夏のお嫁さん「ニキィ〜。うどんか素麺どっちがいい?」
戸棚を漁る音と一緒に燐音くんの声が飛んできて、僕は突っ伏していた顔を上げた。
「焼きそばもあるけど。カップのやつ」
その言葉だけでほかほか湯気を立てるカップ焼きそばの幻影が見える。ちょっと脂っぽい麺と濃い目のソースが絡み合うあのチープな匂いはとっても魅力的だが、エアコンをつけていても肌がじっとり汗ばむくらいの暑さの今夜はさっぱりとした冷たさが恋しかった。
「うどんがいいっす。冷たいやつ〜」
「あいよー」
気の良い返事をした燐音くんはたぶん戸棚の奥にある大きめの鍋を取り出そうとしてるんだろう。他の調理器具を端に避けているのがガコガコとやかましい音からなんとなく伝わってくる。手前のものを取り出してからにすればいいのに、妙なところで大雑把な人だ。
注意したところで改めてくれるはずもないので、やれやれとため息を吐いて寝返りを打った。つい十分くらい前まで燐音くんにしがみつきながら見上げていた天井は記憶の中よりも無機質に見えた。
エッチをした後に燐音くんがご飯を作ってくれるようになったのはいつからだろう。体力を使い果たしてベッドで死んでいた僕の前に燐音くんがカップ麺を持ってきてくれたのがたぶん最初だったと思う。確か、カレー味のやつ。
麺を啜ってる僕を見ながら燐音くんが「美味そうだな」って言うもんだから、じゃあ半分こしようねって約束したけど結局僕がぜんぶ食べちゃったんだ。
「……ん、っしょっと」
だいぶ体力が回復してきたのでとりあえずベッドから脱出。床に放りっぱなしのパンツは汚れてるから穿きたくないんだけど、さすがにスッポンポンでうどんを食べるわけにはいかない。でも食べたらシャワー浴びたいから新しいのを今おろすのもなんとなく嫌だ。
というわけで折衷案としてパンツを穿かずに直にズボンを穿くことにした。落ちているのを拾い上げて脚を通したのはダンスレッスンの時にも使っているテロテロした生地のハーフパンツ。肌に直接触れるとちょっとこそばゆいけど、ちょっとの間の辛抱だ。
のそのそと机の前まで移動して、クリップで留めてあるファミリーパックのクッキーの袋を開いた。この前ドラッグストアで安売りしているのを買い込んだばかりなのにもう在庫が底を尽きそうだ。また安売りしないかな。
クッキーを頬張りながらキッチンの方を見るとコンロの前に立っている燐音くんが鍋から立ち昇る湯気に包まれていた。パンイチで料理するの、熱くないのかなと思うんだけど平気らしい。
結婚した僕らが仮の住まいにしているアパートはお父さんたちにも相談した上で来月の引っ越しと同時に引き払うことになっている。新しい家はキッチンが広くて僕としては最高なんだけど、引っ越したらエッチした後のこの時間を今みたいな距離感で過ごせなくなるのはちょっぴり寂しかった。
まあでも決まったものは仕方ない。それよりもシナモンで出す夏のデザートメニューを決める方が大事だ。さっき考えている途中で燐音くんに誘われたから、レシピノートは机の上に開きっぱなしのままだ。
夏らしくマンゴーやレモンをふんだんに使ったデザートを今のところ考えている。この前HiMERUくんとこはくちゃんに試食してもらったパンケーキは大好評だったからメニューに加えるとして、パフェ系も欲しいなあ。パイナップルを使うのも良さそうだ。
ノートの新しいページにパフェグラスの絵を描いて、構造を組み立てていく。パッションフルーツを加えたマンゴーソースをいちばん下にして、その上にココナッツプリンはどうだろう。味の変化が欲しいからその上にはチョコアイス。それからパイナップルのゼリーを敷き詰めて……あー、お腹空いてきた!
エネルギーが足りない時にメニューを考えるのはいつぞやのクラフトコーラ作りの時みたいに良い方向に作用することもあるけど、今みたいにただいたずらに胃袋を刺激するだけの時もある。
燐音くんとのエッチは体力を消費する割には色々と満たされるからすぐに食べなきゃ死んじゃう! なんて事態にはならないけれどそれでもやっぱりお腹は空く。
「ハイハイできましたよーっと。燐音くんお手製冷やしうどんでっす!」
「わぁい!」
絶妙のタイミングで燐音くんがうどんを持ってきてくれた。いそいそと机の上を片付ければコトンと置かれるどんぶり。めんつゆのかかった白いうどんがツヤツヤと輝いていた。
冷凍うどんを茹でて、冷水でしめて、どんぶりに盛ったらめんつゆをかける。燐音くんの作るものは基本的にこんな感じ。たまーに粗く刻んだネギとかが乗ってるけど今回は完全なる素うどんだ。
素麺も似たようなものだし、パスタの場合は茹でたら市販のパスタソースをかけるだけ。でも僕はそんな燐音くんの料理がけっこう好きだ。
「うどんもう無くなったぜ」
「ありゃ。買っとかないとっすねぇ。燐音くん明日暇?」
「夕方なら暇」
「そんじゃあ買い物付き合ってほしいっす。僕も夕方から時間空くんで」
ついでにお菓子も安くなってないかなあ。後でチラシを確認しておかないと。
燐音くんが茹でたうどんはちょっとだけ硬くて、でもツルツルと口の中に入っていく。二玉分をあっという間に平らげて、冷たい麦茶で喉を潤すと生き返った気分だ。
「はぁ〜、ご馳走様っす!」
「お粗末様でしたァ」
「洗い物は僕やるね」
ずるずると麺を啜る音が聞こえたのを返事だと捉えた僕はさっきの続きに取り掛かった。うどんをお腹に入れて冴えた頭のおかげでパフェの設計図は完成したから、明日さっそく作ってみよう。
「新作か?」
「うん。シナモンの夏メニューっすよ。フルーツ系のデザートなんすけどね。パンケーキとパフェと、後もう一個くらい考えたくて」
「フルーツねぇ……あー、あれ美味かったな。ほら、昔ニキが作ってたスポンジの上になんかレモンの柔らかいのが乗ってるやつ」
「レモンムースっすか?」
「たぶんそれ」
ふわっとした説明でも燐音くんに作ってあげた料理は大体頭の中に残っている。夏はバテ気味な燐音くんのために食べやすくて冷たいものをと思って出してあげたんだった。
確かにあれならメニューに加えてもいいかもしれない。映えるようにデザートプレートっぽくするのも良さそうだ。
「よし、レモンムースにするっす! 試作品できたら燐音くんも試食してね」
「えぇ〜? 甘いモンなら俺っちよりもメルメルとかこはくちゃんのが適任っしょ。それに、俺っちニキの作る飯だったら無条件に舌が喜んじまうように調教されてっから」
「調教されてるんすか」
「されてんの。燐音くんの女王様は厳しいからなァ」
女王様ではないし調教したつもりもないんだけど。でも言い回しがふざけてるだけで燐音くんが僕の作るものをなんでも喜んで食べてくれるのはよく知っている。
今だって僕がメニューを考えているのを見てさりげなく案を出してくれた。確かに燐音くんは毎回「美味い」って言ってくれるけど、その「美味い」をぜんぶ覚えていてくれるからとても嬉しい。
燐音くんのその言葉も、燐音くんが作ってくれたうどんも、燐音くんっていうかわいい人も、好きだなって思う。鼻の頭に汗をかいているところもなんだかかわいくて好きだ。身を乗り出してぺろりと舐めればしょっぱくて、それから目を細めた燐音くんに鼻を思い切り摘まれた。
「バーカ」
ニカッと歯を見せた子どもみたいな笑顔がかわいい。うどん、食べたばかりだけどまたシたくなってきちゃった。
そわそわしていると燐音くんがうどんを箸で持ち上げながら「食い終わるまで待ってろ」と言った。どうしてわかったんだろう。
首を傾げれば何がおかしいのか燐音くんが声を上げて楽しそうに笑う。
「おまえほんっとに、かわいいなァ」
それはこっちの台詞だと言うよりも前にキスされて、あっというまにベッドに逆戻り。補給したエネルギーはまたすぐに使い果たしてしまうだろう。
でもそんな夏の夜も、僕は燐音くんごと好きなのだ。