1足す1は無限大の朝は晴れていた。昼過ぎから雲行きが怪しくなり、帰宅時間には強風も加わった横殴りの激しい雨に変わっていた。傘を差しても意味など無く、電車に乗れば誰かの濡れた傘が当たってスラックスはぐっしょりと変色している。足元をよく見ている余裕も無いからもう気にするまい、と水溜まりを無視してばしゃばしゃ歩いた革靴は見事に靴下まで浸水し、能天気にもきゅぽんきゅぽんと鳴き声を上げる始末である。
まったく。華金なのにツイていない。
不機嫌なわけでも、怒っているわけでもないけれど、週末直前の定時あがりの喜びは風に吹かれてとっくにどこかへ消えてしまっていた。
鞄から鍵を出し、ロックを解除してドアを開けて。
左手側にスイッチがあるから電気を点けて。
靴下は玄関先で脱いでしまおう、床を濡らさないように脱衣所からタオルを持ってこないと。
革靴がダメになるからまだ出していない新聞紙を詰めて。
身体も冷えたから湯船につかりたい。給湯予約をしよう。
それから、それから。
「…………」
がさがさと無駄に鞄を漁る音を立てながら考えていたやることリストを、結論から言えばネロはなにひとつやらずに済んだ。
玄関はやわらかい灯りでネロを迎え、足元には大きくふかふかのバスタオルが敷かれている。靴箱の上には数日分の新聞がご丁寧に一面ずつほぐされた状態で積まれている。
「ネロ?帰ったの?」
大雨で大変だったろう、丁度強い時間にあたったみたいだね、言ってくれれば迎えに行ったのに。
向こう側から穏やかな声が聞こえる。ネロは至れり尽くせりの目の前の現状をぼんやりと見つめた。
「靴はすぐに新聞を詰めるように。鞄も拭いてから……おい、スーツもずぶ濡れじゃないか」
リビングに繋がる扉からひょこりと出てきたファウストは、先日買った長袖の上着を着ている。冷房にあまり強くないファウストにとネロが買い、じゃあきみにもと色違いを何故か買い与えられたお揃いの上着だ。スリッパの音がぱたぱたと近づいてくる。
「湯船にお湯もはってあるから、あたたまっておいで」
おかえり。やわらかく笑む目の前の人の存在に、目の奥がじわりと滲んでくるのが分かった。
ひとりだから得られるもの。ひとりでは得られないもの。
ファウストと暮らすことを決意した時、ネロはそれまで築いてきた、独りでこそ得られる沢山の尊いものにさよならをした。自由、気楽さ、静かな孤独……。それはネロにとって、とても、とても勇気のいることだった。
『……一緒に住む?』
きっかけを差し出したファウストはその勇気を誰よりも理解しているし、応えなければならないことも自覚している。独りで生きてきたし、独りで生きていくことができる人間同士。パズルのようにぴったりと隙間なく重なりあうばかりではないことも分かっている。
二人で暮らすようになって、埋め合わせるように、あるいは溢れるほどの大切なものを貰っているとネロは思う。喧嘩もするし、偶には独りが恋しくなるけれど、一度味をしめてしまった心はもう、ファウストがいないと物足りなさに暴れてしまうようになった。
他の人だったら。他の女だったら。きっとネロは、誰かと過ごす日常がこんなにも甘やかなものだとは感じなかった。記念日でもない、むしろ普通の日よりも少しだけアンラッキーな日に、頑張ったごほうびのデザートみたいな愛おしさをくれる。寄り掛かって依存するでもなく、全く必要とせずに独立するでもなく。大丈夫?と互いに優しさで寄り添いあう、木漏れ日のようなあたたかさ。
「ネロ?ぼんやりしてないで、早く入ったら」
「……………ふぁ、」
「ん?」
「ファウストぉ~……」
「なに、情けない声出して」
「好き…………」
雨の雫が滴るままで、ネロはファウストにひしと抱き着いた。玄関には少し段差があるから、今は廊下に立つファウストの方が高い位置にいる。彼は片手に持っていたのであろうタオルでネロの髪をふわりと覆い、くしゅくしゅと水気をとりながら旋毛に唇を当てた。
「知ってる」
僕も好きだよと答えてくれる人がいる家で、今日もネロは生きていく。ふたりになってファウストがくれたものと、ファウストその人を抱き締めて。