one and onlyまた価値のない人間になってしまった。
マッシュに敗北し、痛む体よりもその事実がアビスのなかに黒い影として静かに広がっていく。誰からも必要とされずそれどころか忌まわしい存在として扱われていたアビスに価値を与え、必要としてくれたアベルの期待にさえ応えることができなかった。きっと道具としての仕事を全うできなかったアビスは切り捨てられるだろう。やっと見つけた自分の存在価値を自らの力不足で失ってしまった。
「一緒にシュークリーム食べましょう」
マッシュはそう言ってくれたけれど彼にとって自分の存在など取るに足らないだろうとも思う。もらった言葉が嬉しくないわけではない。しかし、ただ一人忠誠を誓ったアベルを敗北により裏切ってしまった事実が今はアビスの心を支配していた。
マッシュが立ち去り、少しの間アビスはぼんやりとその場にとどまっていた。自分が止められなかったマッシュはアベルの元に向かったのだろう。アベルの魔力は絶大だ。アベルならマッシュに負けることはない。その確信と共にしかし、万が一にもマッシュの拳がアベルに届いてしまったら。そう疑うことすら無礼だとは思う。それでも、万が一が起きてしまったのなら。たとえアベルから不要とされてもアベルの身を脅威から守る盾になることくらいできるだろう。痛む体をなんとか起こしてアビスはアベルの元に向かった。
ようやく辿り着いたそこには地に臥したアベルの姿があった。信じがたい光景に体が痛むことも忘れて思わずその身に駆け寄る。
「アベル様……!」
「……何しにきた」
戻ってくる冷たい声色に身を硬くする。分かっていたことなのにアベルに拒絶されることがひどく苦しい。しかし続いた言葉はアビスの想像していたものではなかった。
「あいつに負けた私は弱者だ……もはやなんの価値もない」
いつかの自分を見ているようだった。
立場のまるで違うアベルに自分を重ねることはおこがましいことかもしれない。しかし、全てを諦めたようなアベルの姿はかつての自分と確かに似ていた。
アベルがそんなふうに自らを卑下する姿を見ることが堪え難い。アベルに価値を与えられただそのことだけを糧に魔法を、剣を振るった。しかし、自分のことばかりで私はアベルのことを見ていただろうか。理想ばかり重ねて本当はアベルのことなど何も知らなかったのかもしれない。例えマッシュに敗北しようとアビスにとってアベルはたった一人の大切な存在だ。そのアベルにあんなことを言わせてしまったことが何よりも苦しかった。あの時手を差し伸べてくれたアベルはアビスにとって救世主そのものであった。自分がアベルにとって同じ存在になれるとは思わない。それでも、アビスは手を伸ばさないではいられなかった。
「私はどこまでもあなたと共にあります。一人だった私に価値を見出してくれたのはあなたですから」
アベルが自分を救ってくれたように今度は自分がアベルを救いたかった。拒否されても仕方ないとは思いながらも、ただ想いだけで手を差し出す。いつでも強い意志を湛えていたアベルの目が戸惑いで揺れていた。迷いながらそっと重ねられた手を強く握って引き寄せる。この手を絶対に離したくなかった。よろめくアベルの体を支えると預けられる熱にひどく安心した。
戦いの場を後にし医務室に向かう。互いの傷に障らぬようゆっくりと足を進める二人に言葉はない。疲労もあったがなんと声をかけていいかアビスは迷っていた。偉そうなことを言ってしまったがアビス自身敗北した身だ。アビスがマッシュを止められていればアベルはこんな目に遭わなかったし、道具としての価値を失ったことに違いはなかったから。
応急的な処置を受け、医務室には二人きりとなった。
「アベル様」「アビス」
重なってしまった呼び掛けに少し気まずい思いでアベルの言葉を促した。アベルはまた少し迷ってから口を開いた。
「礼を言う」
「え、」
「無価値になった僕を、見捨てないでいてくれて……」
「っアベル様は無価値なんかじゃありません!」
思わず張ってしまった声に自分でも驚いた。それを詫びて続ける。
「アベル様は何もない私に価値を与えてくださいました。そのことが私にとってどんなに嬉しかったか……それだけで明日も生きていようと思えました。誰になんと言われようとあなたは私にとって価値のある存在です」
アビスの言葉を静かに聞き入るアベルの目からは感情を窺い知れない。
「……強者だけがこの世界を変えられる。強者であることだけが僕の価値だった。君を道具として使役し、他の皆のことだって利用してきた。そんな僕が負けることはあってはならないのに。マッシュ・バーンデッドに敗北したとき世界の全てに見捨てられても仕方ないと思った」
アベルの口からそんな言葉が溢れていくのがアビスはただただ悲しかった。そんなことを言わないでほしい。例え強者でなくともアビスにとってアベルの価値は変わらないのに。
「でもね、君はこんな僕を迎えに来てくれた。なにもかもから見捨てられても仕方ないと思っていたのに君が僕を必要としてくれた……」
ぽつりと呟かれたアベルの感情にアビスは思わず顔を上げた。
「アベル様……」
アベルは少し笑って、それからまた顔を伏せ小さく口を開く。
「弱者となった僕でも君は、側にいてくれるだろうか……」
不安を含み揺れる声色に思わずアベルの手をとってきつく握る。驚いてこちらを見るアベルの目を見てアビスは誓うように言った。
「どんなアベル様でも関係ありません。あなただけが私の全てです。どこまでもお供させてください」
「……ありがとう、アビス」
ふ、と息を零しアベルはようやく僅かに安堵の色を見せた。上に立つ者として気を張っている顔しか見たことがなかったアベルが少しだけ同い年の青年の顔になったことがアビスは嬉しかった。
「こんなことを言うと失礼かもしれませんが……」
アビスはひとつ前置きをして続ける。
「私はアベル様が強者だからお仕えしてたのではありません。私にとってはアベル様が強者であろうがなかろうがそんなに関係ないんです。ただ私を必要としてくれた。私にとってはそれだけで充分だった。でも自分が得た幸福にだけ捉われてあなたのことを私はちゃんと見ていなかったのかもしれません。先ほどやっとそのことに気づきました」
「情けない僕を見て幻滅したかい」
「いいえ。あなたも私と変わらないのかもと、なんだか少し安心しました」
「何も特別な存在じゃないさ。僕だって」
アベルは憑き物の落ちたような顔で遠くを見ていた。
「もし、」
続けようとしてアベルは少し躊躇う。これを聞いてどうするのだろう。アビスを困らせたいわけではない、しかしアビスなら僕の望むように答えてくれるだろうか。だとしてもそんな、忖度をさせたいのか……ずるい質問だと考えだと逡巡するがそれでもアベルは言葉を止めることができなかった。
「僕ではない誰かが君を必要だと言っていたら、君は僕ではなくてもよかった?」
はっとした顔でアビスはこちらを見つめた。わずかに戸惑いと気まずさを含ませたその目を伏せるとそうですね、とゆっくり口を開く。
「あの頃の私は、そうだったかもしれませんね……」
含みを持たせたその答えは静かにアベルの中に落ちてゆく。アビスがアベルではない他者の隣に立ち、そのために剣を振るう。あったかもしれない光景を想像すると胸がざわざわとして落ち着かなかった。
「でも……今の私は、例え誰に求められようとあなたと共にありたい。あなたの隣に立ち、あなたの心にいまこうして触れてもっとアベル様、あなたのことが知りたい。今度は私があなたの支えになりたい」
「……ありがとうアビス、僕を選んでくれて」
アビスの飾らない真っ直ぐな言葉に答えたくて、アベルは不器用に笑って見せた。うまく笑えてるのかはわからない。それでもアビスなら受け取ってくれる気がしたから。
七魔牙の長として勝負に負け、級硬貨も全て奪われた。何者でもなくなってしまったなとアベルは思う。立場のあるものとしてこの騒ぎに何もお咎めがないとは思っていないし、これから考えなければならないことは山ほどあった。それでも隣にはアビスがいる。アベルにとって今はそれだけで充分だった。
少しの気恥ずかしさを含みながらも手を握り返すとアビスは綻ぶように笑った。