夏の日の2人は「今年も行けなかったな、花火」
五十嵐が誰に対してでもなく、ぽつりと呟いた。
夏休みといっても特別な出来事なんてほとんどなくて、寝て、起きて、時々アイスを食べて1日が過ぎ去っていってしまう。せっかくの夏休みなら何かしたらいいのに、と思うだろう。
でも五十嵐がしたい事は何一つ叶わないのだ。だって、したいことの主語には必ず“勝平と”がついてしまうから。
肝心の“勝平”は勉強に勤しんでいる。もちろん理解はしているつもりだ。応援だって。だけどやっぱり寂しいものは寂しいのだ。世の恋人達みたいに祭りやら花火やら海やらと浮かれてみたい。来年こそはきっと。高校生から大学生に肩書きが変わっているであろう未来の2人に想いを馳せた時、ドアが開く音がした。こうしてこの家に帰ってくる人なんて、1人しかいない。
「勝平、おかえり」
「ただいま。今日も遅くなっちゃった」
何、寝てたの?と床に直に寝そべって腹の辺りに薄いブランケットを掛けた五十嵐を見て相田は微笑む。まるで夏休みの小学生みたいだ、と想像して。
「いや、花火の音聞いてた」
「花火大会今日だったよな。人やばかったぞ」
目を閉じると花火の音の代わりに、洗面所の方から聞こえる声と水音。きっといつもの愛用のハンドソープで手でも洗っているのだろう。
足音が近付いて「入れて」とブランケットの片端を持ち上げて隣に入ってくるから、左腕を顔の横に伸ばしてやると当たり前のようにその上に相田は頭を収める。居心地が悪いのか頭をぐりぐりとして場所を調整した後、結局首元のあたりで落ち着いた。髪の毛からはほんのりと外の香りがする。
「祐希、したい?」
「え、………何を?」
「花火」
「あぁ、花火ね、うん…したい」
「なんだと思った?」
表情は見えないが声色で分かる。相田は五十嵐の反応を見て遊んでいる。じゃなかったらこんなウキウキとした話し方はしないだろう。
あえて含みのある言い方をしたのはそっちだというのに、相田は「変態」と五十嵐の首筋に自分の唇を押し当てた。小悪魔め。このまま流されるのも悪くはないけど、五十嵐はもう一度声に出して言った。理由はなんとなくだ。
「花火したい。お前と」
「いいよ。じゃ、買いに行こ」
思ったよりすんなり許可が降りて、左腕の重みが消える。財布を片手に掴んだ相田はもう玄関でサンダルに足を入れていた。追いかけるように五十嵐は玄関に向かった。
夜も更けて人通りももうほとんどない。聞こえるのはどこか遠くを走る車の音と、蝉のうるさい鳴き声。時々風の音。しっとり汗をかいた手と手を繋いでコンビニの灯りを目指す。
「ついでにアイスも買おうぜ。もうストックなくなるはず」
「花火してたら溶けちゃうじゃん」
「じゃあすぐ食べる」
「賛成。ダブルソーダ」
「いや、今日はバニラバー」
ダブルソーダは駅前のスーパーが安いぞ、と教えてやるとよく知ってるなと感心されて誇らしい。
まだ高校生だというのに話す内容はなんだか所帯染みている。
人がいないからだろう、相田は五十嵐の肩に自分の頭をこつんともたれかけた。歩きにくいなんて野暮なことはどちらも口にしない。
「なんかデートみたいだ」
五十嵐の言葉に、相田は何も返さなかった。ただ繋いだ手にぎゅっと力を込めただけ。それで十分。
灯りが見えて、短いデートは一旦お預けのようだ。
花火のセットと、バニラバー2本。あとライター、レジ袋。
「またレジ袋忘れたな」
「いつも忘れてから気付くよね」
「たかが3円、されど3円」
「別に僕は買ったっていいんだけど」
五十嵐が買うなんてもったいないと何度も口酸っぱく言うものだから、最近は相田もなんとなくもったいないような気になってきてしまった。
レジ袋を片方ずつ持ってまた並んで来た道を歩く。もう片手にはバニラバー。もうすでに暑さにやられて持ち手のあたりに垂れてきている。
「お前、反対側垂れてるぞ」
「わ、やべっ」
五十嵐が手首に伝ったのを下から舐めとるのを横目で見ながら、相田は最後の一口を大きく口を開けて放り込んだ。
「花火、おひさま公園でいいか?」
「うん。でも、夜だからうるさくするなよ」
「分かってるって」
おひさま公園は2人の住むアパートのすぐ近くだ。春は桜が咲くし、夏は噴水で水遊びが出来る。秋は栗が落ちるし、冬は2人で雪合戦をした。
広い公園には2人以外誰もいなくて、静まり返っている。適当な場所にレジ袋を置いて花火セットの小袋を一つ一つバラしていく。
2人だからと小さめのセットを買ったから、すぐに終わってしまいそうだ。それでもいいと五十嵐は思っていた。
したいことリストに1つチェックを入れられること。それが重要だから。
「勝平、火つけて」
「うん」と、相田はライターに火を灯す。辺りが少し明るくなって、五十嵐の持っていた花火の先に火を寄せた。
「お、ついた」
「僕にも火ちょうだい」
相田も慌てて手に花火を持って、五十嵐の花火から吹き出る火をもらう。
「綺麗だな」
「特等席で花火見れたな」
「だね」
花火大会の花火とは大きさも全然違うだろうけど、2人で見る花火はやっぱり特別だった。
勢いがやんで、また暗くなったら水にジュ、とつける。何度もそれを繰り返した。
残すところはあと線香花火だけだ。
「ねえ勝平。勝負しよう」
「いいよ。何か賭ける?」
「いつもの」
「おう、長く出来た方が勝ちな」
いつもの、とは負けた方が勝った方の言う事を聞くことだ。
時折2人は何かにつけて勝負をして、恋人にお願いを聞いてもらう。
それは、『プリン食べたい』とかの小学生みたいなものだったり、恋人にしか出来ないような、特別なお願いだったりとその日の気分によって変わってくる。
線香花火を持って向かい合わせにしゃがみ込んだ2人は、カラフルな色のついた細い先に同時に火をつける。
小さい火の玉がくるくると大きくなって2人の顔を照らした。
相田が綺麗なのが悪い、そう思う。
そんな顔を見せられたら何かしないと失礼なような気すらしてしまう。
だから、五十嵐は何も考えずに相田の唇に触れた。
動いた拍子に、落ちてしまったんだろう。2人の周りはまた暗闇になる。
「……引き分けなんだけど」
多分、真っ赤なんだろうな、と五十嵐は思った。相田は不意打ちに弱い男だから。あと数本線香花火は残っているけれど、もうどうでもよかった。
「勝負なんて必要なかった」
「え?」
「賭けになんて勝たなくても、勝平は俺の願いをいつも聞いてくれるから」
望む事なら何でもしてやりたい、お互いそう思い合っている。もう何年も。
「……祐希、したい?」
今度はもう言い切ることが出来る。
「うん、したい。早く帰ろ」
「…了解」
なんとも色気のない返事をした恋人の手を引いて、夜の道を駆け出した。