エゴだとしても 物音一つしない、丑三つ刻。今日は生憎の曇りで、本来ならば見えたであろう満月も今は姿を隠している。
そんな中を小さい鞄一つを抱えて、出来るだけ足音を立てないように廊下をゆっくりと歩く。部屋から出て少し進んだところに、『風通しのためだ』と開けてもらっていた雨戸が見える。そこに辿り着いては息を潜めて辺りを見渡し、誰もいないことを念入りに確認した。
――見つかるわけにはいかない。
緊張感から息をすることすら忘れて、確認出来たと同時に人が通れる程だった雨戸から庭へと下りた。素足のまま下りたものだから、庭に転がる小石たちが『自分はここだ』と存在を主張してくる。痛みを伴うそれを無視しながら、歩く速度はどんどん早まっていき、前へ前へと足を出す。終にはとうとう走り出して、目指す先は本丸の門だ。春には桜の花弁を浮かべた池の横を通り、近くに向日葵が咲いていた畑を横切り、可愛い色だと埋めたチョコレートコスモスの花壇を越え、冬には雪の帽子を被っていた椿の垣根を抜ければ、辿り着いたのは目的地。しんと静まり返る中に佇むそれは、私の最後の覚悟を問うているように思えた。
目的地に着いたことで、ようやく息することを思い出したらしい身体は、いつも以上に酸素を求めているのか息苦しさが酷い。けれど、ここで立ち止まってしまっては、この時間に行動を起こした意味がない。ズキズキと痛む血の滲んだ足を進め、本丸の門に触れる。
「これで最後なんだ。このまま、みんなを守ってね」
そう言えば、反応するように少し冷えた風が吹き抜ける。それに満足して、門を開けて潜ろうとした。
「主、何してるの?」
がっしりとした大きな手に掴まれた私の腕は、そこで縫い止められてしまったかのように動かない。見上げた先には、前髪できちんと表情は見えないけれど、怒っているだろう桑名がそこにいた。
「……何も」
「そんなにも足怪我して、『何も無い』なんてわけないよねぇ?」
上からかかる言葉の圧が重い。
――なんて言い逃れよう。
そんなことを考えたところで、焦っている頭が正常に回るわけもない。何も言葉を発せないまま、顔を伏せるしかなかった。
「主、もしかしてこれのせい?」
桑名の言葉に顔を向ければ、桑名の手にあるのは深い黒の封筒。何かを思うより先に封筒を取ろうと手が出た。普段、戦に出ている男士に叶うはずなどないとわかっていながら――。
「何で、それが桑名の手に……」
「そう……やっぱりかぁ……」
その言葉に、中を見たのだと確信する。隠せていたと思っていたのに、それが叶わなかったのだとわかってしまった。悲しそうな顔をする桑名に、私が行動を起こした理由を知ってしまった桑名に、もう何も隠せない。
「みんなを守るためなんだよ」
「うん。見たよ」
「だから、黙って行かせて」
「……そんなん、許せると思う?」
桑名の声が固く、低く響く。普段、柔らかな声を聞いたことしかなかったから、『まさかこんなにも怒らせるなんて』と驚きを隠せない。
「主は、僕の大事な人なのに」
ちらりと覗いた黄色の瞳は、射抜くようにこちらを向いていて目を逸らせなかった。本当はわかっていたのだ。桑名の気持ちも、自分自身の気持ちも。それでも――。
「そう言ってくれるのは嬉しいよ。だって、私も桑名が大事だから」
「それじゃあ……」
「だからこそ、私は行かなきゃいけないの」
私の真剣な眼差しに、桑名は唇を噛み締める。きっと桑名は、出来ることが無いのだと悟ったから。
黒の封筒は、時の政府の更に奥にある機関からの知らせだった。私の霊力が弱くなってきたことから出された提案だ。時の政府が研究している、霊力に関しての実験に協力すること。それに協力すれば、私は政府に囚われるけれど本丸は継続出来る。断れば、私は審神者を引退、本丸も解体されて刀たちは刀解されるという知らせだった。
――迷うことなんてない。
私の大切な男士たち。彼らを消してしまうくらいなら、自由なんていらない。政府のモルモットになっても構わないのだ。
けれど、きっと男士たちはそんな私の考えを認めないだろう。今の目の前の桑名のように怒ったかもしれない。だからこそ、こうして深夜に行動した。
――何も言わずに去れば、諦めてくれるかもしれない。
そう思ったからだ。けれど桑名にはバレてしまって、更には私を引き止めてくれた。『審神者を最後まで務める』という第三の選択肢を与えてくれた。本当は、目の奥に熱さが滲んでくるほど嬉しかったのだ。
でも、今回は私自身のことであり、私もわかっている。私が審神者を務められる期間など、もってあと数日だということも。
「引き止めてくれてありがとう、桑名。嬉しかったよ」
「主と最後まで一緒にいるのが僕たちじゃ……僕じゃ駄目なん……?」
ぎゅっと握られた腕は、桑名の温かい熱が伝わってくる。『私も一緒にいたい』と、『一人にしないで』と言いたい。『駄目なわけがない』と叫んでしまいたい。けれど、私が望むのは大事なあなたが生きる道だから。
「ごめんね」
初めてしたキスは、優しくて、熱くて、少ししょっぱい味がした。いつの間にか姿を見せた満月は、柔らかな光で私たちを照らす。桑名の腕が緩んだのを見て、ドンと桑名を突き飛ばした。
「主」
伸ばされた手は光の向こうへ消える。満月と同じ、黄色の瞳と共に。
今、私の目の前にあるのは月明かりに照らされた森だけだ。先程までいた本丸は、夢だったのではないかと思うほどに跡形も無い。
「あ……」
ふと鞄を見れば、チョコレートコスモスが一輪、金具に引っかかっていた。もう、本丸には帰れない。けれどそれが、私が過ごした本丸は夢ではなかったことを教えてくれる。
「……さようなら」
私が好きだった桑名には会えない。でも、あなたが本丸でこれからも生きていてくれるならそれでいい。輝く月を見上れば、頬を涙が伝った。