undercurrent血に濡れた白いローブを纏いしかしその赤を気にするよしもなく誇らしげに級硬貨を差し出したアビスの姿に、僕は彼の性格をも変えてしまってるのではないかと思った。ローブを染める鮮血が彼のものなのかはたまた差し出された級硬貨の元の主のものなのかはわからない。けれどこの学園の中でただすんなりと級硬貨を渡す者などいるわけがない。少なくともアビスが級硬貨の持ち主とどちらかが傷つくまで刃を交えたことは確かだった。それを命じたのは他ならぬアベル自身で、そもそも僕の命令がなければアビスはみずから他者を傷つけることなどきっとないのだろう。
嫌ではないのかと、ある時思わず声にした。忌み嫌われるその目に価値を与えるとアビスを自分の道具にしておいて、その張本人が口にしていい疑問ではないと思う。しかしそう思った時にはもう口からこぼれた言葉はアビスの耳に届いていた。
「私は、誰かの役に立ったことがありません。生きているだけで疎まれる、そんな存在です。だから、私を必要としてくださるなら私は」
なんだってする──
そう告げたアビスの目は強い光を宿してアベルを見つめていてその真っ直ぐさが少しだけ怖かった。けれど目的のためにアベルだって止まることはできない。幸運にもこの手の内にした優秀な人形をみすみす手放すわけにはいかない。利用できるものは利用する、自分自身のために。母を奪ったこの世界で信用できるものは、信じるものはもう己が定めた目的だけでそのために手段を選んではいられない。そんなアベルにとってただ疑うこともなく命令を忠実に遂行するアビスは願ってもないほどの存在であるのに彼に感じてしまうこの僅かな畏怖はなんなのだろう。 アベルはその引っ掛かりを無視するようにアビスに次の命を与えた。
己が持てるすべてを、いやその範疇をも超え犯罪組織を手を組むという禁忌にまで手を出して得た力で挑みアベルは敗北した。母を亡くした絶望の日から今日まで信じてきたことをあっけなく崩壊させられそんな我が身に残ったものはなんなのか。考えたってもう何もなかった。これまでの全てが間違っていたのだとわざわざ理解しようとするまでもなく物理ですべてを破壊され再び立ち上がる気力さえなかった。望んだ世界が叶わないのならもうこの世で生きる意味などない。己が間違っていたと言うのならばアベル・ウォーカーというこの存在は不要なのだろう。全部、全部、もうどうでもよかった。セルが向けた刃を受け入れれば全て終わる。それでいい。そう、思ったのに。一瞬ののち全てが終わると思ったその一瞬、は一向にこなかった。目をあければ視界に広がったのはよく知る青、そしてそれは赤に染まって崩れ落ちるように沈んだ。反射的に手を伸ばせば脱力した体は重くアベルの腕を道連れに地に臥した。
「アビス」
アベルが受けるはずだった刃をその身に受けてアビスはそれでも笑った。
いま自身が直面している死すら置き去りにしてアベルに逃げろと告げる。その顔はどこか嬉しげで、アベルの前に奪いとった級硬貨を差し出した時と同じ。こんな場面でどうして、と思いながらもこれはきっとアベルが彼をそうさせてしまったのだと悟った。いつしかのアビスから感じた真っ直ぐな視線は信頼や崇拝、そしてそれらはアベルが目を瞑っているうちにどんどん膨れ上がっていた。気づいていなかったわけではない。見て見ぬふりをしていた。あのとき感じた僅かな畏れはきっといま目の前で血濡れになっているアビスのこうなる未来だったのだ。今更気づいたって、後悔したってもう遅い。
ただの道具だと思っていた。目的を遂行するための手足でしかないと。でも違った。アベルが自分自身にそう言い聞かせていただけで、本当は。いつしか愛着が湧いていた、どこかで大切に思っていた。アビスだけではない、七魔牙という場所をそれを構成する者たちを。母を殺した世界を全部諦めたふりをして自分自身が諦めきれていなかった。人という存在を、人が持つ情や暖かさを。こんなことになってから気づいて、これではあの時無力だった幼い自分よりも愚かだ。
「……アビス」
抱いた肩に力を込めた。アビスをこの世に繋ぎ止めるように。咳き込むアビスの口からは鮮血が溢れだす。その血がアベルのローブを汚すことすらもう気にする余裕などないほどにアビスの意識は朧げだった。染まる赤に幼き日の記憶がフラッシュバックする。恐怖が体を駆け巡って逃げ出したくなる。でもいま逃げ出してしまえば、また自分は大切なものを失う。それだけはごめんだった。つい数秒前まで全てを投げ出していた己の中に再び意志が灯された。マッシュから渡された小さなハンカチにすら縋るようにその手に力を込める。どうか、どうかもう何も僕から奪わないで。
願うだけは何も成し遂げられない。せっかく得た力を持て余してただ結果を待つだけなんてそれこそ幼子のすることだ。セルに立ち向かうマッシュの姿に幾分思考がクリアになった。弱者にだって、弱者だからこそ強者に抗うべきだと。残った魔力の残滓をかき集めてハームパペットに込める。つい先ほどアベルを打ち負かしたマッシュの、彼の力を活かす方法は思考を反転させれば容易い。アベルが魔法を発動させればマッシュはアベルの意図を汲んでその拳をセルに振るった。
「よかった」
病院で目覚めたアビスは開口一番そう言った。
あれから、その場をマッシュ達に任せアビスを病院に運んだ。アベルがいたって何もできやしないのにそれでもアビスの近くを離れることはできなかった。
「これからも私を使ってください」
アベルの顔を見て安心したように笑ってそう続けたアビスになんと返していいかわからなかった。アビスが目覚めたら話したいことはたくさんあったはずなのにこんな目に遭ってもなおアビスはまだアベルのためにその身を捧げようとする。その体で直面したばかりの死すら恐れない彼がまた少しこわかった。
「……死んでしまうかと思った」
「私が必ずお守りします」
「ちがう。アビス、お前がだよ」
噛み合わぬ会話と未だ自身を顧みることのないアビスにアベルの声には悲痛な響きが混ざった。
「アベル様?」
きょとんとした表情のアビスはアベルの心情を推し量れない様子でそれでも心配するようにアベルの名を呼ぶ。アビスがまた遠くにいってしまいそうでその畏れから思わずアビスの手を取った。
「僕が間違っていた」
「アベル様が間違うことなど……!」
反射的に否定の声を上げたアビスにアベルは首を振る。
「聞いて、アビス」
何から話せばいいのだろう。どうやって話せば伝わるのだろう。僕のせいで変わってしまった彼に今更僕の言葉は届くのだろう。
「きっと僕が、お前を変えてしまった」
アベルの言葉を受けてアビスは少し考える素振りをしてそしてゆっくりと口を開いた。
「それは、間違いではないかもしれません」
めずらしく否定されることなく静かに返ってきたその言葉にああ、そうなのかとアベルはまた悔いた。
「あなたに見い出していただくまでの私と今の私ではきっと違う」
「僕のせいで変わっていく君が少しこわかった。何の躊躇もなく剣を振るう君を、赤く染まる君を、何がこわいのかもわからないまま……でもあの時、僕を庇ったアビスを見て僕はこれを畏れていたんだって」
アベルが握ったままのアビスの手が掌の中で僅かに震えた。
「ごめんなさい」
「ううん」
アベルの感傷を感じ取ったようにアビスは謝罪の言葉を口にした。アビスは悪くない。彼にアベルが与えてしまった役割こそがアビスを変えてしまった元凶なのだから。
「でも」
思い耽るアベルにアビスが声を発した。
「あの日、あなたに出逢うまでの私はただ死んでないだけ。そんな私は本当に生きていると言えるのか自分でもよくわからなかった。誰にも望まれないのになんで生かされているのか、でも死ぬ勇気もなくて。そんな私に意志を持たせてくれたのはアベル様でしたから」
アビスの目が真っ直ぐにこちらを向いている。彼がそう言ってくれるほどのことをアベルはしていない。ただアベルの目的のための道具、それだけだった。だからアベルを気遣ったその言葉に偽りがないとしてもアビスの想いがどこか苦しい。
「いまの私をアベル様が望まないのならばいくらでもあなたが望むように善処します。あなたに必要としていただけるのならそれで」
「違う、違うんだ。そんなことしてほしいわけじゃない」
アビスを都合の良い人形としたのはアベルなのにアビスが今でもなお自らをそう扱うことが嫌だった。
「アベル様……」
「いや、すまない。自分勝手でごめん」
アビスは首を振った。
「私、どうすればあなたの……まだあなたのお側にいられますか」
「……こんな目に遭ったのにまだ僕の側にいたいと思うの」
握っていた手を解いてアベルは慎重に彼の腹に触れる。厚い包帯の下の傷は縫われたばかりできっと少なからず痛みもあるのだろう。するとアビスはアベルの手に自分のものを重ねてぐっと力を込めた。
「はい。あなたの隣を誰にも渡したくない」
「お前は僕に道具として都合よく利用されていたんだ」
あえて突き放すようにアベルは言った。だって実際に事実としてそうじゃないか。アビスには何の利点もない。彼の孤独につけ込んで悪魔の目を利用して、しまいにはアベルの意志でないにしても身代わりにまでさせた。悔いる気持ちだけがアベルを責める。
「私のことを道具だと思っているならどうしてあなたは私を心配してくださるのですか」
アベルの言葉に動揺することもなくアビスは穏やかにそう聞いた。
「それは……」
「アベル様は優しい。あなたがご自分で思っている以上に。私はアベル様だからこの剣を振るうことも、この身を捧げることも、なんだってしたいんです」
何も言葉を紡げないアベルにアビスは微笑みを浮かべて続けた。
「ただアベル様が見出してくださった、それだけじゃありません。あなたのお側であなたを見てきた。その上で私はアベル様のために生きたい。その結果が盲目だと言われても構いません」
アベルが懸念していたことを察していたかのようにアビスは続ける。そう言われてしまえばアビスのことを侮っていたようでアベルのなかにはまた異なる罪悪感が生まれる。
「アベル様が私を変えたとしても私は以前に戻りたいとは思わない。これはいま間違いなく私の意志です」
あの時と同じ真っ直ぐな目がアベルを見ていた。あの頃逃げていたその視線から今は逃げてはいけない気がした。
「僕は君を、アビスを失うのがこわい」
自分にすら偽っていた本心がするりと声に出た。そう、結局こわかったのだ。自分の懐にいれた存在がまたこの手のなかからこぼれていくのが。道具だと人形だと名称づけることで突き放して大切ではないと嘘をついて。でもそんなことで本心は偽れてなかった。アベル自身よりアベルの心を見透かしていたアビスに思いがけずこの心の内が溢れてしまった。
「僕のために生きてくれるのなら」
「熱烈ですね」
「そういう意味じゃ」
「わかってます」
別の意図に聞こえたことに気づいて訂正すればアビスが笑った。揶揄われているようでそれでも昨日までの彼を見ているときよりはずっと心が軽かった。
「僕のためにお前を犠牲にしないで」
「そうですね……」
どこか困ったように笑いながら何かを考えているようなアビスに彼がいま何を思っているのかが読めない。この懇願だってアベルの立場を利用したエゴではあるのだから。
「私も、アベル様を悲しませたいわけじゃないので」
「それは」
「あなたのために生きてみようと思います」
アベルが先ほど告げた言葉を返すようにそう言ったアビスに心底安堵している自分がいた。詰めていた息を吐き出せばアビスもまたどこか安心したように目を細めた。
「明日からもお側にいていいですか」
「うん、お前がこの場所を望むなら」
アビスが言う彼自身の意志をいまは素直に尊重したい。それにアベルだってアビスを失いたくないと思う気持ちを自分自身で認めた以上突き放す理由もなかった。アビスがそう望んでくれるのならばその気持ちに甘えてしまってもいいと今は思えた。
「はい!」
大怪我を負っているとは思えないほどに快活な返事を寄越したアビスに無意識のまま眉があがる。そんなアビスを見ているうちに自分にはないと思っていた感情がわいていることに今は目を瞑ってアベルはその声を受け止めた。