昔を偲ぶ冷たい風が頬を撫でる。
手のひらで墓の上に積もった雪を下ろしていくと、すぐに寒さでかじかんでしまった指に息を吐きかけた。はーっ、と清河卿が温めてはまた雪を下ろし、また温めてを繰り返しているのを、星辰は手伝う訳でもなく一歩引いたところで見守っている。それは手伝わないというよりも、手伝えないという言葉選びの方がふさわしいように思えた。
雪を払い退けたことで墓石に刻まれた文字もはっきりと見えるようになる。彫りこまれた左慈の二文字をなぞれば様々な感傷が胸の奥からこみ上げて来て、それが口から漏れだしてしまわないようにと唇をかみしめた。
「……お久しぶりです、師匠」
前回の訪問から一年、いや、二年は経っているだろう。動乱の世で中々訪れる事の出来なかった墓地には左慈だけではなく兄弟子たちも埋葬されている。目を閉じれば今すぐにでも「会いに来るのが遅いぞ!」「会わないうちに随分とお偉い方向に成長したようだ」と冷やかすような声が飛んできそうなものだけれど、しんと静まり返った墓地からは自分が雪を踏みわける鋭い音以外聞こえてくる事は無かった。
【昔を偲ぶ】
雪が点々と積もる山道を登りながら、清河卿は当時のことに思いを馳せる。
左慈と兄弟子らの死体を何処に埋葬するか、は唯一の生き残りとなってしまった清河卿が決めることになった。
頂上に座する雲蒙観から離れすぎるのは何となく嫌で、かといって雲蒙観のすぐ傍に作るのも違う気がして、結局宗派の共同墓地は木々の隙間を縫うようにして山の中腹に作られたのである。
其処は奇しくも、清河卿が兄弟子である梁を手にかけた洞窟からほど近い所にあった。だから遺体の運搬と埋葬にもさほど時間はかからなかった記憶がある。順番こそ前後するが葬儀は共に清河郡まで来てくれた水鏡と二人で行った。
「うわあ、酷いわね。冬風で壊れかけていた板がほとんど吹き飛ばされているじゃない」
「そうだね。流石にそろそろ、瓦礫の撤去くらいは手配しないといけないかな……」
墓場で一通りの挨拶を済ませた清河卿と星辰は、天刑宗の襲撃によって崩れ落ちた雲蒙観まで足を運んできている。忙しく時間が無かったのと、真っすぐ向き合いたく無かったのと。二つの理由から数年間訪問を避けていたかつての寺は見る影もなく、野ざらしの廃墟だけが後に残っていた。
兄弟子たちと夜に寺から抜け出した時の低い壁は端の方から崩れ、修行の成果を見せ合おうと切磋琢磨した中庭は、風と雨に押し流されてきた砂や塵でぐちゃぐちゃになっている。左慈の部屋があった場所は襖が壊れて開け放しになっていた。清河卿は幼いころの記憶とは似ても似つかない雲蒙観を緩慢な動きで回っていく。
一つ一つの部屋から左慈や兄弟子たちの声が蘇るような、そんな錯覚を覚えた。
空っぽで朽ち果てた左慈の部屋に一歩足を踏み入れる時に、ぼんやりとしていたせいで入室の挨拶を忘れていた事に気付く。ここに左慈がいれば「どんな時でも道義を尽くさなければならない」と説教をされていたかもしれないが、広がるのはただ寂しいだけの静寂だ。
「師匠……」
清河卿の声が微かに震えた事に気付いたのか、隣をついてきていた星辰が気遣うように問いかけて来る。
「修復はしないの?」
「うーん……今はまだ、瓦礫の除去だけでいいかな」
師匠なら、と思う。左慈であればこの寺を戦火の影響が及ぶ前の状態まで修復する事をためらいもしない筈だが、あいにく残されたのは清河卿だ。修理をするかどうかも清河卿の気持ちのありように左右される。清河卿は暫くの間修理をしない事にした。これ以上人の手が加わって大きく姿を変えた雲蒙観を見ようものなら、大切な場所に二度と帰る事ができないような心地になってしまう。それに、
「好ましくない結果でこうなってしまったのだとしても、過去の事ばかりに囚われてはいけないよって。師匠ならそう言ってくれる筈だから」
「ふうん、そういうものなのね」
「そういうものだよ」
それに、最早過去になってしまったこの雲蒙観の整備に時間をとられているようでは、いつになったら世を平和にするのだと咎められてしまいそうだ。与えられ、まもられ、傷付けあった命の使い道がしょうもないことになってしまえばそれこそ顔向けできない。
生き延びるんだぞ、という兄弟子の声。
子供の頃にしてくれたように頭を撫でて来れる左慈の大きな手のひら。
大丈夫、大切なことはこの胸の中にちゃんとある。
伏し目がちに笑みを零せば、隣にいる星辰にも少しだけ笑顔が戻った。
「……寂しい時はお姉さんに言いなさい!」
「痛っ!?」
「美味しいお店に連れて行ってあげる」
この雑に背を叩く励まし方を、何だかんだ心地良いと思う自分がいる。
「それは嬉しいな」
「お金は主さんもちで、他の人も誘っちゃいましょう」
「私もち!? ねえ星辰、そこは提案者がお金を持つべきじゃ~……」
二人は雲蒙観に背を向けて来た道を下っていく。途中、後ろ髪を引かれるような思いで一度だけ振り返りかけた清河卿を窘めるように穏やかな風が吹き、結い上げた髪の先を揺らした。
(「……師匠、兄弟子。私はこの世をきっと、平和に導いてみせるよ」)
切なげにふ、と笑みを零す。
「主さ~ん、はやくはやく!」
「っ今行くよ!」
そうして今度こそ振り返ることなく、清河卿は数歩先を行く星辰の元へと駆け下りて行った。