その魂に恋をした「私にとって、主殿は最も大切な存在だ。だから生涯、主殿が呼んでくれればどこへでも駆けつけよう」
「趙雲さん……私も言いたいことがあります」
「たとえこの命が尽きたとしても……来世でまた趙雲さんと出会いたいです!」
乱世では、守りたい者がいれば強くなれると言う者もいれば、却って弱みになると言う者もいる。
趙雲にとって清河の主は守りたい相手であった。
かといって清河卿はただ後ろで守られているような人物ではなく、肩を並べて敵を退ける戦友でもあったが。
互いに背中を預けて戦場に立つときの安心感と言ったら。
彼女の目的は天刑宗の企みを暴き、阻止する事。
利害の一致と、彼女が元来持つお人好しというか、何とかいうか……そんな因果で蜀に一応身を置いていた彼女だが、属国に囚われる事もなく呉にも魏に、魏は言い過ぎだろうか。ともかく敵地だろうが何だろうが、一度友になった相手とは立場を超えて親しくしていたように思える。勿論戦場での手加減はしないが、殺すのを躊躇う所は彼女らしかった。
そんな長たらしい前口上はどうだっていい。
とにかく趙雲が言いたいのは、彼にとって清河卿はかけがえのない存在だったという事だ。
……多分、清河卿も、自分を大切に想ってくれていた。
幾度か、夜を共にした事があった。
共にしたと言えば語弊があるかもしれない。ただ同じ布団で横になっただけの事でやましいことは何一つとして無かったが、朝になると諸葛亮殿のみならず劉備殿にまで生暖かい目で見られていたが、本当に何も無かった。
「清河卿?どうした、こんな夜更けに」
「……ねむ、れなくて」
薄手の羽織を両手で力なく掴んで暖をとっている横顔は憂いを帯びていて、近頃は様々な事が起こりすぎてよく眠れていないのだと話す姿は痛々しい。冗談のつもりで「眠れるまで、私が隣で話していようか」と口にすれば清河卿は一も二もなく頷くものだから、逆に此方が腹を括る事になり。
「……清河卿?」
「ん……」
誰かにこの状況を見られて誤解される前に清河卿の寝所を出ていこうと考えていた趙雲だったが、何とか眠れたらしい様子の清河卿に服を掴まれていて、それを振りほどけるかと言われたら到底無理な話だ。結局朝になって生暖かい眼差しを注がれる中、いたたまれない気持ちで「何も無かったから邪推はやめてくれ……」と申告する趙雲の横で清河卿はきょとんとしたまま座っていて、「よく眠れました!こんなに安心して眠れたのは久々です、」と図らずして何も無かった事を裏付けてくれたような。
二度、三度と清河卿に頼まれて共寝を繰り返していたある日、それがふつりと途切れた。よく眠れるようになったんだろうかと安堵すると同時に喪失感も覚えていたが、その数日後に清河卿は軍会議を終えたのち、他の武将たちが退出していく中おどおどと趙雲の方に近付いて来るではないか。普段とは対照的に伏し目がちになった清河卿は言い辛そうに口を何度か開けては閉じてを繰り返した後、ぎゅっと趙雲の服の裾を掴んだ。
「趙雲さん、その、今日の夜。良いですか……」
誘い方が誘い方だった為に動揺のあまり「は!?」と素で叫びそうになった趙雲だが、入口付近でにやにやと笑っている張星辰や関銀屏の姿を見つけて全てを理解する。おそらく共寝の事を友人たちに揶揄われてここ数日は言い出しにくかったのだろう。承諾しながら笑いが零れてしまった趙雲に、清河卿は珍しく頬を赤く染めていたものだった。年頃の少女らしい一面を自分にも見せてくれたことが嬉しかった。
その晩は色々な事を話した。清河卿の出自から師匠のこと、趙雲の経歴、その他様々な事を。一番興味を惹かれたのは清河卿が声を潜めて話してくれた秘密の事だった。それこそ張星辰くらいにしかまだ話していないような事だという。
「──私、違う世界から来たんです。信じてもらえないかもしれないんですけど、でも確かに私は……」
懐かしむように目を閉じるなり寝てしまった清河卿の言葉を反芻して、趙雲はぼんやりと考えた。清河卿が話す「違う世界」とやらの事を。其処には動く乗り物があって、食べ物を冷やして保存できるもの、離れていても言葉を届けられるもの、文明というものが何をどうしたら其処まで発展するのか皆目見当もつかないような事ばかり。だとすれば、清河卿はいつかその世界に帰ってしまうんだろうか。
他の武将であれば帰らなくとも良いだろうと説得するかもしれないし、留まってくれ、と懇願するのかもしれない。ただ趙雲は眠ってしまった清河卿の身体を自分の方に引き寄せて、一回り小さい身体に熱を移すように抱きしめてやる。自分はおそらく、帰らないで欲しいと願いながらも結局は送り出してしまうだろう。
引き留めたくない訳ではないが、無理に引き留める必要は無いとも思っている。
何故なら自分と清河卿は、来世での出会いを誓っているから。
文明の進化から見るに、清河卿のいた世界というのは遠い未来に違いない。ならば自分は其処へどれだけ長い時間をかけてでも辿り着いて見せるのみだ。呼ばれたら何処へでも駆け付けるという言葉の通り、清河卿の声に耳を傾けて。
そんな夜があった事を、趙雲は現在直面している状況からの現実逃避も兼ねて考えていた。
「趙雲さん、ですよね。私は清河です」
「……あ、」
「ええと、幼馴染の星辰たちから色々聞いているんですけど……「前」の記憶が私には無くて。でも、趙雲さんに凄くお世話になったって聞きました」
清河は、着ている服こそ違えど、まさしく前世で見た清河卿の姿に変わりなく。趙雲は呆然としていたが、清河の斜め後ろに立っている張星辰の訴えかけるようなまなざしを受けて息を吐いた。
「ああ、私と貴女は……そうだな、友だった。互いに信頼して背中を預け合えた、かけがえのないひとだ」
「えっそうだったんですか!?あはは、私の事みたいに嬉しいです」
「貴女の事だからな。おっと、もうすぐ予鈴が鳴るみたいだ」
「あっいけない!星辰、移動教室!……えっと趙雲さん、また!」
ああ、また。いつを指すのかも分からない曖昧な言葉を返して、趙雲も教室に戻るべく背を向けて歩き出す。記憶がない事を除けば何も変わっていない清河卿だ。……記憶をなくしてしまった、清河卿だ。
(「来世でまた、趙雲さんと──」)
「……清河卿、」
◇ ◇ ◇
「……貴女が十数年隣にいても、彼女は前世の記憶を思い出さなかったんだな」
「主さんは「皆覚えてるから、私も思い出したいな」って言うけど……色々ありすぎたじゃない。元々此方の世界に生きていたんだもの、無理やり思い出させる必要は無いと思って」
眠れないのだと、悲しそうに笑っていた清河卿の横顔を思い出す。
良いことばかりではなかったし、剣を握っていたという事を今の清河卿に思い出させる必要は無いのかもしれない。むしろ、思い出したら苦しい事の方が多くなるに違いない。
それでも、互いに想い合っていたという事を忘れられるのは、存外辛い事なのだと知った。
◇ ◇ ◇
「趙雲さん、私考えてみたんです。なんで趙雲さんが隣にいるとよく眠れるのか」
「星辰たちに揶揄われたのは、う……はい。確かに色々揶揄われましたけど、最初に私を見つけてくれた時から考えてたんですよ」
「……あれ、嬉しかったんです。「主殿が呼んでくれればどこへでも駆けつけよう」って」
「頼られる事は多いですけど、守ろうとしてくれる人はあんまりいませんし……他の誰でもない趙雲さんだから、嬉しかったのかもしれません」
「来世でまた趙雲さんと出会いたいっていうのは、私の本心です。嘘じゃないですよ?」
「あ、もう。信じてないって顔……趙雲さんって意外と意地悪なところありますよね」
虫の鳴き声一つ聞こえない、静かな夜の事だった。煌々と輝く月の欠片を拾い集めるように、清河卿の一言一言を胸に刻みつける。いつか傷になると分かっていてもなお忘れないように努めるのは、どうしてだろうか。
「……おやすみなさい、趙雲さん。また明日」
◇ ◇ ◇
「あれ、趙雲さん。大丈夫ですか?」
校舎裏のベンチに座ってぼんやりと空を仰いでいた時、ひょこっと校舎の影から姿を見せたのは清河卿──いや、清河だった。手には弁当箱が握られていて、今から昼食なのかと聞けば委員会のせいで今の今まで食べれず、その上移動教室前に教室に戻るのは面倒で此処に食べに来たらしい。ベンチの中央に座っていた為、趙雲は右に避けて清河の座る場所を空けてやる。
「……眠れてないんですか?」
「ん?」
「趙雲さんの目の下、薄っすらと隈になって……」
前世と立場が逆だな、と密かに笑いながら頷いた。眠れていないというよりも用が出来て夜更かししていただけなのだが、それを訂正することはない。そうだな、少しくらい距離を縮めたって咎める者はいないのだから──清河が嫌がらなければ、これくらいは許されるだろう。趙雲は目を瞑って、静かに清河の肩に頭を預けた。前世と異なり、大きく結われる事なく降ろされている清河の髪からはふわりと花の香りがする。
「少し肩を貸してくれ。貴女の傍にいると落ち着くから、よく眠れそうな気がするんだ」
◇ ◇ ◇
「私たちは……来世での出会いを誓った仲だ」
「もう貴女も子供ではないのだから、この言葉の意味は分かるだろう?」
「私が生涯をかけて守りたかった人は貴女だった。何をするにも、何処へ行くにも、視界には貴女の影が映ったんだ」
畳み掛けるような趙雲の言葉に脳の容量が限界らしい清河が「待って欲しいです、」と顔を真っ赤にしている。待つ。趙雲はもう、前世から数えれば十分待ったといえるだろう。清河卿自身に言われたように、どうも自分は貴女を前にすると少々意地の悪い所があるらしい。火照った顔を隠そうとする手のひらをゆっくりからめとれば、最早清河卿は満足に言葉も発せないようだった。
「私、でも、前世の趙雲さんのことちっとも覚えていないんですよ。趙雲さんの知っている「清河卿」じゃなくて、ただの清河なんです。趙雲さんに想ってもらえるような人じゃないと思うんです、」
そんなことで悩んでいたのか、とそれすらも愛おしい気持ちになる。記憶があるから好きだとか、記憶がないから好きじゃないだとか、もうそんな単純な話ではないのだ。ただ趙雲は目の前にいる、かつて清河卿と呼ばれ、今は清河という名をしたひとりの人間をずっと忘れられずに此処まで来たというだけの話。
「……貴女が覚えていようが覚えていまいが、もう一度巡り会えた事が嬉しいんだ」