幸せな未来とは?「意外でしたね。ゾルフが料理が出来たなんて」
「一人暮らしで料理が出来ないと、何かと不便でしょう?」
フライパンを揺する手つきがあまりに慣れたものなので、つい私はじっとその姿を見つめてしまう。
「しかもちゃんと美味しいんだから、なんだか悔しいです」
「失敬な」
あまり食事に興味のない彼だが、舌は肥えているらしい。きちんと美味しいものが作れるということは、ちゃんとした美味しいものを食べてきたということだ。彼の出自について詳しく聞いたことはないが、そこそこ裕福な家庭だったのではないだろうか。
私などは平凡な一般家庭出身、一人暮らしを始めてからは食費を削って趣味の読書に注ぎ込んでいたため、今では立派な貧乏舌だ。何を食べても大体美味しいと感じるのは、それはそれで幸せだろうが、どうせならもっと美味しいものを食べたい。
「しかし、おかしなことを『お願い』されたものです。私の手料理が食べたいなどと。そんなものでよかったんですか?」
「だって、ある意味どんな高級料理より貴重ですよ? この『お願い』だって、駄目元でしたし」
そもそもの話は、数日前に遡る。
私の誕生日だったその日、だからと言って誰に何を祝われるでも無く仕事を終えた。仲の良い同僚たちにもその日が私の誕生日だなどとはわざわざ言っていないし、特に祝われたいとも思っていない。だが折角だから本屋にでも寄って帰ろうかと思案していたところ、ゾルフとの話の流れでぽろっと言った「今日は折角の誕生日なので、好きに過ごさせてください」という言葉に引っ掛かられた。
「おや、誕生日とは。おめでとうございます」
「……誰にも言ってなかったからですけど、今日おめでとうなんて言ってくださったのはゾルフだけですよ」
「特にプレゼントなどは用意していませんが……何か希望はありますか?」
「言ってないのに用意してあったら怖いですよ。……そうだなあ、今日という日を私の好きに過ごさせていただければ、それが一番のプレゼントです」
「欲のないことを言いますね」
「そのほか別に欲しいものなんて……あ」
欲しいもの、というわけではなかったのだが、普段なら絶対に聞いてもらえないような『お願い』を思いつく。「何か希望は」と聞かれたのだから、それなりに対応するつもりくらいはあるだろう。
「あの……手料理が、食べてみたいです」
言われたゾルフのきょとんとしたあの顔は、写真にでも撮っておきたいくらいの傑作だった。
「手料理? 誰の?」
「ゾルフのに決まってます。この場で他に誰がいるんですか」
「そんなものでいいのですか?」
「私がアクセサリーやドレスに興味がないことは、よく知っているでしょう」
「別に構いませんが……あなたも変わっていますね」
「……ゾルフにだけは言われたくありません」
……というやりとりがあり、現在に至る。リクエストしたメニューはオムライス。子供っぽいと呆れられたが、今の私はどうしてもゾルフの作るオムライスの気分なのだ。もし仮にゾルフが料理が苦手でも、食材に失礼なので残さず食べようとは思っていたものの、蓋を開けてみればどうだ。私などより余程器用に調理作業をこなして行く。その手つきに惚れ惚れしていると、あっという間に野菜のみじん切りがころころの角切りにされた鶏肉とともに炒められ、じゅうじゅうというその音は心地よい香りを伴って私の五感を擽る。投入されたごはんは上手い具合に解され、具材と混ざり合っていく。味付けにケチャップや塩胡椒、少しのソース。べちゃべちゃにならないよう、けれど焦げないように絶妙な火加減でチキンライスが出来上がった。皿に盛られたその形は、彼らしく美しい。
「味見しましょうか?」
「もうおなかが空いているだけでは?」
ゾルフの指摘は的確で、私はすごすごと引き下がる。
続いて卵を溶き、綺麗な形に整えられたオムレツがチキンライスの上に乗せられる。これはあれだ、食べる直前にナイフとフォークで開いたらトロッとなるやつだ。その様子を想像するだけで、口の中に唾液が溢れてくる。
予め仕込んであったデミグラスソースをチキンライスの周りに流し、オムレツの上に刻んだ生パセリをぱらりとかければ、オムライスの完成だ。何となく想像していたのはチキンライスを薄焼き卵で包んだ『お子様オムライス』だが、今目の前にある『大人のオムライス』も、なかなかどうして悪くない。というか、最高だ。自分では絶対にこんなに手の込んだものは作らないし、作れない。見た目はまるきりお店で出てくるやつだが、味も多分そんな感じだろう。
皿やカトラリーの用意くらいは手伝って、二人とも席に着いたところで食前酒で乾杯だ。彼の選んだシャンパンは、さっぱりとした飲み口で喉を潤すと共に先程からの私の食欲を更に刺激してくる。
サラダもそこそこに、私はオムライスへと手を伸ばした。ナイフとフォークでオムレツを破ると、想像通りとろりとした半熟の中身が現れた。チキンライスの上に広げ、デミグラスソースを絡めて一口頬張れば、濃厚なデミグラスソースに調和したオムライスが舌の上で踊る。早く次の一口を、と焦る気持ちを抑えたいが、スプーンでオムライスを掬う手は止まらない。なんて美味しいのだろう。見た目からの期待を裏切らない、素晴らしいオムライスだ。ゾルフが「取り敢えずこんなものですが」と出したにしては、あまりにレベルが高い。
「……参りました」
ぐうの音も出ない美味しさに、私は思わずそう呟く。ゾルフはくすくすと笑いながら、「喜んでいただけて光栄です」と自身もオムライスを食べ進めていく。彼はいつも自分で、こんなに美味しいものを作って食べているのだろうか。だとしたら、あまりに羨ましい。チキンライスの部分だけ食べても、充分に満たされた気持ちだ。
「いつもこんなのを食べてるんですか?」
「まあ、そうですね。簡単に作れますし。流石にデミグラスソースはもてなし用ですよ。あなたが誕生日だというから、特別です」
そんな風に言われれば、私だって悪い気はしない。やはりいくつになっても、誕生日というものを祝ってもらうのは嬉しいのだと気付いた。
「羨ましいです。自分でこんなに美味しいものが作れるなんて」
「料理は化学、ひいては錬金術に似ています。物質の特性を知り尽くし、反応を分析して手を加えていけば自ずと望むものが作れますよ。自分の錬金術の研究書の暗号を、料理のレシピにしている術師もいるくらいですから」
そう言われても、私にはこの味を再現することは出来ない。やはりこれは彼の才能の一つだろうと思う。
「正直言ってあんまり期待してなかったんですが……これは予想以上でした。ゾルフがこんなに料理上手だなんて、ぐうの音も出ません」
「そこまで褒められるとは私も思っていませんでしたよ。しかし、意外と悪くないですね」
「?」
「自分の作ったものを、他人が喜んでくれるというのは」
ゾルフはすっと私の頬に手を伸ばし、口元に触れた。
「ソースが付いていますよ」
「……子供みたいと思ったでしょう」
「可愛らしいと思いますよ。ただ、成人女性としては相応しくない」
微笑むゾルフの頬は、アルコールが入っているせいかほんのりと紅が差している。穏やかに笑う彼を前に、つい私はおかしな錯覚をしてしまう。喩えるなら、夫に手料理を振る舞って貰う幸せな妻。馬鹿なことを、とすぐにその錯覚を振り払おうとするが、そこは私もアルコールが入っているせいであらぬ事を口にしてしまう。
「ゾルフの奥さんは幸せでしょうね。こんなに素敵な料理を作れる旦那さまがいて」
「? 私は別に結婚してはいませんが……」
「例え話ですよ。羨ましいなあ」
「では」
「?」
ゾルフは席を立つと、私の方へ歩み寄る。
「あなたをその、『幸せな奥様』にして差し上げましょうか?」
耳許で囁かれ、肩に手を置かれる。洋服越しのその手の温度が、今は何故かとても心地いい。
だが、すぐに私は我に返り、己が何を言ったのかを反芻し弁明する。
「あっ……いや、違、そんな意味じゃなくて」
「では、どういう意味で?」
どうもこうもない、確かに台詞だけなら『そういう意味』に取れるが、本当に私は、そんなつもりで言ったわけではない。
「お、お酒が入った上での発言なので、深い意味はありません!」
「おや、アルコールのせいにするとは、あなたも芸がない。では私も酒のせいにしましょうか」
ゾルフは私の手をそっと握り、優しく微笑んだ。
「あなたを『私の幸せな奥様』にしたい」
真剣な眼差しでそう告げられ、私は言葉を失くす。そんな表情をされては、私だってどう返せばいいのか。これはプロポーズということでいいのだろうか?でも、私たちの関係はあくまで遊びというか、身体だけというか、こんな風に何か熱っぽい感情の伴うものではなかった筈だ。でも彼の言葉が不快ではない自分もいる。それはつまり、私も彼を愛しているということなのか? いやいや、雰囲気に流されてはいけない。いつものように、揶揄われているだけだ。しかし、それではゾルフのこの視線の温度の説明が出来ない。こんな風に彼に見つめられたことが、これまでにあっただろうか?
「ゾルフ、あの……」
言いかけて、突然ゾルフと私の距離がゼロになる。
「!?!!!!??!?」
私はパニックに陥るが、ゾルフはそんなことに構いもせず私を抱き締める。ぎゅっと腕に込められた力は遠慮のないもので、抜け出せそうにない。だが人肌の暖かさが、私から逃げようとする意志を奪う。何度も抱き合ったことはあるのに、今日は妙にドキドキしてしまい、この心臓の音がゾルフに聞こえてはいないかと不安になる。その一方で、ゾルフからも微かに鼓動が伝わってくる。いつもより少し早い気がして、ああ、この人もこういう時には緊張するんだなあなどと呑気な感想が頭をよぎる。
……しかし、いつまで経ってもそのまま。抱き締められたまま、彼が次に何かをしてくる気配はない。
「……ゾルフ?」
「…………」
「……寝てます?」
返事がない。代わりに、すうすうと規則正しい寝息が聞こえてくる。ああ、この人はそういえば、アルコールはあまり強くないんだったっけ。
「……仕方ないなあ」
ぽんぽんとゾルフの背を軽く撫で、彼の腕からゆっくりと逃れる。倒れないようゾルフを支えて、そのまま何とかソファへと横たわらせた。
「ベッドまでは自分で歩いてってください」
声をかけるが、ほとんど独り言なのは承知の上だ。すやすやと眠るその顔は、安らかそのものだ。
何だかんだで食べ終わってはいたので、食器を洗って伏せて置く。美味しいものを食べるのは良いことだ、生きている感じがするし、それだけで幸せな気分になれる。
……ただ、ゾルフのさっきの言葉はどう受け取ったものか? 仮にあれが本気だとして、私はそれにどう答えればいいのか。こんなに素敵な料理を作れる旦那様というのは悪くないが、何せ相手が相手。結婚生活は波乱が満ちているだろう。……結婚。たかが手料理を食べただけで、結婚まで思考が飛躍するとは、私もかなり酔っているらしい。お互い酒に強くはないのだから、食前酒はなくてもよかったかもしれない。
「……全く、私を振り回さないでください」
深い眠りに就く彼に文句を言っても、返ってくるのはすやすやと安らかな寝息のみ。私もそろそろ横になりたいが、一人だけベッドで寝るというのもなんだか申し訳ない。毛布を二枚寝室から借りてきて、一枚はゾルフに、もう一枚は私に。ソファの近くの床に座り込み、毛布に包まればそこそこあったかい。下に敷いてあるカーペットは、恐らく安い物ではないのだろう。
心地よい眠気に身を任せようと、私も目を閉じる。静かにしていると、さっきのゾルフの言葉がふと蘇る。あれはやはり、プロポーズでいいのだろうか。いつものように、揶揄われているのかもしれないという疑念が、私に本気で考えることを躊躇わせる。どう返すかと言われると困るが、ただまああのオムライスの味はなかなかに魅力的だ。毎日あんなものを食べられるというのは、きっと幸せなことだろう。東の方の国では、男性がプロポーズの際に「君に毎朝ミソシルを作ってほしい」とか何とか言うらしいし(『ミソシル』なるものがどういうものなのかはよく知らないが)、相手の胃袋を掴むのは、きっと恋愛における常套手段なのに違いない。私が胃袋を掴まれる側になるのは少々心外だが、私の料理の腕前ではきっと掴む側にはなれない。
……そろそろ眠くなってきたので、もう考えることはやめよう。私の方向性は、次に起きた時のゾルフの言葉次第だ。一人で考えていても堂々巡り。せめてと酔った彼をソファまで連れて行って寝かせてあげたのだから、次は私が、リードしてもらいたい。
終