翡翠を呼ぶ声はじめはなんと言われたのか分からず聴き返した。戦場で応急処置を受けたロン・ベルクが、懐の酒を更にひとくちもらうためにノヴァに声をかけたのだ。他の誰かの声と混じったのか、はたまた空耳か、自分の聴き間違いだと思いノヴァはそれ以上質すこともせず、視線を辿って彼のもとへと近づいた。
次に呼ばれたのはピラァ・オブ・バーンの黒の核晶を凍らせに往く時だった。包帯でぐるぐる巻きにされた腕を一瞥したあと、ロンは柱のある方角に首を傾げて脅威を指し示した。暗に「オレも連れていけ」と言っているのが分かって、この怪我人、どうしようかとノヴァは心底迷った。迷っていたので、不思議な言葉は直ぐに忘れた。
やっぱり変な単語で呼んでいると思ったのは、柱の足元で天辺を睨み付けている時だった。ロンを連れてどうやって柱の最上部まで飛ぶか考えている最中だった。
「お前の瞬間移動呪文じゃ、すぐそこの柱の頂上は無理なのか?ああ、あれか、目に見えない方が想像力を掻き立てられるタイプか」
と小馬鹿にされ、「やれやれ…」の後に続いた言葉で気がついた。
「絶対にボクの事を呼んでいる」と確信したのは、バーンと念話するロンを見た時だった。会話のすべては人界の言葉だったが、最後のいくつかの言葉は聴いたこともない言語で成り立っていた。何回か呼びかけられたのと近い発音が出てきたので、魔界の言葉に違いないと確信に変わった。
師とバーンの会話の雰囲気は徹頭徹尾剣呑だったから、最後の会話もバーンが喧嘩を売って、師が買った構図だったのだろうと思った。
「一体、なんて言っているんですか?」
「うん?」
ダイとバーンの決戦中に世界中の柱がすべて凍ったことを知ったノヴァは、疲労困憊した身体を引きずりながら地上の決戦場に戻った。そして帰還している間、頭の中を巡っていたあの不思議な言葉について師に問いただした。
「ボクのこと、なんだか不思議な言葉で呼んでいるでしょう。あれって、魔界の言葉ですよね」
「ああ、あれか」
師は少し不服そうにしている弟子をちらりと見て、それから片眉をあげてシニカルに微笑した。
「まぁ、知りたければ魔族の言葉を覚えるんだな、坊や?」
師を前にしてノヴァだって覚えたいと思ったけれど、周りには魔族の言葉を扱えるような者はいない。人間の学者でさえ魔族の言葉を理解するのは難解で、辞書を片手にようよう翻訳している。ロンが時々くり返す単語もノヴァには発音が難しすぎてなかなか言葉にならない。だから誰かに伝えることもままならない。
からかわれていると分かって腹が立ったので、ノヴァはロンの懐に入っているスキットルを、腕の傷に障るという理由で没収した。
決戦が終わって一行は反乱軍の拠点に戻り、それぞれ傷ついた身体を癒した。ノヴァも他の皆と同じく眠れそうになかったので、砦の周囲をそぞろ歩きした。そうこうするうちに師のことが心配になり、彼の容態を確かめるために寝所を訪ねた。気が昂っているのか、それとも痛みのためなのか、師も眠れぬ夜を過ごしていた。
各国の戦士団には、余程の人材不足でない限り、回復呪文の使い手や外科治療に秀でた者が随行している。師の両腕の大怪我も回復呪文や痛みを押さえる薬草を使って治療が施されていた。
ふと師がこちらを見た。ベッドに腰かけている痛々しいその姿を見て、ノヴァはなるべく嘆きの心を顔に出さないようにそっと彼の腕に触れた。見ると包帯がほどけかかっている。ノヴァはロンの足元にひざまづくと、痛みを与えないように丁寧に包帯を巻き直した。
「ボクが回復呪文を使えればな…」
最大の衝撃を受けたロンの両腕の怪我は、たとえベホマの光を当てたとしても劇的に回復することはない。ひととき痛みは引くものの、暫くすると地獄の如き疼きが彼を襲う。
「ずっとオレについている羽目になるぞ…」
「そのつもりですけど…」
少し憮然とした声でノヴァが返す。それを聴いたロンは、フッと笑うとまたあの難解な言葉を紡いだ。馬鹿にされたと思ってキッと彼を見上げると、至極穏やかな顔でノヴァを見下ろしていた。
あまりに優しげなその相貌に驚いてしまい、顔が熱くなるのが分かってすぐに下を向いた。北の生まれだけあってノヴァの肌は色素が薄い。感情が面に出やすいのだ。今もきっと赤面しているに違いない。お願いだ、ボクの前髪よ、顔を隠してくれ、とノヴァは自分の前髪に祈った。
「それ、ホントにどういう意味なんですか?」
下を向いたまま、照れを隠すようにぶっきらぼうに聴く。
「さて、な」
愉しそうにロンがからからと笑う。重たい空気が霧散した。
ロンが住まう奥深い森に、一筋の清涼な小川が流れている。水辺には命が集まり、見たこともない生き物が彼の眼を楽しませてくれる。
その中でもひときわ美しい羽を持つ小さな鳥が彼の好みだった。橙色の腹と胸。翡翠と瑠璃と宵闇をまぶしたような鮮やかな羽。
餌を採るためだろう、木の枝から斬り込むように透明な水に飛び込む。小魚を捕まえる青き雷に度々眼を奪われた。
人間の友人に聴いてやっと名前が分かった。美しい羽の色に、人間の言葉ではどういう字をあててその小鳥を表現するのかも教えてくれた。
ノヴァの戦い方は、その水辺の小鳥に似ているとロンは思った。空高く舞い上がり、高みから一気呵成に斬り下ろして有無を言わさず容赦なく獲物を捕らえる。雷のようなところも、時々狩りを失敗してしまうところも、見目麗しく涼しげな姿もそっくりだと思った。
なんとなく弟子の名前をそのまま呼ぶのは面映ゆいような気がしたし、普段は身につけない大切な宝玉のようにとっておきたいとも思った。だから思いつく限り、別の言葉で呼んでやろうと思った。
これから、一体どれほど言葉を尽くしてノヴァのことを呼ぶのだろう。人間の言葉で、慣れ親しんだ魔族の言葉で。
刻一刻と変わる人間の生。きっと憧れにも似た想いでこの翡翠のことを呼び続けるだろう。真っ赤に染まったノヴァの耳朶や意外に長い睫毛を眺めながらロンはそう感じていた。
―おわり―