一線を越える「ファウスト」
「何」
「呼んだだけ」
「せーんせ」
「なに」
「えへへ、よんだだけ」
「はいはい」
へべれけである。
ふにゃんふにゃんになった目の前の男に、さてどうしたものかとファウストはグラスを傾けながら内心頭を抱えている。互いに持ち寄った酒を酌み交わし、ネロの作った料理に舌鼓をうち、今日の出来事を語らう。いつものように始まった晩酌はいつの間にか空瓶が数本転がっており、そのほとんどがネロの胃袋におさまっている。
「せんせー?何かんがえてんの」
テーブルに頬をぺたりとつけ、酔いで少し潤んだ瞳をファウストに向ける。
正直かわいい。ものすごくかわいい。抱っこして抱き締めてひたすらに撫でていい子いい子と甘やかし尽くしたいくらいにかわいい。
普段年長者らしく振舞う彼が、ファウストの前ではご機嫌を隠さずにこにこと相好を崩し、テーブルの上に置かれたファウストの手を握ったり指を絡めたりして遊んでいる。アルコールで少し火照った体温がじわりと移るたび、ファウストの心もじわりと少しずつ焼けていくのだった。
ファウストは、ネロのことが好きだ。そういう意味で。
ネロもファウストのことは憎からず思ってくれているだろうという確信があるし、時折晩酌をする今の友人としての距離感も心地よいから、この先に強引に進もうとは思わない。むしろネロに好意を伝えるつもりすらなかった。己の中で芽生えた得難い感情として、大切に、きれいな箱にしまっておくつもりだった。
けれども最近、ネロがファウストに対して隙を見せることが増えた。用心深い彼が見せる隙はそのまま信頼であり、甘えだ。腹を見せる動物のように無防備な姿を晒して甘えられると、たまらない気持ちになる。伝えるつもりのなかった感情が入った箱を、ネロに、少しずつこじ開けられている。
「きみがかわいいなと思って」
「んー?俺が?かわいい?」
ファウストは絡みつくネロの指を優しくほどき、そのままネロの頬を手の甲で撫でた。かわいいよと告げてやれば、じゃあ先生のせいだな、なんてふくふく笑う。アルコールに浮かされた吐息が秘め事を告白するように落とされる。
「先生がいっぱいかわいいって言ってくれるから俺、かわいくなっちゃったなあ」
──とろけたように零れる笑みの可愛さといったら。
ファウストはくらりと眩暈を起こした。椅子から倒れなかった自分を褒めてやりたい。なんなんだこのかわいい生き物は。ネロか。ネロだ。
そもそもネロがこんなにかわいいのが悪いのであって、自分は悪くないのでは?とファウストは段々腹が立ってきた。もういっそ、君の目の前にいる男は君に対して不埒な感情を抱いているのだからそんな無防備にかわいい姿を晒すんじゃない、と釘を百本くらい刺してやろうか。
「なあ、せんせ」
悶々と思考に沈むファウストの意識を、甘えたネロの声が引き戻す。頬、頭から顎下までと猫を愛でるように撫でてやれば、心地よさそうにファウストの手にすり寄る。
「なに」
「かわいい俺は好き?」
「……好きだよ」
「……もっとかわいくなったら、もっと好きになってくれる?」
ぴたりと撫でる手を止める。ネロを見れば、期待に染まった眼差しでファウストを見返してくる。
──期待、されている。
気付いてしまったらもうファウストの負けだった。箱の鍵を壊されて、押し留めていた感情が一気に濁流となって身体中を駆け抜ける。ごくりと唾を飲み込んだ。獣のような衝動に、知らず声が低くなる。
「……可愛くしてほしいの?」
手を顎にかけ、く、と上向かせる。ゆっくりと唇をなぞるファウストの親指を、ネロはちろりと舐めた。酔いと、別の熱に揺れる黄金色の双眸。それが返事だった。