の中には職務中はつけない教師もいる。仮に独身だったとして、この顔とそつのない身のこなしなら引く手あまただろう。考え事をたしなめるように舌が奥深くまで侵入してくる。
「ん、……っも、しつこい、」
やんわり押し退けると、舌をちゅう、と吸って唇が離れていく。まだ半乾きの前髪を撫でる傍ら、フィガロが残った水を飲み下す音を聞いた。間接照明なんて気の利いたものウチにはないから、電気を消せば真っ暗だ。フィガロがどんな顔をしているのか、よく見えない。
「眠れない?」
「……何かあった?」
掠れ気味の声で改めて訊ねた。多分、機嫌が悪いんだと思う。生徒を抱いてる時点で倫理観には期待しない方がいいが、フィガロは馬鹿じゃない。人目についたら一発で終わるような強硬手段に出たのは、なにか理由があるんじゃないか。はたから見れば俺は被害者なのかもしれないが、寂しさを埋めたくて愛しているようなフリをする男から手を離せないでいる俺だって共犯だ。心配くらいしたっていいだろう。……踏み込みすぎたかもしれないけど。
頭を撫でる手が一瞬ぴくりと止まった。それから、額にちゅ、とキスが降ってくる。
「心配してくれたの? ありがとう。きみが心配するようなことじゃないから、安心して。おやすみ、ネロ」
親が幼い子にするような手つきで優しく背を撫でられる。それがなんとなく気に食わないなと思いながら、促されるまま眠りについた。