賭けの試し「なぁ、懐かしいん買ったけぇちょっと遊ばん?」
そういって南方の家で酒を飲んでいた門倉が見せてきたのは誰もが一度は遊んだことのあるボードゲームであった。盤面を白に黒にと変えるそのゲームはリバーシだとかオセロだとか言われるもので、当の南方も小学生の頃に親や兄弟と遊んだ記憶がある。大人になってからは久しくやっていないこともあって懐かしい。
「ええけど、どうしたん?」
「んー、今度の賭けに使えんか思うて」
都合のいい実験台かなどと苦笑しながらもテーブルの上の酒を脇に避け、ボードや石を広げる場所を確保した。そこに門倉が乱雑にボードを置くと石の入ったケースを一つ南方の方へ寄越す。
南方はそこから石を取り出すと白の面を上にして斜めに二つ置いた。示し合わせたように門倉が黒の面を上にして石を置く。この色の違いが表の仕事の対立関係のようでどこか面白い。
先攻後攻もこの行動で決まったようで門倉が早速一つ石を置いて白い石を黒に返す。
そうして始まったオセロは酒が入っていることもあり、一喜一憂しながらのんびりと始まったのだった。
「なぁ、ただ遊ぶだけなんつまらんけぇちと罰ゲームでもせん?」
ゲームの途中でそう言いだしたのは門倉だった。ゲームを初めてすぐに火をつけた煙草はまだまだ長く、盤面では四隅の攻防すら始まってもいない時点でのことだ。
「ん? ええよ」
酔いも回っていたこともあり、南方は二つ返事で頷いた。そう来なくてはと弐ィと笑った門倉は、南方の空のショットグラスに吸いかけの煙草を落とした。僅かに残っていたウォッカのアルコールに一瞬火がついて消える。
「は? 何しとんじゃ!」
慌てた南方がチェイサーに置いていた水をショットグラスに注いで門倉を見ると悪びれもせず、二本目の煙草に火をつけていた。そのあまりの態度に南方は諫めることの無駄を悟り、燃えなかっただけよしとすることにしてショットグラスを片づけようと手を伸ばす。
だが、門倉はそれを制止するように煙草入りのショットグラスを先に取るとゆらゆらと揺らし首を傾げた。
「負けた方がこれ飲むってのはどう?」
「この煙草入りの水を!?」
「そう」
普段吸っている成分を飲み込むというのはどうしてこれほど抵抗があるのだろうか。
なんて南方が考える間も門倉は小さなグラスを揺らす。吸い殻からはまだ燃え残っていた煙草の葉が零れ水の色を染めていく。
ああ、そういえば煙草の成分は確か水に溶けるものだった。だからポイ捨ての吸い殻が環境問題として取り立てられるのだ。普段フィルターで幾分かカットしているものをそのまま接種するのであればより……、そういえばニコチンの致死量は果たしてどれほどだったろうか。
酔いでいつもより回らぬ頭ではなかなか求めた答えにはたどり着かない。
「別に負けなければ飲まんでええんよ?」
そう向かいで囁く門倉の言葉。そうだ、この勝負に負けなければよいのだ。南方は思わず頷いてしまう。
「なら決まりね」
そういって綺麗に笑った門倉がオセロの角を取ったのはそれから五分後のことだった。
「ワシの勝ちやね」
最終的には互いに取った角の数は二つずつとほぼほぼ同格の戦いを行ったが、僅差で門倉の勝利だった。たった二枚の差で負けた南方は悔しさに眉間に皴を寄せる。
「ちゃんと同意したよな」
そういって差し出してきたショットグラスを受け取ると、南方は渋々口元へと運ぶ。
「うわ……ヤニくっさ」
口をつけようとしたところでタバコ特有の香りが鼻へと抜けた。本能が飲めるものではないと訴え傾ける手を止める。
しかし、約束は約束だと南方は半ば自棄に吸い殻を残して液体を飲み干した。喉奥からする煙草の匂いと口に僅かに残る葉のカスが気持ち悪い。近くにあったチェイサーのグラスを手に取ると入っていた水を一気に煽る。
「あーあ、水は飲まん方がええのに」
そんな呟くような門倉の声がした気がするが、意味がわからないので無視をして嚥下する。こんなものを飲んで水を飲まない方がきついだろう。
南方は最悪な後味に顔をしかめたまま、グラスをテーブルに置いて改めて門倉の方を見た。愉しそうな顔をしていて少々腹が立つ。
「……もう一戦ええよな?」
「ええよ」
そう南方がリベンジを要求すれば門倉はこちらが拍子抜けするほどあっさり承諾した。盤面を最初の状態に戻し、ゲームを始める。次も手番は同じく南方が白の後攻、罰ゲームも同じものだ。
だが、先ほどまでと違うのは門倉が長考するような素振りを見せることだった。序盤も序盤で置ける場所も限られているような状態からなかなか石を置こうとしないなんて、どう見ても何か企んでいる。
その企みがなにかと考えながら南方も石を置いていくのだから、必然的に先ほどよりはゲームの時間が長くなる。その間も先ほどヤニ入りの水を飲んで熱を持った喉を鎮めるように水を飲む。
ゲームが始まって十分程したころだろうか。南方の身体に明らかな異変が起きていた。血圧が急激に下がったときに似ためまいと動悸、それから胸のむかつき。どう考えても心当たりはひとつしかない。先ほどの罰ゲームの影響だ。
この状態になって漸く門倉が時間を稼いだ訳を知った南方は、今まで気がつかなかった自分に一つ舌打ちを漏らした。そんな南方の様子に気が付いていた門倉は愉し気に目元を歪める。
「思ったより早かったね」
「何が」
「ニコチン中毒」
喫煙者であれば冗談でいう類の単語。だが、これが冗談ではなく文字通りの中毒症状を起こしていることは身体の状態から明らかであった。でもそれならば成分を薄めればまだましになるはずだと考えた南方はまた水に手を伸ばす。
「胃にあれば吸収されにくいのにそがいに水飲むから」
pHが低いほうがニコチンは吸収されにくいらしいよ、と続いた言葉に南方は水に伸ばした手を止めた。医学的なことは詳しくなくとも水を飲まない方がいいことだけは分かる。
そこまで考えた南方は、ふと罰ゲームの時の門倉の言動を思い出し、そして理解した。
ああ、だから飲まない方がいいか。あらかじめ調べてやがったな。
苛立ちをのせて南方はまたひとつ舌打ちを漏らす。
「まぁその量なら一晩あれば大丈夫じゃろ」
そんな南方に対して門倉は致死量には全然たりないから安心しろと嗤っていた。
足りないからなんだ。盛られた側としてはたまったもんじゃない。明日も仕事だというのに。
直後、襲ってきた吐き気を堪えながら門倉を睨みつける。
「でもイカサマもしとらんし、負けたおどれが悪いんよ」
それはそうだ。たったの二枚差で負けた勝負はイカサマの余地などなかった。門倉だって飲む可能性はあったのだ。だからこそ腹立たしさが余計にある。
その苛立ちのせいもあってか心臓の音がドクドクと余計うるさい。そのついでとばかりに視界も揺れる。気持ち悪い。
そんな中でも門倉は平然とオセロを続けようと次の一手を打ってきた。
まだ続ける気か。だがまた負けるわけにもいかないと最善は、いやそもそも置ける場所はと思考を廻らす。その間も嫌な汗が背中を伝う。
「で、思考に影響は?」
「あるに決まっとるじゃろ」
ないわけがない。こんなに心臓がうるさく動いているのに血がうまく巡っていないかのように頭が回らない。胸のむかつきが集中力を削ぐ。吐き出そうと跳ねる横隔膜をなだめすかすことにも限界がある。
「いっそ吐いたらちぃと楽になるかもね」
「ああくそっ……」
南方のやせ我慢などお見通しだと、門倉は暗に席を外す許可を口にした。毒を水で薄められないのであれば吐き出すのがいいことも南方とて頭ではわかっている。ただ従うのは癪だ。非常に癪なのだが、この体調ではそうもいってられない。
何度目かもわからない横隔膜の痙攣のあと胃液がせりあがってくるような感覚がして、南方は慌てて椅子から起ちあがった。どうせここで吐き出してしまった場合、掃除をするのは自分だと思えば我慢しない方がマシだと自分にいい聞かす。
「そうそう、今度の賭けの参考になったよ」
リビングから出ていく南方の背にそんな言葉が聞こえた。最初から門倉が参考にしたかったのはやはりゲームではなくペナルティのほうだった。
だろうと思っていただなんて負け惜しみのようなことを言う余裕もなく、急いでトイレへ駆け込む。
トイレのフタを便座ごと上げてしゃがみこむと同時に、南方は煙草の葉が混じる水分多めの吐瀉物を便器へとぶちまけた。
「で、ゲームは続ける?」
南方が蒼い顔のまま戻ったにも関わらず、平然と門倉はそう言ってきた。もう一杯くらいなら死にはせんよと言葉を続ける門倉に、もういっそその顔面に吐いてやればよかったと後悔しながらオセロの続きを始める。
門倉は先程までの時間稼ぎはやめたようで淡々と石をボード上に置いていく。
今度はなんとか僅差で南方が勝利することが出来た。もう一杯アレを飲まなくていいのかと思うと安心すると同時に、二人して倒れたら面倒だという考えが脳裏をよぎる。
結局、南方は同じ罰ゲームを撤回することによってこれ以上の惨事は避けることにした。
なお、代わりとして提示した罰ゲームが南方の看病だったため、門倉は面倒と口にしながらも、内心はただただ役得だなんて思っていたことを最後に記す。
某日・賭場にて
ここにあるAからZまでのトランプの箱を引いていただいても? ええ、こちらです。二人で相談するなり、じゃんけんで選ぶ方を決めるなりどのような方法で選んでもらっていいですよ。この中にあるのはランダムなトランプゲームなので。
選びましたか? では中身を確認しましょう。これは……シンプルなHigh&Lowですね。どちらのカードが大きいか当てるというシンプルなものです。当てるだけで金額が動くのは面白くない? ええ、ええ、そうでしょう。
だからですね。一ゲームごとに勝者は敗者にペナルティを執行する権利を得るのです。テーブルの上に二ℓのペットボトルがあるでしょう? この中身を負けた相手がこのショットグラス一杯飲むというペナルティです。中身ですか? 現時点ではただの水ですよ。
で、ここからがポイントでして、勝者は必ずしもペナルティを執行しなくてもいいのです。しなくてもいいとはどういうことかと? こちらに煙草がありますよね。缶に入ったピースが五〇本。勝者はこちらを一本ペットボトルに入れるか、相手にペナルティを執行するかを選択してください。知っていますか? こちらの缶のピース、日本で買える煙草の中で最もニコチンの含有量が多いです。そのまま食べたら二本もあれば致死量でしょう。それを水で薄めてショットグラス一杯、約十五㎖。それだけをペナルティとして飲めばいいのです。そう考えれば問題ない気がするでしょう?
そうそう、ニコチンはすべて水に溶けだすまでおおよそ三〇分くらいかかるそうなので最初の方はダメージが少ないかもしれませんね。かといって遅延行為をされても面白くはないので一ゲーム三分とさせていただきます。相手のカードより高いか低いか予想するのにそんなに時間はいらないでしょう? 決着は基本的にゲームの続行が不可能な状態となるまで、離席された場合はその時点で敗北となります。水や煙草は、なくなったら補充いたしますよ。
ルール説明とはいえ少々しゃべりすぎてしまいましたね。それでは勝負を始めさせていただきます。