夏夜の羽化湿気をはらんだ生ぬるい夜の風がネロの頬を撫でる。待ち合わせ場所の川沿いの土手で、ネロは下駄を履いた足をぷらぷらと遊ばせていた。
白地に勿忘草、紺碧、薄浅黄の朝顔が描かれた上品な浴衣に、きりりと引き締めるように目を惹く濃紺と黄蘗色の帯。藤色の飾りがついたかんざしで髪を纏め、ネロが動くたびにちりんと揺れる。今日のネロは随分と背伸びをした。
ファウストは大人の品格があって、かっこいい。ネロより年上なのだから当然だと言われてしまえばそうかもしれないけれど、いつも落ち着いていて、服装や持ち物も品の良いものばかり。そんなファウストと一緒に歩くのだからどうしたら大人っぽく見えるかなとバイト先の店主に相談し、うんうん悩んでこれに決め、着付けまで手伝ってもらいながら直前になってやっぱり似合わないかも、とお腹を痛くした。貴女はもう少し自分に自信をお持ちになりなさい、と笑って送り出されたものの、元々自己肯定感は高くないネロのこと。久々の逢瀬に早く会いたいと急く心と、うじうじ悩む心が綱引きをしている。
はぁ、とため息をつく。少し離れて祭の賑やかな歓声と灯りが見える。なんとなく、今のネロにはその灯りが眩しすぎる心地がした。
「……ネロ」
耳に馴染んだ声がネロの名前を呼ぶ。からん、と下駄の音がした方をネロは振り向いた。
墨色の浴衣に、角帯は白鼠色の献上柄。帯に合わせた色合いの京扇子。決して派手ではない、だからこそ品格がより感じられるファウストの装いに、ネロは釘付けになった。
「随分早いな、暑かっただろう。待たせてしまってすまない」
「……」
「ネロ?」
「…………か、っこいい……」
どうしよう。ものすごくかっこいい。
すぐ傍まで来たファウストにぽう、と見惚れてしまう。いつも掛けている眼鏡も外して、良く見える紫の瞳が夜闇の星のように瞬いている。その瞳に見つめられて、ネロの顔は暑さのせいではない火照りを帯びていく。
「似合う?」
ネロの反応にくす、と笑ったファウストは、小首を傾げてネロに訊ねる。その一挙一動にすらネロの心臓は跳ね、こくこくと頷くことしかできない。そんな態度にもファウストはそう、と嬉しそうに笑うのだ。
「良かった。きみとのデートだから、僕だって気合いの十や二十くらい入っていてね」
せっかくだからこの浴衣も一から仕立ててもらった、と珍しく照れたように白状され、ネロはきゅんと心を締め付けられた。大人なファウストも、自分と同じようにデートに浮かれて気合を入れてくれた。そのお揃いが、とても嬉しい。
「そうなの?……えへへ、嬉しい」
当然、と頷いたファウストと目が合う。常に涼やかな表情は、常と異なるネロの装いにうっとりと蕩けている。見ているだけで口の中に甘さが満ちてくるような表情で、ファウストはネロを見つめている。
「きみも、よく似合っているよ。ネロはいつも可愛いけど、今日のきみは上品で、大人っぽくて、とても綺麗」
その帯の色合わせもいいね、とファウストは聡明な光をたたえる目をゆったりと細めた。
「襲色目と言って、古くは四季に応じた配色があってね。所説あるけれど、青に黄は女郎花と言う。女郎花は旧暦の秋、つまり今頃だ。季節に合った素敵な装いだよ」
正直ネロはそこまで深く考えたわけではなかった。濃い色に、ちょっと差し色があると素敵かなという程度の気持ちでこの帯を選んだのだ。ファウストが思いがけず褒めてくれたのが嬉しくて、ふにゃんと頬が緩むのを止められない。
「難しいことは分かんないけど、ファウストが褒めてくれるなら嬉しい」
「少しくらいは難しいことにも興味を持ちなさい」
くすくすと笑い合うこの時間も愛おしい。先ほどまで燻ぶっていた悩める心はどこかに吹き飛び、眩しく見えた祭の灯りが早くおいでと誘うように魅力的に映る。ころころと下駄の音を合わせて、普段と違う装いで、ほんのちょっとだけ羽目を外して。そんなことが許される、特別な夜に心が躍る。
「……ネロ」
ふと、ファウストから笑みが消え、真面目な顔つきになった。何だろう、と見上げると、夏でもひやりとしている指先がネロの顔に触れ、す、とファウストの顔が近付く。
「(……き、キスされる……!?)」
反射的にネロはきゅう、と目を閉じた。何も見えない世界で、心臓がどきどきと早打ちする音が盛大に聞こえる。ファウストの呼吸がふ、と顔にかかる。唇に何かが触れる感触だけがいやに敏感に感じて、ネロは心の中で神様!と叫んだ。
「……はい、いいよ。そんなに顔を強張らせなくても」
苦笑交じりに告げられた言葉に、へ、と呆けた声が出てしまった。ぱちりと目を開くと、ファウストの指先にほんのりと赤い紅が乗っている。
「口紅。少しはみ出ていたよ」
「…………!?」
悪戯っぽく笑むファウストに、ネロは乙女の純情を遊ばれた!と怒りが湧いた。が、それ以上に、気合いを入れて臨んだ化粧が崩れたままファウストの前にいたのだという羞恥が上回り、ネロはついに顔をぽん、と赤らめた。
「え、うわ……恥ずかしい……」
「近くで見ないと分からないくらいだったから、大丈夫だよ」
ファウストはネロの頭を撫でようとして、アップに纏められた髪に顔を綻ばせている。髪型を崩さないようにかんざしを指で揺らし、僕の色だねと呟く。こっそり入れた彼の色に気付いてもらえて、ネロはまた嬉しい心を積み上げた。
待ちに待ったファウストとのデート。それも、夏祭りで。忙しくてなかなか時間が合わなくて、やっと二人で出掛けられる時は、やっぱり少しでも可愛くいたい。もっと好きになってもらいたい。普段は奥手で自己肯定感がちょっぴり低いネロの健気な恋心を、ファウストはくすぐったい愛おしさで受け止めている。
「今日はいつもより大人の色気を出して、ファウストをめろめろにする予定だったのに」
「可愛いネロにもう十分めろめろだよ。……でも、そうだな。大人の色気も加えるなら、どうか少しずつにしてくれ」
どうして、と無垢に問いかけるネロの頬についと手を滑らせ、そのままくん、と顎を上向かせる。
上品な和装。アップに纏められた髪と、露出した項に揺れる紫。控えめに煌めくアイシャドウに、涼やかに引かれた濃紺のアイライン。火照ったように艶めく口紅。
可愛い恋人は、可愛いばかりの蛹を脱ぎ捨てようとしている。
「急に綺麗になられると、僕の心臓がもたないよ」
振り向いた時、心臓止まるかと思った……末恐ろしい子。
口紅がよれることなど意識の外に放り出して、今度こそ唇を重ねた。