欲
尊敬や憧れ、信頼だと思っていた自分のアベルへの感情がただそれだけではないと気づいたのはいつだっただろうか。
アベルのことが好きだ。きっとそれは恋という感情として。一般的に異性に抱くだろう感情を身近な同性に抱いてしまったこと自体は異性への畏れがあるこの身を考えるとそこまで驚くことではなかった。それよりも彼に救われ、忠誠を誓った身でそんな不純な感情を抱いていることが後ろめたかった。付き従う者としての立場を隠れ蓑にこの感情が露呈しないよう気を払った。しかし級硬貨集めの一件後アベルからの一言で私達の関係は正式に恋人として形を変えた。
あくまで道具として、その役目のなかに忍ばせていた感情が恋人ととなったことで抑えきれないものに変化していた。
はじめは自分という存在を唯一受け入れてくれたという事実に脳が勘違いを起こしてるのだと思った。そう思いたかった。しかしその佇まいも、胸に宿した固い意志も、同姓とは思えぬ白磁のような肌も魔法を操る長い指も、柔らかなテノールも全てがアビスの心を揺るがした。寮を率いる者として寮生にかける言葉もそれでいて少し抜けている姿も魅力的に映った。アベルが好きだ。この想いを口にしたいし、側にいたい、できることなら触れたい。経験したことのない恋という感情に身体を支配されおかしくなりそうだった。
だから、アベルから目的や立場が変わっても側にいることを望まれ、それどころか恋人にならないかと告げられたときは夢を見ているのかとさえ思ったほどだ。努めて平常に、舞い上がってしまいそうな心をなんとか抑えて了承の返事をした。それがいけなかったのかもしれない。関係の名称だけが変わって大きく変わることのない距離に焦らされ、それでも心のどこかで期待する気持ちは日に日に大きくなる。あなたのことがこんなにも好きだと口にしたい、その肌に触れたい、その声で名前を呼んでほしい。変わらず隣に控えるなかで膨らむ欲求を抑えるのはひどくつらかった。
「アビス」
凛としてそれでいて柔らかな声がこの名を呼ぶ。
「最近何か無理をしていないか」
感情というものに鈍そうでいて、それなのに時にアベルはとても目敏い。ああこんな時に限って、とアビスは内心頭を抱えた。答えぬアビスにさらにアベルは訝しむ。
「僕には言えないこと?」
「アベル様……」
「うん、」
いまは隠し通せてもいつかは暴かれることだと思った。嘘をつくこともただ黙っていることもアベルは気に入らないと思ったから。意を決して開いた口にそれでも言葉を発することを少しだけ躊躇う。
「……あなたが好きで、好きで……触れたくて欲しくて堪らないのです」
後ろめたさに呟いた声は後につれてか細く、最後までアベルに届いたのかは分からなかったが耐えきれず伏せた顔ではアベルの様子を窺い知ることはできない。するとアベルの手が頬に触れ、伏せていた顔を多少強引に上に向かされる。真っ直ぐに見つめるアメジストの瞳に居た堪れなくなり目を逸らすと咎めるように名を呼ばれ逸らすことすらも許されない。
「アビス」
「……はい」
「なぜ躊躇うことがある」
返事もできずその先を待つことしかできない。
「君はまだ僕に対して敬意を払っているのか線引きしているところがあるし、敬称や慣れた口調をすぐに変えろとは言わない。けれど恋人になったからには僕らの立場は対等だろう。僕が君を求めることも、君が僕を求めることも誰も咎めないはずだ」
「でも、アベル様が……」
「僕が?」
「……こんな欲に塗れたままアベル様に触れて……あなたを汚したくない。あなたに、嫌われたくない」
情けなく泣きそうな声で訴えている今こそアベルに愛想を尽かされてしまいそうだと思いながらもアビスは最後までなんとか絞り出した。
少しだけ考えるような素振りしたアベルではあったが、次の瞬間その綺麗な顔が近づいたかと思うとアビスはその唇を塞がれていた。恋人になってからかろうじて交わしていた唇が触れるだけの挨拶のようなキスではなく、噛みつくような口づけにアビスは驚き身を離そうとするもアベルの手はすでにしっかりとアビスの後頭部に先回りしていてそれを許さない。唇をこじ開けられ舌をねじ込まれる。募らせた欲求だけで実経験のない行為にどうにかなってしまいそうだった。
一通り咥内を蹂躙されようやく口を離されてもなお鼻先が触れるほど距離にアベルの顔があった。
「君が僕にどんな理想を抱いているのかわからないけど、僕だって君にこういう欲求を持っている。君は、幻滅した?」
性急な口づけに酸素が足りない。何よりもたった今起こった現実への動揺に頭がくらくらしていた。
「そんなこと……」
「君と恋人になったのはこういうことがしたいからだよ」
まだ早いかと思って我慢していたけれど。
ぽつりと添えられた言葉に目を丸くする。
「え、」
「そうでなければ今までの関係で構わないだろう……」
ばつが悪そうにアベルは目を逸らした。
「もう一度聞くけれど君は幻滅したかい」
「いえ、もっと……」
「もっと?」
「…… してほしいです」
その回答を引き出したアベルは悪戯な笑みを浮かべた。
「今度は君からしてくれないか」
「えっ」
「アビスが僕にどんな欲求を持ってるのか君からおしえてほしい」
「でも」
「でも……?なにが不安なの」
「歯止めが効かなくなりそうで」
ふふ、とアベルにしてはめずらしく小さく声をあげて笑われた。笑いを収めたアベルはずいとアビスの眼前に顔を寄せる。目をそらすこともできないような距離で挑発的な目がアビスを捉えた。逃げ場を失うアビスの耳元にアベルは口を寄せそっとささやいた。
「君がずっとそうやって押し込めてきた心の奥を全部僕に見せてよ」
その言葉を引き金にアビスは目の前の存在に手を伸ばした。