微熱とさざ波「風邪だね」
ピピピ、と機械的な音を立てて、フィガロが文字盤を見せてくる。37.8度。微熱だが、熱を出すのが今日でよかった。いや、世間一般的に見れば今日みたいなめでたい日──元旦に風邪というのはよくないのかもしれないが。俺は昨日までバイトが詰まっていたから、年の瀬にぶっ倒れて迷惑をかけることがなかっただけホッとした。そんな俺の内心を知ってか知らずか、フィガロが言った。
「今日一日休めば治るだろう。良かったね、仕事ない日で」
「ん」
微熱とはいえ基本的に健康体で風邪をひくこと自体久々だから、頭がぼうっとする。悪寒に身震いする身体を起こして、俺はフィガロに言った。
「メシ……作ったの、キッチンに置いてあるから。俺は食えそうにないし、全部持って帰っていいよ」
「ん? 俺、帰るって言ったっけ」
「いや、うつすと悪いし……」
「じゃあその時はきみが看病してよ」
どうやら帰るという選択肢は最初からないらしい。ここで押し問答する気力もメリットもないし、好きにさせておくことにした。再びベッドに横たわって目を閉じると、ひんやりとした手が額に触れた。宥めるように頭を撫でる手は、親が子どもにする仕草によく似ていた。
──どういう風の吹き回しだろう。好き好んで病人の看病を、ましてや俺の世話をしたがるとは。大方、自分の家にいたら正月早々双子が突然押しかけてきて面倒だとか、そういう事情なんだろう。なんであれ、いつでもこんな触れ方はしてこなかった男の慈愛のようなものを感じて、なんとなく居心地が悪かった。
「何か食べられそう? 作って来るよ」
「んー……いや、いい……」
日頃の疲れも溜まっていたのか、だんだんと意識が薄れていく。フィガロの困惑したような声が聞こえたような気がするが、俺が何を言ったのか、夢か現実かも曖昧なまま、俺は眠りに落ちた。
◇◆◇
目が覚めると、すぐ傍に人肌の温もりを感じた。起き抜けのぼーっとした頭で、誰かと寝てたんだっけ……? と記憶をたどる。ぱちり、と目を開くと、当然と言えば当然なのだが、フィガロが隣で眠っていた。うつすと悪いって言ったの、聞いてなかったのか……? どういう経緯でこうなったのかは分からないが、ひとまず起こさないようにそっとベッドを抜け出した。身体のだるさや寒気はないから、熱も下がっただろう。のびを一つして、ベッドに横たわる男の寝顔を見やる。いつも隙のない男の、隙だらけな姿を見るのは何度目だろう。夜は先に寝落ちてしまうことが多いが、朝は俺の方が早い。気を許されているのか、俺に隙を見せることなど取るに足らないと思われているのかはわからないが、どちらにしても、俺はこの時間が嫌いではなかった。
「ん……あれ、もう起きたの」
そっと起きたつもりだったが、眠りが浅かったらしい。フィガロはあくびを噛み殺しながら起き上がった。
「熱は? 見たところ幾分か顔色もマシになったみたいだけど」
「おう。多分もう大丈夫だ。……あんたも寝不足なの?」
「ん?」
「いや……わかんねぇならいいけど」
「煮え切らないなぁ。俺が一緒に寝てたのは、きみに誘われたからだよ。覚えてない?」
「は?」
きみって結構寂しがり屋だよね。そう付け足すと、フィガロはリビングの方へと消えて行った。誘った……? 俺が? 全く記憶にない。でも、こんなところで嘘をついたってしょうがないだろうし、冗談で嘘を言ってるようにも見えなかった。何も覚えていない俺は腑に落ちないなと思いつつ、フィガロの後に続く。
フィガロがつけたであろうテレビからは正月特番が流れている。あまり人を呼ぶ機会がなかった頃は置き物と化していたテレビは、おそらくフィガロが家主よりも頻繁に使っているだろう。適当な雑音がある環境をそこそこ好んでいるらしい。その割にフィガロの家にはテレビがないのだから、不思議だ。
「なぁ」
「何?」
「寝る前、俺……変なこと口走ってねぇ?」
勝手知ったるという風にフィガロがコーヒーを淹れて持ってきた。二人分のマグカップを置いて、座る。じっと、俺の目を捉えて離さないように見据えて言った。
「変なことって?」
「そりゃあ、……わかるだろ」
なんとなくいたたまれなくて目を逸らすと、フィガロはやれやれとでも言い出しそうな風に溜息をついた。それから、コーヒーの注がれたカップに視線を落とした。用意されたもう一つのカップの前、つまりフィガロの向かい側に俺も座った。
「俺にとっての『変なこと』は言ってなかったよ」
「……」
回りくどい会話をしている。全面的に俺のせいだし、フィガロもそれを分かっているからわざと意地悪な返しをするのだろうけど。
客観的に見て、事実だけを並べるのであれば。俺とフィガロは恋人と呼ぶべきなんだろう。でも、明確に付き合おうと約束をしたわけじゃないし、好意の確認をしたわけでもない。ガキじゃあるまいし、そんなことを真剣に聞く気にもならなかった。何より俺はもっと早い段階でフィガロの方から飽きるものだと思っていたから、こんな関係がいつまでも続くとは思ってもいなかったのだ。だから、俺は俺なりに線引きをして、この男に溺れ切らないでいようと思っていた。熱に浮かされた俺が何を言ったのかは知らないし、この様子じゃ教えてくれないだろう。ただ、あの時触れた手が心地よかったから、引いた線を、自ら超えてしまったんじゃないかと思うと──この男に、内心を見透かされたのではないかと思うと──途端に落ち着かなかった。
「ねぇ、ネロ」
「……何」
「この家、もうすぐ更新だよね」
「……? そうだけど……?」
「しばらくうちに来なよ」
きみの職場、うちからの方が近いでしょ? 夜道は寒いしさ。冬の間うちで暮らしてみて、不便がなければそのまま越して来ればいい。今だって家のことはネロの方が色々やってくれてるし、お金のことは気にしなくていいよ。用意してきたようにすらすらとフィガロが話している間、俺は呆然としていた。
「ちょっと待てって……。なんでそうなるんだよ」
「なんで、って?」
「急すぎねぇ?」
「そう? 急だったら駄目なの?」
「そうじゃねぇけど……」
するりと、フィガロの手が俺の手に重なる。熱が引いたからか、熱いコーヒーを持ったからか、さっきは冷たく感じたのに今は温かかった。
「強情だなぁ。そこも含めて好きだけどね」
「……は?」
「ん?」
「いや、今……好きって言った?」
「言ったよ」
「そんなん今まで一度も、」
「言ってなかったっけ? 伝えてるつもりだったけどな。あぁ、でも、意識飛んでる時だったのかも」
にっこり笑って、なんてことないようにフィガロが言った。情報と感情が処理しきれなくて頭がキャパオーバーしそうだ。俺が勝手に引いた線引きだけど、そんなに簡単に超えてこないで欲しい。
「返事は今すぐじゃなくていいよ。うちの合いカギ置いていくから、きみがその気になった時に使ってくれればいい」
こうやって最後の選択は俺に丸投げして、俺に自分から選ばせる。フィガロが考えそうなことだ。それでも結局、俺から拒絶したことは一度もないから今があるわけで。
重なっていた手の、指と指を絡めて、フィガロは駄目押しのように言った。
「大丈夫、断ったって怒ったりなんかしないさ。傷つきはするけどね」
そう言われると余計に断りづらい。これもきっとわざとだろう。
結局、俺はこの誘いを断りきれずフィガロの家に転がり込むのだろう。フィガロが提示してきたメリットは紛れもなく俺にとって魅力的だ。でも、今すぐ返事を寄越してやるのはなんとなく癪だから、ひとまず保留にしておくとしよう。
こうして、フィガロとの共同生活が始まったのだった。
続(多分)