明日への星 競技場の廊下にひと影を見た。
なんだと思い近寄ってみれば、そこに槙村が立っていた。
目があって、秋山は瞬く。
試合が終わって1時間ほどが経っていた。帰り支度を早々に済ませて、手洗いにいこうとロッカールームを出てきたところで槇村に出くわした。
あたりにほかにひとけはない。学校指定のジャージに厚手のコートを羽織り、槇村はひとりそこに立っていた。
よう、と言えば無言で肩をすくめられる。その顔は険しい。試合前に高杉が、槇村に声をかけようとして拒まれたと話していたのをふと思いだした。
二年まえに別れたときより、槇村の体格はずいぶんと分厚くなっている。昔の姿を一瞬そこに重ねかけて、秋山は眉根をあげる。中学生と高校生では何もかもが様変わりしているだろうし、それはきっと自分もおなじことだった。
この二年というもの、新聞やネットのニュースでしか見なかった顔がそこにある。
かすかな緊張を呑みこんで、どうしたんだよと秋山は声をかけた。
「星蘭の連中と一緒じゃないのか」
槇村の足元には校名の入ったバッグがある。二泊くらいはできそうな、その上に白い紙袋が載っていた。
「みんなもうホテルに向かった」
二年ぶりに言葉を交わすというのに槇村はこちらを見ようとはしない。試合の結果を引きずるのか、それとももっと根深いものがあるのか、どちらにせよその表情はこわばっている。そうしておそらくは自分も、おなじような顔をしているのに違いなかった。わかっちゃいたがきっついなと、秋山はこっそり胸元に手をやる。
「じゃあなんでおまえここにいるんだよ」
置いてきぼりか、と軽口にまぎらせようとして、けれどどうにもうまくはまらずに秋山は顔をしかめる。互いのあいだにぶあつい垣根があって、どうしてかそれを越えることができない。あーもう、と叫びたくなるのをこらえつつ、秋山はがりがりと頭をかいた。
そうしたこちらをどう見てか、槇村がぽつりと言った。
「うちのコーチが、こっちにともだちいるんだろ遠慮せずに会ってこいって。……あのひと事情知ってるくせに無邪気なんだよ」
けなすようでいて、ふと言葉の端にやわらかいものがきざす。うちの、という言葉が妙に耳に残った。試合中に敵陣のベンチを見るほどの余裕はなかったから、それがだれの話なのかも秋山にはわからなかった。
槇村はいま自分の知らないひとびとのそばにいる。そのことがふいと胸に迫った。
こどものころからおなじ景色を見ていたはずの、けれども離れていた二年に積み重ねられたものがたがいのあいだにある。垣根ってな、と、先ほど自分が考えたことを秋山は反芻する。
「だからまあ、無視して帰るわけにもいかねえかって、どうせあのひと帰ったらどうだったとか聞いてくるし」
秋山の知らない人間に、この場にいもしない相手に、槇村はずいぶんと気を遣っている。置いてきぼりを食らったのだろうと槇村に言っておいて、自分こそがそうなっているのだと気づいて秋山はこっそり唇をとがらせる。なんだよ、と呟いた、声が相手に届いたかどうかはわからなかった。
「他の連中は」
槇村の問いに、せめてもの意趣返しに秋山は仏頂面をする。
「着替えたり電話したりしてる」
そうかと槇村は小首をかしげる。かつての同期たちの、その光景は槇村にはまだ想像がつくのだなとそんなことを思った。
「ま、いちおう清吉さんへの義理も果たしたし帰るわ」
槇村がバッグの柄を拾いあげる。がさがさという紙袋の音が静かなあたりに響いた。
清吉さんって誰だよと、言いかけて秋山はふいと言葉を切る。
「ジュニアのときな」
槇村の背を見るうちふと頭に浮かんだことを、恨みごとのかわりに口にした。
なんだと槇村がふりかえる。その目はやはりこちらよりすこし低いところにある。
背が高いだとか手足が長いだとか、フィジカルへの評価を子どものころは無邪気に喜んでいた。けれどもいまは、そんなものは自分の手柄ではないと、むしろただ驕りを生む足枷にしかならないのだと、目のまえの男に突きつけられ続けている。
悔しいとは口にはせずに、秋山はほかの言葉を重ねてゆく。
「おまえには絶対ゴールマウス譲らねぇってずっと思ってた。試合してても練習しててもおまえの目がずっと背中にべったり張りついてるみたいで、それでも俺はおまえには負けねェ絶対にここからどかねえって思ってた」
槇村がかすかに眉をひそめる。帰ろうとしていた、そのからだがこちらを向いた。
「おまえが代表に選ばれて、俺は、おまえをそこから追いだすことばっかり考えてた。そこは俺の場所だ、おまえなんかぶっ飛ばしてやるって」
いつか弁禅が言っていた。ゴールキーパーは孤独であるがゆえに唯一無二だと、そうしてきっとその言葉は槇村もどこかで耳にしているに違いなかった。
サッカーというスポーツにおいて、はじめからゴールキーパーを目指すものはすくない。大抵はフィールドプレーヤーだったものが、体格だとか性質だとかを見さだめられて指導者によりコンバートされる。テレビ中継やネットニュースでも花形は点取り屋のFW、司令塔となるMFなどで、守備陣にスポットライトがあたることは滅多にない。
それがどうした、と秋山は強く拳を握る。
ゴールキーパーという自分のポジションに秋山は命を賭けているし、目の前にいる男もきっとそうに違いなかった。
孤独にして唯一無二、フィールドプレーヤーにはきっと一生わからないだろうそれを、子どもの頃からずっと分かち合ってきた、そうして奪い合ってきた相手を秋山は見る。
「今日試合やって、おまえがさ、まっすぐ先に向かい合ってて、ああそうかって思った」
どこかで遠く自分を呼ぶ声がする。そろそろ出立の時間らしかった。
「おまえが俺の背中追っかけるんでもなくて、俺がおまえの背中追っかけるんでもなくて、これからはおんなじポジション奪い合うんじゃなくて、いや、まあそれもあるけど代表の座はめちゃめちゃ狙うけどそれだけじゃなくて、プロになったらおまえとずっとガチンコで殴り合えるんだなって。背中だけじゃなくて、おまえが何やってるかぜんぶ真正面から見られるんだなって」
すごいよなとそう言って、秋山はぐいとふんぞりかえってみる。話しているうちに楽しくなってきて、つい声をあげて笑ってしまった。
「おまえのこと羨ましがって悔しがってじたばたしてるよりさ、そっちのが性に合ってるわ俺」
まあ悔しいけどな! と破顔一笑してみせれば、槇村はぐいと眉根を寄せる。
と、思いきりよく足を踏まれた。ぎゃあと激痛に飛びあがるこちらにけれど取り合うこともなく、槇村はくるりと踵を返す。
「てめえコラちょっと待て、ひとがせっかくいい話してんのに」
「自分でいい話とか言うか」
涙目になりつつひょこひょこと足を引きずって追いかけるのに、槇村は容赦なくすたすたと歩いていく。だんだんと離れていく距離に、なんなんだよちくしょうと秋山は悪態をつく。
「おいコラ待てこの野郎、話はまだ終わってねえぞ」
「終わるも何もはじまってねえよ、てめえがひとりでペラペラと喋ってただけだろうが」
「それが話だっつってんだろ」
なおもがみがみと追い立てる、とふいに槇村が足を止めた。振り返るその目はまっすぐで、さきほどまでの思いつめたような表情はいつのまにか消えていた。
お、と秋山は瞬く。
「代表の座は絶対に譲らねえ」
きっぱりと言いきって、それから槇村は、あと、とつけ加える。
「俺ばっかり見すぎだろ、おまえ」
「俺じゃねえ、おまえが見てるって話してんだよ!!」
「いや、おまえだわ」
「絶対ちがうね、おまえが! 俺を! 見てんだって!」
やいやいと言い合って、そうするうちにふと、昔も練習終わりによくこんな掛け合いをしたなと思いだす。槇村が口元をゆるめた。おなじ光景がきっとその脳裏にもよぎったのに違いなかった。
「じゃあな」
槇村が手を挙げる。その口元にはやはりちいさな笑みがある。
「おう、じゃあな」
秋山も手を挙げて、それから相手を見ずに踵をめぐらす。
遠ざかっていく足音を聞きながら、自分を呼ぶ同期たちのもとへと一歩を踏みだした。