生命讃歌昼下がり。可愛いものがいそうな気配を感じたファウストは、キッチンに用意されていた小魚を持って魔法舎の裏庭へ向かっていた。ぽかぽかと温かい陽気に数匹昼寝しているかもしれないな、と密やかに心は浮き立つ。
「……ん?」
目当ての場所には求めた数匹はいなかったが先客がいたようで、しゃがみ込んで何かをしている。微かに聞こえる音は水音だろうか。近づくと、さくりと地を踏んだ足音に気付いた彼が振り向いた。
「お、先生」
「ネロ」
何をしているのかと手元を覗き込むと、大きなたらいの中に一杯にはられた水と、何やら小さな毛玉がネロの手に包まれてもぞもぞとうごめいている。ぺしょりとへたれた毛が水面でゆらゆらとなびき、濡れた毛の合間からくるりと丸い目がファウストを捉える。目敏く小魚に気付いたのか、にゃあん、とねだるような鳴き声をあげた。
「子猫?」
「うん。迷い込んできたんだろうけど、どこをどう通ったらそうなるんだ、ってくらい泥まみれ草まみれでさ」
だからこうして洗ってやってんの、と泥で濁った水を魔法で浄化しながらネロは答えた。冷たさに驚かないように、熱で火傷をしないように、たらいの中はほこほこと人肌程度のぬるま湯で満たされている。洗われるのを嫌がる猫が多いところ、この子猫は大人しくネロの手に身を委ねており、時折くぁ、と欠伸さえ零している。安心しきっているのだろう。お前白い毛してたんだなぁ、とのんびり話しかけるネロは穏やかな顔つきで再び手を動かし始めた。
腕まくりを普段より少し上まで上げ、跳ねた水でエプロンを転々と湿らせながら猫を洗うネロを、ひとつの疑問と共にファウストは背後からじっと見つめていた。
「……魔法を、」
「ん?」
「そうして生き物に触れる時、魔法を使わないな、と。ネロはいつも、ネロ自身の手で触れるのだなと思って」
いくら泥んこの猫とはいえ、魔法を使えば一瞬で汚れを落とし、綺麗な状態に整えることができる。自身の手を汚さずに済むから、魔法舎にいる他の魔法使い達のほぼ全員がそうしただろう。けれどネロは、それをしない。どうして使わないの、というファウストの隠した問いを正しく拾ったネロは、耳の裏にこびり付いた泥をこしょこしょと丁寧にかき取ってやりながら、ううん、と唸った。
「魔法が手抜きとかズルだとは思わないけどさ。何というか……命に触るのに、一足飛びにスキップしたくないというか。できる限り手を抜きたくないというか」
ネロは料理にも魔法を使わない。切り身になっても、収穫された物言わぬ緑であっても。この世界に生まれ、育ったものはみな等しく生命だと、触れる手はどこまでも丁寧で、敬意を失ったことはない。今、ファウストの見ているところで子猫を洗う手付きは優しく、目の前の小さな生命のぬくもりへの慈愛が込められている。
生命に真摯に向き合うその姿勢は、魔法使いという超然たる存在だったとしても、同じ地に生きる等しい生命なのだと相手に訴え、自分に言い聞かせているようで。ネロの、いじらしさと少しの切なさの混じり合った不器用な心が垣間見える。
「風邪ひかれても困るから、さすがに乾かすのは魔法使うけどな」
美しい白毛を取り戻した子猫の身体をネロは魔法でひといきに乾かしてやった。一瞬の出来事に驚いた様子を見せるも、すぐに順応したらしい子猫はごろごろと喉を鳴らしてネロの手にじゃれついている。可愛いな、とネロは子猫を優しく撫でている。
──いいな。
「ファウスト?」
ファウストはネロの隣にしゃがみ込むと、すす、と身体を寄せた。ぴたりとくっついた二人の影は隙間なく地面で寄り添っている。
「……僕にも、その手で触れてくれないか」
帽子を外し、そのまま頭をネロの肩にこてんと乗せる。
慈愛を込めて、敬意を込めて。ネロの手に触れられている子猫を見て、いいなと思った。羨ましいな、とも。あんな風に優しく触れてほしい。こんな自分の命さえかけがえのないものに思わせてくれるような、包み込むような情で触れてほしい。ネロの手が恋しい。
ちら、と覗き見たネロは思った通りに目を少し見開いて驚いているようだった。
「なーに、珍しい」
ぱちぱちと瞬きをしたネロはやがて目尻を柔らかく下げ、ファウストの頭をゆっくりと、丁寧に、慈しむように撫でた。
生命の尊さを知る手は、どこまでも優しく、温かい。そのぬくもりに身を委ねるようにして、ファウストはそっと目を閉じた。