愛が呼ぶほうへ級硬貨争奪の一件後、七魔牙は実質解散となった。とはいえレアン寮の監督生を含む彼らが魔力的にも事実上の寮の実力者であることは変わらなかった。しかし以前よりは落ちた地位やそれまで少なからず買ってしまった恨みに旧七魔牙周辺を嗅ぎ周り良からぬことを企む輩は増えた。アベルからすれば気に留めるほどではない矮小な存在ではあったが野放しにしておくわけにはいかず、今回もまた数日間感じていた怪しい気配の元を突き止め、その処遇をどうするかといった状況であった。
「アベル様、私が」
「君が手を下すことはないよ」
「しかし、」
「こんなことに君の手を汚す必要はない。こちらで手を回しておくから」
少しの沈黙があった。
「……もう私は不要ですか」
僅かな違和感にはたとアビスの方を見やると不安げにその瞳の奥が揺れていた。
「そうじゃない。以前とは違う、もう君だけが一人で背負わなくて良いんだ」
「でも……」
「アビス」
様子のおかしいアビスを訝しむ。
じわりと焦燥の滲む表情に何か思い詰めてしまったのだろうと思い至る。
「何が不安?」
「……、あの」
躊躇う様子にああ、となんとなくアビスの状態を察した。いつかもこのようなことがあったからだ。あえて以前の、主従じみた関係を結んでいた頃のように少し語気を強くして発する。きっといまのアビスにはそのほうが良さそうだった。
「話して」
その目に少しだけ強さが戻った。先ほどまで躊躇っていたアビスはようやく口を開く。
「……アベル様の元で何もせずいることが落ち着かないのです。アベル様のお側にいられることはこの身にとって何よりの幸福です。しかし役目も与えられずこの場にいるだけの権利が私にはあるのかと、ただアベル様のお隣にいるだけでいいとは思えず……」
アビスは何か役目を与えられないと不安なのだと言う。何も為さない自分そのものには存在価値を見出せないと。イヴル・アイを持ち、実の両親からも忌み嫌われ監禁されていたアビスはその身を差し出し何かを為してこそようやく自身が必要とされることに納得がいくようだった。
アビスとは級硬貨争奪の一件の後、恋人となった。身を呈してアベルを庇ったアビスをはじめは理解することができなかった。しかしマッシュ・バーンデッドの言葉でアビスがずっと抱いていた思いの一端を知り、そして何より腕の中で冷えていくアビスの体温にこのまま彼を失いたくないと思った。そうして気づいた自身の感情にアベルはアビスの回復後真っ先に思いを伝え、またアビスがそれまで抱えていた心情を受け止めた。以前とは異なる関係となっても僕達は変わらず互いの隣にいる。
ただアビスにとってはアベルこそが初めて我が身を必要としてくれた存在であり、そしてそれはあくまでもイヴル・アイを携える『道具』として受けた価値であった。アビスにとってはそれでも余りある待遇であり、マッシュの言葉通り何よりも喜ばしかったことは本人の口からも聞いていたがその主従関係を解消して対等となったことが彼にとっては次第に不安要素として積もっていったようだった。
難儀だなと思う。
関係が変わってもなおいまだにアビスはただ何者でもない自分には価値がないと思っている。そればかりか虐げられきた経験から何もなしに愛されてはいけないとまで刷り込まれてしまっている。その原因となったイヴル・アイですら無償の愛を受けるよりはその目を利用するという名目があった方がアビスにとっては納得がいくようだった。アビス本人が誰よりもその目を厭っているにも関わらずだ。
幼少期にアビス自身によって閉じ込められたアビスの本当の心は愛してほしいとこんなにも叫んでいるのに、奥深くまで押し込められて今の本人には自覚がない。心を閉じ込めたことはアビスが孤独な幼少期を堪え生き抜くためにはきっと必要なことだったのだとは思う。しかし、だ。馬鹿らしく腹正しい。アビスが、ではない。アビスがこうなるまで彼を虐げてきた人間が、環境がだ。たとえそれが彼の両親だったとしても。そしてアビスに『道具』としての価値を与えてしまったアベル自身もその一端を担っていることは自覚していた。
つまるところアビスはいまだに役目や仕事を与えられ、それをこなした褒美としてしか認められてはいけないと無意識に考えてしまう。何もせずアベルに必要とされる、ただ隣にいる、それだけで彼は少しずつ不安を募らせてしまうようだった。
どうしたら、と思う。考えたところで答えはでない。早急な解決は難しいことをこの数ヶ月恋人として隣に立ち、いまに似た状態になったアビスを見て感じていた。それでも何者でもないアビスをただ愛し、伝え続けることしかアベルには方法がない。
「僕はね、その目がなくても、振るう剣がなくても君を必要としてるし、ただひとりの人間として君が好きだよアビス」
ただ愛されて良いこと。
きっと両親から与えられるべきだった無償の愛というものをついぞ与えられなかったアビスにとって存在を知らぬそれを享受することは難しいのだと思う。頭の良いアビスは「理解しよう」としてしまうから余計に。愛することはできるのに、愛を自分が受け取ることにあまりにも不慣れだ。
「最初に僕がその目に利用価値を見出し道具としての役目を与えたのは事実だ。だからその道具としての価値を君から剥奪したいま君が不安になるのも当然かもしれないが、僕達の関係も以前とは違う。たとえ今アビスの目が普通の人間と同じに戻ったとしても僕は君を捨てたりなだしないし、むしろ君が厭うそんな目はなくなればいいとすら思う」
アビスの瞳が僅かに揺れる。
「イヴル・アイを持つアビスを、僕に忠実な剣としてのアビスを僕は好いているのではなく、アビスただ君だから僕は隣にいてほしいと思ってる」
長い長い孤独の中で構築されてしまったアビスの心の奥底に今この想いが全て届くことはきっと難しい。アビスが受け入れきれない想いを繰り返し伝えることは優しい彼にとっては苦痛が伴うことだろう。きっと優しいアビスは受け取りたいと思っているから。それでも今はただアベル自身の心のままに伝えたいと思った。
「分かるかい」
「そう思ってくださる気持ちを、分かりたいとは思います……」
「今はそれで構わない」
少しの沈黙の後、アビスは目を伏せたまま静かに口を開いた。
「アベル様からいただく愛、をそのままに受け取れてないのは私自身わかっているんです。アベル様に悲しそうなお顔をさせてるのは自分であることも……」
そうだろうなと思う。アビスは聡明で他人の心の機微にだって敏感だ。何よりずっとアベルの側にいたアビスがアベルの感情の揺れに気づかないわけはないのだ。
「そんなに難しく考えなくていい。アビスの心の思うままでいいし、君はもう少し我儘になるべきだ」
焦りと、敬愛する人からの気持ちを真っ直ぐに受け取れない己への怒りや哀しみに迷子の子供のような顔をしたアビスの手をそっと取る。すっかり冷えてしまっている指先に体温を移すように握った。それに、と続ける。
「僕の恋人であるというだけで充分な役目だと思うけれど」
「烏滸がましいです……」
「ほらまたそうやって君は謙遜する」
「っすみません、」
「ふふ、まあいいさ。多少僕も慣れてしまった。それに僕はそんなアビスも愛しく思っているよ」
そんな、と顔を赤くするアビスの纏う空気は先ほどより少しだけ柔らかくなっていた。アビスだって必死にもがいているのだ。それはアベルもよくわかっている。焦らなくてもいい、時間はこれからいくらでもある。
「時間をかけてわかるようになればいいさ。僕はこれからもずっと君を手放す気はないからね」
そう告げるとわかりやすく動揺したアビスに思わず笑みが溢れる。遠回りをして手に入れた関係をみすみす手放す気などなかった。いつかきっとこんな不器用に想い合ってたことを二人で笑える日がくればいい。アベルは握った手を引き寄せてそっとアビスを抱き寄せた。