とある彼女の話 彼女は辟易していた。それは、通学している大学で悩んでいるだとか、周囲の人間関係のせいではない。
近頃、彼女の身の周りでは、おかしなことが続いていた。例えば、家にいる時。カタンと何かが音を立てたり、家の中なのにヒールのような高い音が鳴ったり。果ては家の中に限らず、何かにじっと見られているような――視線を感じて辺りを見渡したのも、一度や二度ではなかった。
「それ、何かいるんじゃないの?」
休講になった時間を友人と過ごしていた彼女は、溜まっていたものを吐き出すように友人に話した。そうして返ってきた言葉がそれだったわけだが、何分彼女は認めたくはなかった。彼女の実家は地方だった為、今は大学近くの部屋で一人暮らし。そう言ったこともあり、実物が無いにしろ、『何かがいるかもしれない』ということが耐えられそうに無かったからだ。
「やだ、止めてよ……そんなのいないって」
「あれ?幽霊怖い人?」
「……そんなことは無いけど」
精一杯強がるけれど、友人にはお見通しなようで。『あんまり怖いようなら、泊まりに行くから呼んで』と言われてしまい、苦笑いを浮かべる。普段なら、『そんなの大丈夫』と返すような彼女も、この時ばかりは少なからず心強さを感じていた。
「ね、何の話?」
「加州くん!」
彼女の前に座る友人の表情が輝く。話しているところへ来たのは、同期の加州清光。顔も良く、優しさも持ち合わせている。更に美意識も高いということから、女子の間では人気な男子だった。
「この子の家ね、幽霊が出るんだって!」
「幽霊って決まったわけじゃないよ⁉」
「いや、どう考えても幽霊でしょ」
「へー、幽霊かぁ…」
何とも言えない反応を返す加州に、何てことを言ったんだと目の前の友人を恨めしそうに見つめる。けれど、次の返答はきっと彼女も想像していなかったことだろう。
「何かあったら呼んで。助けに行くから」
「う……うん。ありがとう」
「えー!良いなー」
まさか、『呼んで』と言われるとは思ってなどいなかった彼女は、ただただ面食らう。前で騒ぐ友人の反応もそこそこに、社交辞令だとしても、そう言ってくれるところが女子に人気なのかもしれないと納得せざるを得ない。その後、連絡先まで貰った彼女は、最近辟易とした気持ちを少し忘れるくらいには浮上していた。だがしかし、喜んだのも束の間であった。
その数日後、彼女の身体には異変が起きていた。日毎に増す倦怠感やだるさ。更には薄っすらと、何を話しているのかはわからないけれど、声が聞こえてくるようになった。それは、子供のような声のときもあれば、しゃがれた男性のような声。またはおばあさんだったりと様々で。以前から続いていた視線や音に加えて、その声のこともあり、彼女は精神的にも参っていた。遠慮も少なからずあったのだろう。仲が良いとはまだ言えなかった加州には、『助けに行く』と言われたものの、連絡はずっと出来ず仕舞いになっていた。
「今日は帰りな?顔、真っ青だよ」
「……うん、そうする」
誰かが周りで話しているわけではないのに。ひそひそと聞こえてくる声から逃げるように、大学を出て帰路につく。
家に帰り、向かったのは洗面所。
――きっと酷い顔をしているだろうな。
そう思った彼女は、顔を洗おうと思ったのだ。水を出し、一回、二回と顔を洗う。少しさっぱりした気がしながら、蛇口を閉めて顔を拭く。そして鏡を見た。今、鏡に映っていたのは自分だけ。おかしいところなど、何もなかった。なのに彼女は思ったのだ。
“何かいる”と。
思わず後ずさった彼女は、背を向けて早く洗面所から出ようとした。けれど、彼女の背後から聞こえたのは、キュッと高く鳴った蛇口を捻る音と、勢いよく流れる水の音。振り返れば、確かに水が流れている。
「え⁉何で……止めたはずでしょ……⁉」
彼女は動揺して、尻餅をつく。水を止めることすら出来ない。先程感じたのは、気のせいではないのだ。
――きっとここに何かいる。
そう思うと怖くて、自然と涙が出てきた。それに続いてあちこちでバタンバタンと音が鳴り、更にはバスン、ザクリと何かが斬れ、突き刺さる音もする。もう、何が起きているのかわからない。
――どうすればいいの……
パニックになりながらも脳裏に過ぎったのは、連絡先を交換した彼だった。彼は、来てくれるだろうか。恐る恐るケータイを見れば、何故か電波はなく圏外。有り得ないことが続き、もう震えるしかない。
「どうして……⁉誰か……!」
ピンポーン――
藁にもすがる思いでいた彼女の耳に届いたのは、インターホンの音。しかもよくよく耳をすませば、一方的に聞き慣れた声が聞こえてくるではないか。
「ねェ、大丈夫⁉無事⁉入ッてモ良イ⁉」
声はあろうことか、電話をしようとして断念した加州のようだった。どこか、歪さが感じられるのに、この時の彼女の容量は限界を超えていて、気付く余地がなかった。だからこそ言ったのだ。
「入って早く」
入って来た彼は、加州清光で。見知った顔に安心した彼女は、力の入らない足を引きずって加州に近付く。
「怖カったでしョ。遅くナっテゴめんね」
「ううん……清光が来てくれたから……」
そこで彼女は思い出す。以前も、こうして彼が助けに来てくれたことを。それは、今の世ではなく、前の世。だからこそ、口を突いて出てきたのだ。今の世で呼ぶはずのなかった名前、“清光”と。
「無事デ良かッタよ」
「……清光?」
「うン?どうカした?」
「私の……清光」
「はは……!うん、そう。俺が、あんたの“加州清光”。迎えに来たよ」
前の世ならば気付いたであろう歪さも、今の世は普通の娘だった彼女。彼女が認めれば認めるほどに、目の前の“加州”の歪さは、徐々に徐々に無くなっていった。“加州”がニヤリと笑ったのにも気付かず、彼女は差し出された手を取った。その時にはもう、鳴っていた音も、水も、何もかもが止んでいた。
その後、彼女がどうなったか?彼女の行方は知れず、周りの皆もその存在を忘れた。
一人見守り、奮闘した赤い鞘の彼は――
助けられなかったことを、嘆いていたそうな。