【★文章】ソテ黒/人魚の鱗 2 人魚は名前を「黒曜」と言うらしい。
人魚の言葉は陸上ではほとんど音にならず、人間の鼓膜で捉えるのは難しい。そのため、成長して一人前となった証に、そのコミュニティで引き継がれる人間向けの名前をもらうらしい。
「黒曜」とは、一番強くて大きい者、という意味だと語った。
「それで、どこから来たんだ。お前」
「さぁな。少なくとも陸が見えるようなとこじゃなかった」
「外から見て分かるもんじゃないしな」
汚れた水を抜いた後、少し掃除した湯船へ人工海水を注いでいく。趣味で事務所に置いているアクアリウムの人工海水を使っても問題ないのは僥倖だが、一回あたりの使用量が馬鹿にならない。元々、海に帰してやろうと思って連れ帰ったが、本人(本…魚と言うべきだろうか)に聞いてもどこから来たのか分からなかった。そのまま近くの海に放流しても、所属するコミュニティもなく食べ物も合わない、環境も合うか分からない状態では、見えないところで死んでくれと言っているに等しい。仕方なく、できる範囲で面倒を見てやることに決めた。見た目は厳ついが、陸上では環境を整えてやらないと生き延びることはできない。こいつは今、犬や猫と同じようなものだ。
そしてほぼ初対面のため、会話はできるが警戒心は消えていない。湯船のついでに洗ってやろうとシャワーをかけると暴れ、風呂場の鏡は衝撃で粉々になってしまった。世話をするにしても、黒曜がストレスを感じない空間くらい確保しないと、このままでは事故にも繋がりそうだ。
尾鰭を含めると二メートルほどの全長が湯船に全くおさまっていない様子に、ソテツは頭を抱えた。
「さて、どうしたものか」
★ ★ ★
「帰れよ。客じゃねーだろ、お前」
「客だぞ? 物件紹介しろ。プール付で、予算は〜……これくらい」
「ねーよ! 事故物件でもねーよ! そんな値段!」
ソテツはカウンターから、鬱陶しそうに手を払っている晶に静かに詰め寄った。晶はこの辺りの不動産を扱っている不動産屋の愛人で、要するにコネで仕事にありついている男だ。付き合いが長く、厄介に巻き込まれた時に何度か尻拭いをしてやったツケがある。それをちらつかせて値切ってもいいな、と悪い考えが浮かんだ。
「プールって、何に使うんすか。ナイトプールパーティーとかするんすか」
「するか? コイツが。オレがしたいわ」
「いや、ペット用にな。でかい水槽じゃもう物足りん」
「へぇ。あれからどんだけデカくしたんすか」
カウンターの奥から大牙が出てきた。この支店の事務員の一人だ。付き合いは浅いが、距離感の取り方と、いじり甲斐は気に入っている。今の事務所でアクアリウムを始める際、似たような趣味があるらしく、いい店を教わったことがあった。そのため、趣味に関しては話が合う男だ。
「だったら、これいーんじゃないすか」
大牙は積み上がっている紙の山から正確にひと束を抜き出すと、カウンターに置いた。男三人がカウンターを挟んで集まり、覗きこむ。
「場所は……クソ山奥すけど。道は一応整備されてて、で、ここ」
「……ナニコレ。穴?」
「水槽すよ。二階建てフロアぶち抜きで円柱の特注アクリル製。この間現地いったら、アクリル以外の循環システムなんかはぜーんぶダメになってたんで、そこは金かかるんすけど。これだけでも個人で発注したら〜って考えたら、少しはマシなんじゃないすかー。逆に言えば、自分好みにカスタムできるし」
「バカのサイズじゃん。これ作ったやつ頭おかしーわ」
「まぁ……頭おかしいほど儲けがあった時代の物件すからねー。前の持ち主はここ生簀にして、その場で魚捌いて寿司パーティーやってたっていうし。立地も山奥で間取りも特殊なもんで、買い手どころか冷やかしの内見も全然すわ。だからこんな値段なんすよ」
「へぇ。じゃあ今から内見いけるか?」
「全然。むしろ大歓迎」
ソテツは了承の言葉を聞くと、椅子の背にかけていたジャケットを羽織り、資料を大牙に押し付ける。それを受け取りカウンターから出てきた大牙を連れ、晶の声を背にして店を出た。
「へ? マジで? お前、マジで?」
「大牙、ナビしろ。運転は俺がやる。道の感じを把握したい」
「うすうーす。一名様、レア廃墟にご案内〜」
大牙を助手席に乗せ、ソテツのオフロード四駆車は目的地に向けてタイヤを走らせた。山へ向かう道路沿いは建物もまばらだが、道は荒れた様子がない。市道で、林業や運送業でもよく使われるルートだから大きな問題はない、というのが大牙からの情報だ。
「そこ左はいってもらって……この道は物件に行く人間しか通らない、まぁ私道すね」
「その割には道幅もしっかりあるな」
「ここも物件の土地の一部すから。狭くするのも広くするのも自由すよー」
「なるほどな」
道を抜けると開けた場所と、花を植えていたであろう庭のようなものが見えた。住む人もなく、鬱蒼とこの地に適した植物で覆われている。駐車場はブロックが敷かれていたためか、雑草が繁栄することもなく、目立って荒れた様子は見られなかった。
大牙が鍵を開け、家の中に入る。古い家の匂いがした。壁紙は元の色がわからないほど茶色くなっており、フローリングは歩くたびに軋む。大牙が靴のまま上がるよう勧めたのもこのためだろう。
「で、ここが、目当ての水槽」
大牙の声に視線を向けると、その先には円柱のアクリルがそびえ立っていた。ソテツが見上げるほどの大きさだ。
事前の説明通り、アクリル以外の装置や金属部分については状態がよくなかった。全て入れ替えることになるだろう。
水槽の真上にあたる二階で説明を受けた後、一階に降りてあらためてもう一度水槽を眺めた。
ここに自分が小さな世界を作って、適した水で満たす。その中に入った人魚の赤髪が、差し込んだ日の光で輝く。
一瞬の幻覚だった。今は何もない空っぽの筒だけがある。でもこの筒は宝箱になる。自分がそうできる。そう思うと、神になったような気持ちだった。
「……買う。キャッシュ一括。書類一式用意しとけ。必要なもんはメールで送れ。用意しておく。あ、リフォーム業者のリストもな」
「うーす。……いやぁ〜男の夢すね、これ」
「……そうだな」
大牙とは見えている景色が違うだろうが、ソテツはそう答えた。