10.26アベルの誕生日が近づきアビスは一人思い悩んでいた。プレゼントを用意したもののアベルと特別な関係になって初めての誕生日にこれだけでいいものかと不安だったのだ。折角ならアベルの望むものを渡したい、かといってあまり口数の多くない彼からどうやってそれを引き出せばいいのか。そわそわと落ち着かない様子に同室のワースは痺れを切らせて声をかけた。級友のそう言った話題に首を突っ込むのはごめんだが終始同じ部屋の中で落ち着かないでいられてもも勉強の手が止まる。アビスからその悩みを打ち明けられたワースはあっさり直接聞けばいいじゃないかと返した。そんなことを遠慮する仲でもないだろうと。ワースの言うことも一理あるとアビスは翌日そうアベルに切り出すとアベルは少し考えたのちこう返した。
「10月26日の君の一日を僕にくれないだろうか」
そんなことで良いのかと聞き返したがそれが良いのだと言われてしまえばアビスに断る理由もなく、了承しその日は部屋に戻った。
10月26日の朝。朝から出掛けたいと言っていたアベルの部屋を訪ねる。アベルと外出するというだけで心が弾むようだった。そして何より誰よりも早く今日という日にアベルに会える。アベルの祝いの日なのに自分が浮き足立ってる感覚はあったが彼にとって特別な日に他の誰よりも早く祝いの言葉を送ることができるのだ、嬉しくないわけがなかった。
「アベル様おはようございます」
「おはようアビス」
「誕生日おめでとうございます。あなたにまた一年幸運が降り注ぎますように」
「ありがとう、アビスに真っ先に祝ってもらえて嬉しいよ」
普段表情のわかりづらいアベルではあったがアビスの言葉を受け穏やかに微笑む姿にアビスは自分の頬まで緩むのを感じた。
いざ出掛けようとすると部屋を出るアベルの腕に母と呼ぶ人形がないことに気づいた。学内ではもちろん外出する際もアベルは『母さん』を大切にその腕に抱いているはずなのに。
「アベル様、お母様はよろしいのですか」
アビスの問いかけにアベルは少しだけ部屋の中を気にした様子だったが「今日はいいんだ」と言うとそのまま部屋の扉を閉めた。その様子に少しひっかかりつつもアベルが良いと言うものをとやかく言うものではないだろうとアビスも後に続いた。
朝食は街で食べようと決めていた。朝早くからやっているカフェテラスで二人揃って朝食をとる。普段人と会うことをできるだけ避け一人コーヒーで済ませることの多いアビスにとって誰かと共に食事をすることはそれだけで特別な心持ちだった。普段君のとっている朝食をというアベルだったがコーヒーだけ提示するわけにもいかずアベルの好む野菜たっぷりのキッシュとコーヒーを2セット頼む。アベルがすきなミニトマトもはいったそれは彩りも華やかで食欲をそそった。
「デートみたいですね」
アベルと朝から共に過ごし食事を取る。そして今日はこの後も彼と過ごせることが確定している。想像するだけで幸せな一日に浮き足立っていたアビスは思わずそう口にした。言ってから自分の言葉に恥ずかしくなっていると、アベルは笑いながらデートだろうと返したのでいよいよアビスの顔は赤く染まった。
カフェを出るとトラムを乗り継ぎ執着の駅でバスに乗り換えた。イーストンの周りと比べると景色は随分のどかになっていた。魔法を使わずこうしてのんびりと移動するのも外に出る経験の少なかったアビスにとっては特別な体験をしているように感じた。ましてや隣にはアベルがいる。バスを降りるとそこは小高い丘の麓のようだった。
「少し歩くよ」
そう告げると迷いのない足でアベルは足を進める。目的の場所があるようではあったがアベルはここまでどこに向かうのかをアビスに告げなかった。アベルが向かうところに不安はなかったけれど少々不思議な気持ちになりながらアビスも後に続く。緩やかな坂道を登る。小道のまわりは野花が咲き、しかし自生したものだけではなさそうだった。誰かが手入れしている場所なのだろう。丘を登りきり景色が開けると明らかに人工物のゲートが見える。そこをくぐった先に広がる光景にここがどういった場所なのかようやく分かった。
──霊園だ
そこでアビスは悟った。ここがアベルにとってどういった場所なのかも、なぜ彼が今日母と呼ぶ人形を置いてきたのかも。
整然と並ぶ墓を通り過ぎると少しだけ開けた区画があった。そこは他の場所よりも花々で満ちまるで花園のようであった。アベルはそこにある墓石の前で跪き、麓の小さな花屋で購入した花をそっと手向けると口を開いた。
「ひさしぶり、母さん」
アビスの予想通りアベルの前の墓石には『イメルダ・ウォーカー』と刻まれていた。
「今年もひとつ歳を重ねたよ」
そこに刻まれた文字を慈しむようになぞりながら語りかけるアベルをアビスはただ眺めていた。あたりは花に囲まれ芳しい香りで満ちている。霊園とは思えない華やかでそれでいて穏やかな空間にアベルが語っていた慈悲に満ちた彼の母が眠るにはきっとふさわしい場所なんだろうと考えていた。
「今日は母さんに紹介したい人がいるんだ」
そう続けたアベルにアビスは思わず身を正す。ここにいるのはアベルと自分だけなのだから。身を正したアビスを振り返ったアベルは少しだけ眉尻を下げて笑う。
「彼はアビス。僕の、大切な人だよ」
「アベル様、」
「僕は彼に命を救われたし、間違いを犯した僕の側に今でも寄り添ってくれる。母さんしかいなかった僕の世界でやっと母さん以外の大切な人ができた」
アベルの口から紡がれる身に余る言葉にアビスはそわそわと落ち着かない気持ちになった。だって語る先は彼が最も大切にしている母なのだから。
「アビスとはこれからもずっと一緒にいたいと思ってる。だから今日は母さんにも紹介したかったんだ」
「あ、アベル様っ、」
思わずアビスは声をあげた。振り返ったアベルはくすくすと悪戯っぽい顔で笑っていた。
「顔が赤いよ」
「赤くもなります」
「アビスも母さんと話をしてあげてよ」
そう促されては断ることもできずアビスは迷った末に口を開く。
「……アビス・レイザーです。アベル様は私を救いあげてくれた恩人です。アベル様の優しさに私は日々救われています。アベル様が持つ理想を叶えるためにこれからも側で力になりたいと思っています」
「なんだか恥ずかしいね」
「さっきの私の気持ちがわかりましたか」
「うん、そうだね」
それからそこで他愛もない話をした。アベルの母に普段の彼を伝えるように、そしてアベルの母にアビスのことを知ってもらうように。母の眠るその場所の前で話すアベルは普段よりも少しだけ幼く、年相応の顔をしていた。アベルがそんな姿を見せてくれたことをアビスは心の中で嬉しく思った。
日が陰ってきた頃合いを見てその場を後にした。丘を降りながらアベルは静かに切り出した。
「ここへ来ることを黙っていてすまない」
「いえ」
「……少し、怖かったのかもしれない。アビスを母さんが眠る場所に来てほしいと言うことが。拒絶されたらどうしようかと勝手に怯えていた。だから黙って連れてきてしまった、卑怯な真似して申し訳ないと思う」
「私は嬉しかったですよ。だってここに来ることはアベル様にとって大切な行為で、ここは何より大切な場所でしょう」
「うん、君と出逢うまで僕にとっては母さんの存在しかなかった。そんな母が眠る大切な場所」
想いに耽るように話すアベルは少しの沈黙の後続けた。
「母さんに言ったように僕はこれからも君といたい。だからきちんと紹介したかったし、君にも知って欲しかった。もう母さんは、いないのに馬鹿げてるかもしれないがそれでも、」
「あなたがそう思ってくれたことが、あなたの特別でいれることが私はとても嬉しいですよ」
「アビス」
「だから、ここに連れてきてくださって嬉しかった。ありがとうございます」
「礼を言うのは僕のほうだよ」
「いいえ。それに、アベル様の誕生日なんですからアベル様の思うように過ごしていいんですよ」
「君はいつも僕の好きに過ごさせてくれるじゃないか」
「それでも、です」
それを聞いたアベルはそれじゃあ、と徐にアビスの手を取った。
「こうしてもいい?」
「あ、え、アベル様っ?!」
急に繋がれた手にアビスは驚き動揺した。普段母と呼ぶ人形を抱えて片手が埋まっているアベルの手を取ることは咄嗟の魔法を制限することと同義だった。だから恋人になってからも手など繋いだことはなかった。満足げにそのまま歩き出すアベルに手が繋がれている以上アビスは後に続くしかない。
「あの、恥ずかしいです」
「誰もいないから大丈夫だよ」
「でも」
それに、とアベルは少しだけ歩く速度を緩めて遅れるアビスを振り返った。
「これは母さんの前ではできないからね」
そういって笑うアベルの後をアビスは顔を赤くしたままついていくしかなかった。