無垢なくちびる「キスしてもいいかい」
不意にアベルの手が頬に触れた。どうしたのかと目を合わせれば眼前の綺麗なその人はアビスにそう問い掛ける。キス──問いかけられた言葉の中の単語を拾う。キスとは親密な関係の者がするものではないか。他人との交流を避けざるを得なかったアビスにとって一生縁のない行為だと漠然と思っていた。そもそも崇拝するアベルとしていいもの、なのか。目の前のアベルがなぜ自分などにそう問いかけるのか、よくわからない心持ちだった。なんで、アベル様が。思考はあっちこっちにとんでいるのに答えるべき肝心な言葉は出てこない。彷徨わせた瞳を前に向ければ澄んだアメジストがこちらを見ていた。その視線に抗えず言葉の用意ができていないのに思わず口を開く。キスなんてしたこともない、想像をしたことも、望んだことも。だからしてもいいかなんて自分に問われてもよくわからなかった。好きにしてくれて構わない。アベルがしたいと望むなら尚更。アベルの望みなら全てこの身で叶えて差し上げたい、なんだって。そう思ったら自分の唇は小さくはい、と二文字を返していた。
頬に柔く添えられていただけアベルの手が意志を持つ。優しく、少しだけ引き寄せられる力にそのまま従った。アベルの端正な顔が近づいたことに居た堪れなくなってぎゅっと目を閉じた。一瞬、いや数秒だったかもしれない、触れた柔らかさに瞼を持ち上げれば目を細めたアベルの顔がまだ目の前にあった。
「はじめて?」
「ぁ、え……はい」
「そう」
「あの、だめでしたか」
「ううん、嬉しいなと思って」
そう言ってアベルが眉をあげた理由がアビスにはよくわからなかった。
「どうして」
「君のここを僕が最初にもらえたのだから」
戸惑うアビスにアベルは当たり前だと言うように返した。アビスの頬に添えられたままのアベルの手が角度を変えて唇をなぞる。アベルの長く綺麗な指先が自分の唇に触れていること自覚すればその感触が急にいけないものに感じた。アビスがたじろいだのが指先から伝わったのかアベルはふっと笑うとその手からアビスを解放した。
「なんで」
「それは何に対しての疑問?」
「なんで私とキス、を」
「好きな人には触れたいと思うよ、僕だって」
アベルの言葉を一旦全部飲み込んで一語一語解釈する。好きな人、とは私のことなのか、それに触れたいとは。
「わたし」
「そう、君」
終始不思議そうな顔をしたアビスにアベルはふふ、と笑む。馬鹿にされているわけではきっとない、慈しむような目で見つめられて微笑まれればアベルのそんな視線が自分に向いていることが急に恥ずかしくなる。
「もしかして自覚してないね。この間のこと」
数日前、これからも側にいてほしい、とアビスが構わないなら付き合わないかとアベルは告げた。自分自身アベルの隣にこれからもいることを許されるなら嬉しい、ただそれだけで深く考えずに首を縦に振ったことは確かだ。
「まあいいか」
アビスの様子を眺めていたアベルはひとり納得したようにこぼした。
「僕のこと好き?」
「はい」
自分に向けられる好意はいまだよく自覚できずわからないけれどこれだけは即答できる。アベルが好き、何よりも誰よりも。
──好きな人には触れたいよ
ふと先ほどのアベルの言葉を反芻する。
「触れていいんでしょうか私も」
「僕に?」
「……はい」
「いけないことがあるの?」
「だってアベル様にそんな」
アベルに何をされても構わない。どんなことをされても嫌ではない。けれど自分がアベルへ行動を起こすことは全て躊躇いのなかにある。アベルが嫌だと思うことも彼に失礼なこともしたくない。自らの意思でアベルに手を伸ばすことはとてもこわい。
「はい」
アビスがひとり考えに耽っていれば思考を読んだかのようにアベルはアビスの手を引き寄せる。
「どこに触れたい?」
アベルに取られたままその手を握り返すことすらできぬアビスにアベルは優しく問い掛けた。
「……このまま、手を」
アベルはうん、と頷くと握った手の力を緩やかに解放した。繋がれた己とアベルの手のひら、そして目の前アベルに視線を彷徨わせる。
「好きにしていいよ」
その言葉に許しを得て、アベルの手を開くように手のひらから指先へ自らの指を這わせる。アベルが彼の固有魔法を操る指先がとても好きだった。魔法を駆使しているとはいえ繊細にしかし力強くアベルの意志を託されて動くマリオネットはこの指先から生み出されている。みずからもアベルの道具として使役される身としては直接その指先で操られる人形達がいつだって羨ましかった。この身を全てアベルに委ねて彼の人形になれるのならばなんて幸せなことだろうか。白く綺麗な五本の指先を傷つけないようになぞる。傷だらけで剣が触れる場所は皮が硬くなった自分の手とは違う美しい手だ。そう思った途端この手で触れてしまっていることに気づく。自分の決して綺麗ではない、柔らかくない指で触れてしまえばアベルの手を傷つけてしまう。急にこわくなって手を引こうとするとそんなアビスの逃げる手をアベルが捕まえた。あっ、と慌てた感情がそのまま声に出ていた。アベルは気にすることもなく逃さないようにアビスの手を絡めて繋いだ。
「アベルさま、はなして」
「どうして逃げるの」
「傷つけてしまいます」
「そんなにやわじゃない」
でも、と抵抗しようとしても強い力で繋がれた手をアベルは離す気がないようだった。
「アビスの手好きなんだ。お前が触れてくれて嬉しいのに」
いかないでよ、と落とされた声は心からの願いに聞こえた。肌が触れ合うことが怖くて握り返せないアビスのかわりにアベルがぎゅうと手を握った。
「こわがらないで、遠慮もしないでほしい」
逃げられないようにつかまえられね、と念押しされればアビスは渋々だって頷くしかない。ただ頷いたとしてどうすべきかは分からないでいた。
「付き合ってほしいと言った意味、お前はよくわかってないみたいだけど了承を得た以上僕は遠慮しないから」
ずるくてごめんね、と結んだアベルが繋いだままの手を引き寄せた。不意打ちで引かれた手に引き寄せられるがままアベルとの距離が縮まる。先ほどキスをされたときのように近づいたアベルの顔に思わず目をつむれば柔らかいものが頬に触れた。そのまま鼻先へ目尻へ唇を落とされる。唇へのキスだと思って目を瞑ってしまったことになんだか少し恥ずかしくなって目を開ければアベルの顔がまだそこにはあった。交差した視線にアベルの目が細められたかと思えば今度こそ唇を重ねられる。油断した瞬間のそれにアビスはまたぎゅっと目をつむった。啄まれ離れてはまた重ねられる唇にされるがままじっとしているしかない。最後にぺろりと唇を舐められた気がして目を開ければアベルから覗く赤い舌に勘違いではなかったのだと確信する。
「あの」
「お前がすきだよアビス。あの日僕は恋人として付き合わないかと言ったんだけどね」
先ほどから熱くて仕方のない顔にまた熱が集まるのを感じる。他人事だと思っていた事象の当事者に自分がなったこと、いや数日前からなっていたことに今更気づいてその想いを寄せてくれているのがアベルだなんて急に全てを自覚して鼓動は早まり体が熱い。様々な感情がキャパシティをこえて言葉になる前に溢れて出てしまいそうだった。
「あ、あの私」
「うん」
「私、わからなくて……わかってなくて」
うろうろと視線を彷徨わせ言葉を探すアビスをアベルはただ相槌を打ちながら急かさず待ってくれている。
「わたしで、」
「お前がいい」
私でいいのか。何よりも不安なことを口にしようとすれば最後まで紡ぐ前にアベルが遮った。
「僕はアビスと手を繋ぎたいし、アビスとキスをしたい。隣にいてほしいのも誰でもないお前だ」
「私どうしたら」
こういうときどうしたらいいのか。自分でどんなに考えたって正解を見つけられる気がしなかった。だって望むどころか考えたこともなかったから。誰かに想いを寄せることも寄せられることも許されないと思っていた。だから想像したことなどなかった。そんなアビスの様子にアベルは僅かに表情を緩めた。手をほどかれその手がアビスの頭のかたちを確かめるように撫でる。
「嫌でなければ何もしなくていい。これまで通りのお前でいてくれて構わない」
「でも」
アベルがわざわざ恋人としての関係を新たに望むのならば何か今までと違うように振る舞うべきではないのだろうか。
「今までのお前を僕は好きになったのだからそのままでいいんだ。僕が勝手に関係に名前をつけようとしてるだけ。アビスは受け入れてくれれば充分だよ」
「ほんとうに」
「僕がお前に嘘を言ったことがある?」
そう問われれば否だと首を振る。アベルはいつだって裏表のない真実しか口にしない。それはアビスにだって分かっている。ただアベルの優しさも理解しているアビスにとってその対象が自分となると彼の優しい嘘で包まれているような気にもなってしまう。
「アビス」
「はい」
「何が不安?」
「……わからないです」
わからない、何も。アベルとこれからも共にいられることもアベルの望みを叶えることもこの本心から望むことだ。それなのにただ自分自身の存在だけでそれが叶えられてしまう状況をうまく受け入れられない。存在を望まれないことやいらない、消えろと言われたことは何十回、何百回とあっても存在だけを必要とされたことはない。何もしなくてもそれでいいだなんて、足元が覚束ない。
「あの、何か私ができることはありませんか」
「恋人として?」
「あ、う……はい」
アベルの恋人と自分が位置づけされること、それを自分で肯定することにはまだ勇気がいる。自覚すらまだないのに。
「じゃあ、お前からキスして」
「っぅ、え!」
アビスの反応を予想していたのかアベルはくつくつと笑う。
「ごめんね、冗談。まだそこまでしなくてもいい」
「し、します」
自分から言い出したくせにここで逃げ出すのは情けない気がした。またアベルの優しさに甘えてそれではだめだろうなんて。自身が逃げ出さないようにアベルのローブを掴んだ。いや、縋っていたのかもしれない。しかしいざ行為に臨もうとしてもこれからしようとすることを想像すればアベルの目を見ることができない。自分の握り締めた手から視線をあげられないでいる。アベルは急かさない。ああ、また甘えていると思った。ひとつ息を吐いて意を決して顔をあげそのまま顔を近づければ目の前のアベルにまた怖気付いて体が勝手に逃げ出そうとする。その瞬間強い力で引き寄せられた。ほんの一瞬触れるだけのキスをした。またアベルの助けを借りてしまったことにアビスは俯いた。
「君から触れることにまず慣れてもらったほうがよさそうだね」
自分の情けなさに嫌気がさしていたのに頭上から降ってきた声は穏かだ。
「……すみません」
「僕の我儘に付き合わせてるだけだし謝らないで」
アベルのその言葉に思わず顔をあげた。
「アベル様の我儘じゃ……!私もっ、わたしも……好き、ですあなたが」
勢い余っていざ口にして見れば恥ずかしさに尻すぼみになってしまったがアベルに付き合ってるだけではないとそれだけは伝えたかった。この好意がアベルと同じものなのかはまだ分からない。でも触れられてキスをされて、そこに嫌悪は全くない。むしろアベルに触れてもらえることに緊張はあれどほんのりとした嬉しさがある。だからきっとアビス自身もどこかで望んでいることなのだとせめて伝えたかった。
「アビス」
アベルの声にようやく顔を上げる。
「ありがとうね」
「私は、何も……」
「ううん、言ったろうお前がいるだけでいいと」
「それがよく分からなくて……」
素直に戸惑いを口にすればアベルは少し考える素振りをする。ああ、困らせてしまっただろうかと内心後悔をしていれば再びアベルに名を呼ばれた。
「僕が分からせてあげよう、アビスにはその価値があると。だからそれまで付き合ってくれるかい」
「時間がかかるかも、しれません」
アビスは頷きながらもすぐにこの染みついた自身の感覚をすぐには変えられる気がせずそう付け加えた。
「構わないよ。それならその間はお前が付き合ってくれるということだしね」
先程のアベルの言葉に重ねてあれ、と思い顔を向ける。
「言ったじゃないか、ずるくてごめんと」
ずっとアベルの手の内なのだと自覚する。アベルはそう簡単にアビスを手離す気はないのだと。アベルがそこまでしてこんな自分をその手のなかに捉えようとすることがどこか他人事のようでおかしい。ふわふわと現実味はないがきっと逃げ出そうとすればまた優しく捕まえられてしまうのだろうとも思う。身を委ねてもいいのだろうか、そう考えてアベルの手を今度は自分から取った。まだ強く握る勇気は出ない。それでもアビスが今できる限りの力で握る。少し驚いた様子のアベルの顔を見つめる。
「よろしくお願いします」
「こちらこそ」
アビスが握った手を引き寄せるとアベルは誓うようその指先に口づけを落とした。