きみ僕カレで危うい関係 「あれ、神子殿は?」
何やかんやで、山ほどの仕事を片付けて邸に帰ったのは日を跨いで数刻も経った翌昼の事。疲労困憊のあまり、その場で臥したいと思ったほどだが、休息を要求する身体を叱咤して邸に戻って来たのは愛しい想い人の顔を見るためだ。
しかし、肝心のそのひとが居ない。
出迎えに出た女中達の長に問いかける。すると、苦悶の表情を浮かべた後、深く礼をしたまま言った。
「その、神子様は登城されております」
「え?」
理解できない答えに、思わず問い直す。
「江戸城よりお召しが有り、登城されました」
「はぁ?」
やっぱり理解出来ない。女中頭はじめ、出迎えに出た家人たちは皆一様に縮こまって顔も上げない。
「あのさ、もうちょっと詳細に言ってくれる?」
それでは恐れながらと、恐縮し切った様子で女中頭が告げた。
「神子様は、公方様からお召しが有り江戸城に登城されておいでです。」
——公方様からお召しが有り
——登城されておいでです
耳から入った言葉を反芻する。
「やられたっ……」
すべてが繋がって、突如あげた大声に家人達が肩をびくつかせる。
いくら将軍職が忙しいからって、仕事の鬼だからって。慶喜から尋常ならざる量の仕事を命じられた時に気付くべきだった。これは、よく慶喜を知るだけに陥った完璧なるミスだ。
「戻る!」
「はっ?」
「今から登城する。それじゃね。」
たった今くぐったばかりの玄関を後にする。本当に気が抜けない。
従弟の才気を誇らしく思ったこともあったが、こうなったら障害でしかない。
(首洗って待ってて、慶くん)
当代将軍に、物騒なことを思いながら、リンドウは道のりを逆走したのだった。
「どうした、神子。落ち着かないな」
「あ、すみません」
江戸城の奥まった一室。
慶喜の執務室にほど近い謁見用の小部屋で、ゆきと慶喜は相対していた。
「そろそろ、リンドウさんのお仕事が終わるかなと思って」
「そうだな。まあ、終えれば姿を現すだろう」
「そうですね。慶喜さん、忙しいのにお邪魔してすみません」
「いや、リンドウが言ったのであろう。ならば、奴が責任をとってくれる」
「ふふっ」
花が綻ぶように微笑む。
まったく疑うことを知らない。
神子を江戸城に呼ぶため、慶喜はリンドウの名前を出した。
仕事が詰まっており、しかし将軍のご機嫌伺いの必要もあって……手一杯だから神子殿手伝ってよ。とりあえず、慶くんの話し相手をしてくれたらいいから。
——何とも馬鹿馬鹿しい。
拙い作り話にゆきが引っかかったのは、彼女自身が邸に篭められることを良しとしてはいないのと、純粋な心根ゆえだろう。このところ、とみに忙しくしているリンドウを見ていたのだ。何かしてやりたいと彼女が思うだろうことは明白だった。
もっとも、手っ取り早い方法は他にもあったが、それをしなかったのは従兄への配慮か、自身の躊躇いゆえだろうか。
「江戸の生活には慣れたか」
「はい。やっと少し落ち着いて。京とは全然違いますね」
「そうか。お前の世界でも京と江戸とは違うか」
「違うと思います。町の雰囲気……気質はなかなか変わらないものかもしれません」
胸の前で指を組み、首を傾げる。
まったくもって稚い。
しかし、それがまた良い。
そもそも、生粋の大名育ちでありながら、水戸で育てられたからか単なる遺伝か、慶喜は少し鄙びた女が好きだ。
お屋敷育ちの、少し気取った……気を置いた付き合いしか出来ないような女は好かない。
目の前の神子はと言うと、鄙びているわけではないが、異世界から呼び出されたというだけに風変りで世情にも疎い。しかし、必要なことは学ぶ気概があるし理解する聡さもある。
見かけはと言うと、蝶よ花よと心血注いだ姫君のように嫋やかなる風情だ。白肌が美しく顔の造形も整っている。誰よりも慈悲深いが、ひとたび事が起これば果敢に立ち向かうであろう気の強さは、これまでの働きで存分に示している。
慶喜の好みど真ん中という訳では無かったが、文句無しの『いい女』なのは確かだろう。
(後は出自と言うところだが、何とでもなる)
従兄と、この神子の事は知っている。何と言っても、自分が焚き付けた自覚があるので間違いない。
だがしかし、正直なところ従兄殿に彼女はもったいないと思うのだ。
従兄殿が持っているもの。
『それなりの立場』
『なかなかの家格』
ただそれだけだ。
星の一族という接点もあるが、末子の奥として家に入れるのでは一族も都合が悪いだけだろう。
彼女は、ここまで見るに、上に立つものに不可欠な要素を多く持ち合わせている。勿論、足りぬ点は自分が補えばいい。
そんなことを考えている自分にも驚くが、眼前の龍神の神子はその上を行っていた。
神妙な顔をしていたかと思えば、
「慶喜さん、なぜ私をお部屋に入れてくださったんですか」
とこちらを見上げた。
それを聞くのか。
と思わないでも無いが、あえて少し意地悪い言葉を返してみる。
「なぜとは。神子はリンドウに言われて来たのだろう」
「そうなんですけれど…、慶喜さんは上様で、そんな気軽に会える人じゃないですから」
ふっと思わず笑みが漏れた。
「お前は、私に会いたくなかったか」
「え……」
思いもよらなかったのだろう。神子は驚いた様子で目を瞬いていたが、そのうち何が頭に過ったのか急に頬を赤く染める。これだから面白いと言いたい所だが、少し可哀想になって助け舟を出した。
「そんなに構えるな、聞き流せ」
「あの……」
「リンドウに厭な役目を押し付けられたと不快な思いはしていないか」
言って笑みを向けてやれば、唇を引き結び真剣な表情で神子が言う。
「あの、私は不快になんて思っていません。その、ちょっと嬉しいかなって思ったくらいですし……」
少し戸惑う様に言葉を聞いた後、神子はこちらに目線を合わせて一気に言い放った。
「私、慶喜さんに会いたいと思っていました」
何て事を、何て表情で言うのか。
紅潮し、少し潤んだ目元が悩ましい。これで無自覚というのなら、何とも罪深く、かつて江戸の浄化に付き従った八葉の面々に同情したくなる。
「お前が……」
つい、常なら決して口にしないことを告げたくなった。
「そこまで言うからには、つれなくするということも無いのだろうな」
「え?」
「私も、お前に会いたいと思っていた」
言って、文机に向かう自身の横に座る神子へ手を伸ばす。畳に置かれていた彼女の左手に自身の右手が触れた。
手は、避けられなかった。
そのまま、柔らかな白い手のひらの感触を確かめ指を辿る。
まだ、避けない。
避けないというのは、何も色恋めいた理由などではなくて、そういった意識をしていないのだろう。
現に、戸惑ってはいるが羞恥だとかいった感情を表は表していない。
「あの、慶喜さん?」
「神子、少しそのままでいてくれぬか」
告げた後、文机から離れ膝を進める。向かい合った神子は思いのほか丈もあり健康そうだが、華奢な体躯は相変わらず不安を抱かせた。
手のひらを辿っていた手はそのままに指を絡ませる。空いた左手は肩越しに背を抱いた。
「……っ、どうしましたか?」
さすがに、何か変だと気付いたらしい。
「いや。その後、身体は大事ないか。顔色は良いようだが」
ちらと、廊下の方に目をやってから、目の前の小さな頭に顔を近づける。繊細な髪からは淡くて甘い香りがした。
「はい、今はもうすっかり元気に……」
律儀な返答が首もとで聞こえる。少しだけ、背を抱く力を込めた。
一体、何が起きているのか。
幾らか不穏な想像はしながら駆けつけたけれども、この展開はなかった。
こんな、ちょっといい感じになっている展開。
勢い、部屋に飛び込もうと思ったが、そこは大人の理性を総動員して踏みとどまった。
——まずは状況分析が必要だ。
前々から、慶喜がゆきを気に入っている事は重々承知していた。しかし、ゆきが好きなのは自分だと思っていたし、信じていた。
でも、それって本当にそうだったんだろうか。
ゆきとて、慶喜を憎からず思っているだろう。
慶喜……あの人は、あれで中々の女たらしだから、ゆき一人を惑わすくらいなら赤子の手を捻るようなものに違いない。それにしても、やり方が気にくわない。絶対的な権力を持っているのだから、もっと強引なやり方も出来るくせに。
……ということは、別段その気はないということか。以前、提示された『慶喜と神子の婚姻』と『神子を元の世界へ還す』、そのどちらも出来ていないことへの当てつけか。
(それにしては、はっきり言ってくっつき過ぎだよね。なんで慶くんがゆきの背を抱いてるの……)
結局、考えてみたが目の前の状況に完全に動転しているいま、まともな考察など出来るはずがなかった。そう結論付けて、やっぱり部屋に乗り込むことに決めた。
小気味よい音がなって襖戸が開く。
その瞬間、こちらを向いたゆきは一瞬笑みを浮かべた後、すぐに慶喜に抱きすくめられていることに気付いて慌てて身じろいだ。
一方の慶喜はと言えば。動揺する気配も見せず、ゆきのことを離す気配もない。
「……ちょっと、慶くん」
「なんだリンドウ。執務は終えたのか」
「とっくに終わりましたけど」
「さすがだな。次はさらに追加しておいてやろう」
「お褒めに預かり光栄ですが結構です」
頭上で交わされるしょうもない応酬を聞きながら、慶喜の腕から逃れようとしていたゆきだが、そのうち諦めて、そのままの格好で告げてくる。
「リンドウさん、お仕事お疲れさまでした」
少し紅潮した顔で嬉しそうに言う。やっぱり、僕のゆきは本当に可愛い。一瞬デレッとしそうになったが、まだゆきに慶喜の腕が回されていることを思い出して、努めて真顔に戻した。
「ゆき、慶くんの呼び出しなんて無視していいのに……」
「え?」
当てつけも含めて、当代将軍の前で問題発言をしたのだが、それ以前にゆきが本気で驚いているのが気になった。
「え、って」
「だって、ここにはリンドウさんが呼んで……」
思わず、心の中で舌打ちした。
そうか、そう来たか。
薄目で慶喜を睨むが、気にした風も無い。
相変わらず神経が太い。さすがと言うべきか。
どうやら、敵は自分をダシにゆきを呼び出したようだった。当代将軍が何たる姑息な手をと思わないでもないが、逆に言えば無理矢理にも連れ出すことは出来た筈なのだ。
事実、大奥にでも篭められてしまったら、さしもの自分も乗り込んでは行けない。
あえて好意的な解釈のもとに、そこは場の流れに乗る事にした。
「ああ、そうだった。ごめんね、遅くなっちゃって」
「ううん。慶喜さんとお話したり楽しかった。ありがとうリンドウさん」
無邪気に御礼まで言われてしまった。
「それで、いつまでくっついているの。慶くん、ゆきから手を放してよ」
ここで再び思い出したのか、ゆきが慌てた様子で慶喜に言う。
「慶喜さん、すみません。もういいですか?」
「ああ、すまなかったな神子」
「いいえ、心配して頂いてありがとうございました」
また、へんてこな会話をして分かり合っている風な二人に苛々する。
「一体何だったの」
「お前が思うようなことではない。ただ、神子の体調を尋ねただけだ」
ニヤリと口の端を上げて目線をくれてくる。本当に油断ならない。
「あっそ。それで、僕らは帰っていいのかな」
「執務を終えたのなら留める理由もない。大義であったな」
良く言うよ。と思ったが口を噤んでゆきの手をとった。
「それじゃ、もう行こう。またね、慶くん」
「ああ。またな、神子」
「はい」
きっちり、ゆきに『またな』と言ってから慶喜は解放してくれた。
まさか、こんなところに敵が居ようとは、認識が甘かったとしか言いようがない。
ああ、もう面倒くさい。
ようやく、邸に二度目の帰還を果たして自室に入る。座り込んだ自分の隣にゆきは可愛らしく正座している。
「ああ、疲れた……」
さすがにくたびれ果てて畳に手をついた。ゆきが膝を進めてにじりよってくる。
「ふふ、本当にお疲れさまでした」
「君こそ。江戸城まで来てもらって長時間ごめんね」
ううん、とゆきが頭を振る。
「いいんです。私、リンドウさんが呼んでくれているって知って嬉しかったの。何か、私にもお手伝い出来ることがあるんだって。ほら、最近とても忙しくしていたから……」
役に立てて嬉しい……、そう言って微笑んだ。
まったく、毒気が抜かれる。
当然だが、彼女は二心あって登城したのではなく、純粋に自分を思ってくれていたのだった。
それを知れたという意味では、慶くんのつまらない画策も許せるような気になってくるから、自分の心の現金さに苦笑したくなる。
「ね、ゆき。膝をかしてくれない。昨日から一睡もしていなくて」
「はい」
傍らにあった柔らかな脚を引き寄せて頭を預ければ、躊躇う事無く彼女は膝を差出した。優しい手のひらが髪を梳く。
「夕餉の時間までこうしていますから、リンドウさんは眠っていてください」
「うん」
本当は、今日のあれこれについて、注意喚起も含めて言いたい事が沢山あったけれど、とりあえずは旨の内に引っ込めることにした。
こうしていれば伝わってくる。彼女が僕を好きだと思ってくれていること。
「ゆき、愛してるよ」
急にどうしたんですか、なんて言いながら彼女が微笑む。そして、『私もです』と耳元で小さく囁いた。
やんわりと伝わってくる熱に心を蕩かされる。やがてまどろみが訪れ、頭は膝に、手をつないだまま僕は眠りに落ちた。
「なかなか手強いな」
一方、江戸城では慶喜が自身の手のひらを見つめていた。
神子自身の疎さもあるが、思いのほか従兄殿の守りが固い。それだけ、骨抜きにされていると言う事か。
元々、欲すれば満たされる立場柄、欲は少ない方であり、無理にでもと求めたものは今の立場くらいでは無かっただろうか。
しかし、それもすでに手に入れた。ほかでもない、従兄殿と神子の手を借りて。
さて、どう攻めようか。
これはまた腕が鳴る……と、神子陥落を想像して静かに笑みをこぼすのであった。