星のしらべ 良く晴れた日の夜だった。
僕は目を開ける。目の前には、見覚えのない空間が広がっていた。
「ここは……」
夜空色の天井は妙に明るくて、星座がはっきりと輝いていた。手をのばしても当たり前に届かないのだが、少し飛べばツノが当たってしまいそうなほど低く感じる。辺りにはクレヨンで描かれたような雲、それから積み木やぬいぐるみ、絵本などが落ちていた。
それは昔、僕の部屋にも置いてあった———おもちゃ箱を思い出させるような、内装だった。
「!」
ふいに服の裾を引かれ、振り返る。
「……」
その正体は、齢四つほどの少年だった。柔らかそうな白い髪と、丸い瞳で不思議そうにこちらを見つめている。僕はどこか見たことあるその少年の傍に、目線を揃えんとかがんだ。
「こんばんは。お前が僕を呼んだのだな?」
彼はこっくりと頷いた。小さい頭を撫でてやると、くすぐったそうにくすくすと笑う。この僕を恐れないとは、なかなか面白い子供だと感心して僕も微笑んだ。
「さて、僕に何用かな」
尋ねると、彼はそのまま僕の手を取って歩きだす。
「こっちか?」
手を引かれるままに、僕も進んだ。同時に、雲も形を変えながら僕を横切っていく。天井の星も次々と新しいものが描かれていって、思わず僕は見惚れてしまった。
あの星座は何だろう。あれも、これも、本で見たことのないものばかりだ。
「お前は、どこから来たのだろう」
僕の問いかけに、顔を上げた彼は天井を指差した。それに頷いて、僕は再び疑問を口にする。
「この先には何がある?」
しかし、彼は答えなかった。ただ僕の手を握りしめる。小さな掌は、まだ若い星のように温かい。
ついてくればわかる。そう言っているような気がした。
しばらく歩いていくと、やがて雲がさぁっと晴れた。壁が徐々に透明になっていき、先の方にぼんやりと明かりが見える。
そこに向かって更に歩を進めれば、明かりの正体が暖炉の火である事が分かった。木々の燃える音に混じって、小さく小さく、すすり泣く声が聞こえる。
『ぐすっ……うぅ……』
その背中には見覚えがあった。火の前で懺悔するように身体を丸め、顔を覆っている。近くには倒れた椅子と、それからページの開いた本———いや、日記が落ちていた。
『あぁ、神よ。お願いです、あの子を……どうしてあの子が……』
男は泣き続ける。悔しそうに、悲しそうに。この少年とそっくりな、白い髪を揺らして。
「……」
握る手がさらに強くなる。そっと覗くと、少年が暖炉の方をじっと見つめながら静かに涙を流していた。拭う事もせず、声を上げることもなく、ただ唇を嚙みしめている。およそ子供の泣き方では無いであろう、その姿に不覚にも僕は言葉を失った。
見れば見るほど、その横顔はよく似ていた。暖炉の前でうずくまる、その人に。
「お前も悲しいのだな」
涙で濡れた頬を拭いてやる。赤くなった顔は確かに熱くて、生きる者の熱そのものだった。
どうして分かたれなければならなかったのだろう。こんなにも近く、共にある魂なのに。
「僕に何か、出来ないだろうか」
魔法は有能だが、万能ではない。死んだ者は蘇らないし、過ぎた時間は巻き戻せない。それは僕も重々承知していた。魔法士が、神になれない所以はそこにある。自分の力を過信してはいけないと、リリアからも常々言われている。
それでも、僕は何かしてやりたかった。彼らの為に。
「———……」
ふと、彼は僕の耳に顔を近づけようとした。僕が姿勢を更に低くしてやると、小さな手を添えて耳元に口を寄せる。
それから、鈴のような音が一言、囁いた。
「わかった。必ず伝えよう」
あどけない顔に僕が頷くと、安心したように少年も微笑んだ。……彼も、こんな風に笑うんだろうか。いつもしかめっ面の難しそうな顔ばかりで、思えば笑顔は記憶にない。
僕は思いついた事があった。少年に向き直り、その胸を指差す。
「お前のそれを、少し分けてくれないか?僕なら渡せると思うんだ」
彼は少々首を傾げていたが、やがて僕の腕の中に勢いよく飛び込んできた。ぽすっ、と幼い身体が全て収まってしまって、僕は思わず声をあげて笑った。
「ふふ、本当に恐れ知らずだな。……やはり、兄によく似ている」
細心の注意を払って、腕の中の彼を抱き締める。
微かに花の香りがした。あぁ、この子はあの街の子供なのだと、改めて思い知る。もっと意識を集中すると、彼の身体中を風が吹き抜けているのがわかった。元気に野を駆けている様子がありありと目に浮かぶようだ。遠くからくぐもった鐘の音も聞こえる。きっと毎日この音と共に一日を始め、そして終えていたのだろう。愛する家族と共に。
なんて温かく、愛情に溢れた魂。直に触れようものなら、指先が火傷してしまいそうなほど。
抱きしめていた身体が、不意にふわりと宙に浮かんだ。明るい光に包まれて、その姿は徐々に薄く透き通ってゆく。
「さようなら、愛しい星の子よ。また会おう」
笑顔のまま美しい星空へと消える彼を見送った僕は、いつか再び、彼らが会える日を夢見て目を閉じた。
「……」
ぱち、と次に目を開いた時には、僕の身体は自室のベッドに横たわっていた。部屋も、それから窓の外も、暗く静まり返っている。
しかし確かめるように自身の胸に手を当てれば、僕は居ても立っても居られなくなって閉じていた窓を開け放った。
さぁ、行こう。
この大事なものを、彼に届けなければ。
***
薄く開けていた窓が、風に吹かれて微かに声を上げた。
寝支度をしていた手を止め、私はじっと窓を見る。こういう時、決まって奴は現れるのだ。こちらの都合も考えずに。そう思いながら私は片眉を吊り上げる。
変化のない窓を見つめ、瞬きを一つする。
「———こんばんは、フランム。随分と寝支度が遅いではないか」
姿を現した人物は悠長に言って微笑んだ。私はさして驚く事なく、重いため息をつく。
「こんな夜更けに訪れる卿には言われたくないがね。まったく、非常識だ」
悪態をつきながら手で追い払うも、奴は気に留めるでもなく部屋へと足を踏み入れてくる、
そして、おもむろに両腕を広げた。
「まぁ、そう怒るな。今宵はお前に届け物があるんだ」
「だから贈り物など不要だ……って、は?」
言いかけて、口をつぐむ。
「今、なんと言ったのだね」
「届け物がある、と」
「……贈り物ではなく?」
「そうだ。届け物だ、フランム」
また、私はぱちくりと目を瞬きさせた。
届け物。此奴が誰かから預かって、それを届けに来たという事。一体誰だろうか、そんな命知らずな事をする者は。
「受け取ってくれるか?」
手を広げたまま、彼は首を傾げた。少々考えたものの、贈り物でないのならいいかという安易な思いと此奴に届けさせたどこぞの人物に興味を持ち、受け取ればその依頼人もわかるだろうという期待から私は首を縦に振った。
「良かろう。では、さっさと渡したまえ」
手を差し伸べる、私を見て。
彼はまた一歩、私に近づく。
「?!」
そして気が付けば、私はその腕の中に閉じ込められていた。
「なんっ……」
咄嗟に押し返そうと試みるも、固く閉じられた腕の中で身動きが取れない。それどころか、ぎゅっと彼の胸に身体を押し付けられてしまった。
「は、離せ!一体何のつもりだ?!」
「だから、届け物だと言っているだろう」
「それはわかっている!こんな事をせず早く渡せと」
そこまで言って、はたと気づいた。
彼の身体が———正確には、彼の胸が驚くほど熱い事に。そして、息を吸い込めばほのかに花の香りがする事に。
「……あ」
炎のような、肌を焼く熱さでは無い。どちらかと言うと、もっと懐かしい心地良さ。私はこの温度を知っている。不思議な事に、耳を寄せれば緑を揺らす風の音が聞こえてきた。花畑を走っている、小さな子供のような。
二度と抱きしめられない、あの子のような。
「な、なぜ、どうして」
彼の背中に手を回し、自分の身体を更に寄せる。あぁ、やはり、間違いない。間違えなどしない。これはあの子の体温そのものではないか。
それを、どうして。
「……『いつでも、そばにいる』と。そう言っていた」
そっと祈るように、彼が呟いた。腕の力が一度緩まると、今度は包み込むようにして大きな手に抱きしめられる。息を吸って、その胸が呼応するかの如く膨らんだ。
「泣いているんだ、とても悲しそうに。愛する人の嘆く姿に胸を痛めて、でも届かないから声も上げずに泣いていた」
低い声が、微かに震える。にわかには信じがたいが、それでも私は胸が締め付けられる思いだった。
あぁ、泣かせてしまっていたのか。
大切な人が苦しむ姿ほど、悲しい事はないというのに。
「あまり彼を泣かせてやるな、フランム。……優しくて、兄想いの、良い子ではないか」
熱い胸の中で私は頷く。知らず知らずのうちに、頬には温かい涙がとめどなく流れていた。彼は腕を離す事無く、私の頭を静かに撫でる。
愛しい弟の、熱い体温や吹き抜ける風を感じながら私はいつしか瞳を閉じていた。
「……」
朝日の気配に目を開けると、私はベッドに横たわっていた。昨夜はあのまま眠ってしまったらしい。
同じくベッドで、まだ眠っている彼の身体からゆっくりと離れて私は起き上がった。
「んん」
大きく伸びをする。目も頭もすっかり覚めていて、身体が軽かった。いつもなら、泥のように重い四肢を動かす事にも一苦労するのに。これは一体、どういう事なのだろう。
「……なるほど。『届け物』か」
自分の胸に手をやると、ほのかに温かい。そのまま腹や首、腕や足をぺたぺた触って、どうやらこの熱い温度というのが件の届け物であるらしいと思い知る。
いかにもこの男らしい、はちゃめちゃで奇想天外な……しかしまぁ、中々悪くない。最愛の人から届いた物なら、尚更だ。
「———……くしゅっ」
小さく聞こえた音に、ベッドの方を振り返った。見ると、いつの間にか起き上がっていた彼が鼻を啜りながら自身の腕をさすっている。妖精特有の白く、透き通った肌は心なしか今朝は青白さを際立たせていた。
「なんだ、次期妖精王ともあろうお方が風邪でも引いたのかね」
挨拶もそこそこに歩み寄って、その頬に手を伸ばす。
すると。
「えっ……?!」
昨夜とは打って変わって、彼の肌は降り積もる雪の様に冷たかった。慌てて今度は手を取ると、やはりどこもかしこも凍てついてまるで生気が無い。
「……身体がついていかなかったか」
そう呟く彼の顔を見上げれば、力無く、肩を震わせながら静かに彼は笑った。
「心配するな、フランム。僕が元の体温に戻っただけだ」
「元の、だと?しかし、これでは」
氷の肌に、さすっても上がらない体温。
人が生きる温度とは到底思えぬ冷たさ。
「妖精は……僕達は元々、人や他の種族より体温が低い者が多くいる。人の温度というのは、本来なら……触れないんだ。熱くて、火傷してしまうから」
途切れ途切れに、時折唇を震わせながら紡がれる言葉を聞いて私は唖然とする。
確かに、何かの文献で読んだ事はあった。妖精族と人は、見た目が似ていても身体の作りがまったく異なっていると。
「でもっ……だって、普段は普通に触れているではないか」
「あぁ、僕くらい魔力があれば造作ない。ただ……僕には熱すぎたようだ。ごうごうと燃える、若くて、曇りのない星は」
星。夜空に輝く、美しい光。
ずっと、私のそばにいる魂。
「……貴様ならわかっていただろう。何故、そんな無茶を」
彼から手を離し、拳を握りしめて私は俯く。
「何かしてやりたかったんだ、お前達の為に。魔法ではどうしようも出来ないから」
それに、と白い指先が私の頬に触れた。ひんやりとした感触が、今の私には心地良く感じる。
愛おしそうに頬をなぞり、彼は柔らかく微笑んだ。
「どうしても焦がれてしまうんだ、この熱に。生きとし生けるものの、燃える息吹に」
それが、あんまりにも幸せそうな表情で私は口をつぐんだ。彼の言葉は、まるで、自分はその中にいないと言っているような気がした。
ぐっ、と私は身体に力を込める。
「まぁ、あまり気にするな。温度差で身体が驚いているだけだ、数日でこの体温にも慣れ……」
彼の言葉など待たずに、腕を伸ばしてその身体を抱き寄せた。力任せに腕を閉めると、抱いた上半身が硬直するのを感じる。
「ふ、フランム」
「喋るな。ちょっと黙っていたまえ」
意識を集中させ、ぎゅうぎゅうと胸を押し付ける。しばらくそのまま密着していたが、埒が明かずに腕を緩めて身体を離した。
「うーん、やはりくっついただけでは駄目か。……そもそも体温を移す魔法なんて聞いた事もないぞ。ええい、どうすれば良いのだ!」
頭を掻きながら、部屋をうろうろと歩く。これだから魔法は好かんのだ。時に、理論的に不可能な事をいとも簡単にやってのける。
自分の力ではどうしようも出来ないと結論づけると、足早にクローゼットへ向かい扉を開け放った。奥へ手を伸ばし、手に触った布を引っ張り出す。
「致し方ない、これで当面は辛抱したまえ」
ふわりと、細やかな刺繍が描かれたストールが広がった。ぼんやりと座る彼の肩を、それで包み込むように巻いてやる。
「薄く思うかもしれんが、丈夫な糸で編まれている。保温性も申し分ないから、これで」
きゅっと胸元で布を留めたところで、ふと我に帰った。
いや、待て。此奴は私の仇敵、あのマレウス・ドラコニアだぞ。身体が弱っていると知った今、私のやるべき仕事は此奴の魔力を少しでも削る事だろう。
少なくとも、こうして労って温めてやる事など不要なはずなのに。
「……い、いや、これはその」
後退りしても、もう遅かった。ストールを巻いたままの彼が嬉々として立ち上がり、勢いよく迫る。
「やめろ、やめんか!ニヤニヤ笑いおって!体力が戻ったのならとっとと自分の学園へ戻りたまえ!」
「いいや、やめない。まだ寒くて、震えが止まらないのだ。フランム、先程のように温めてくれ」
「ちっとも震えていないではないか貴様ァ!」
朝日がのぼり、部屋を照らす。
ストールを翻して笑う彼の頬は薄桃色に染まって、あどけない子供のようだった。