どんなきみでも好きだけど、「……顔を上げなさい、賢者」
地面にめり込まんとする勢いで土下座をする賢者。そして隣にはきょとんとした顔の幼子。
今日は講義も訓練も依頼も無く、文字通りの休暇を部屋に引き籠って過ごすはずだった。
予定とはかくも上手く運ばぬものか。やれやれとファウストは頭を振った。
「ふぁ?」
「ファウスト、だ。言ってごらん」
「ふぁ、と?」
「ファ、ウ、ス、ト」
「ふぁーすと!」
「ああいい子だねよく言えた偉いぞまったくなんて可愛いんだおいで撫でてあげよう」
「いやノリノリのメロメロじゃないですか」
そういうの即堕ちっていうんですよ、と賢者が生ぬるい視線を向けるのも気にせず、ファウストは目の前の小さな身体を抱き締めた。
座ったファウストの腕の中にすぽりと収まってしまう子供体温。ふくふくと柔らかく、どこか小麦の甘い香りのするこの幼子はまごうことなきネロ・ターナーである。ムルの悪戯に巻き込まれかけた賢者を勇敢にも庇い、このような愛らしい見目に変わってしまった。因みにムルは今頃シャイロックの元で再教育を受けている頃合いである。
「ふぁーすと、」
名前を呼べるのが嬉しいのか、にへ、と屈託のない笑顔をファウストに向けているネロは齢六百の東の魔法使い最年長とは到底思えない。カトラリーを持つことすらきっと覚束ないほどの小さな手は、ファウストの手や服の装飾を弄って遊んでいる。
「……出会ったのが身体の成長が止まったネロで良かった……」
「どうしてですか?」
「可愛すぎて出逢っていたら間違いなく攫っていた」
「ファウストが誘拐犯にならなくてよかったです」
危ない会話が繰り広げられていることなど露知らず、ネロは無垢な瞳を二人へ向けている。
「はぁ……可愛いなネロ……きみはいつも可愛いが小さくなってもこんなに可愛いなんてやはり可愛いの天才だ……」
「ファウスト、しっかりしてください。そんな姿を他の魔法使いに見られたらどうするんですか」
「その心配はないだろう」
それまで小さなネロの一挙一動にぞっこんでろでろだったファウストは、凛とした常の声色と表情を瞬時に戻して賢者に向き直った。膝にはネロをしっかり抱え、よしよしと頭を撫でる手は止まることを知らないまま。
「僕が今日は部屋に引き籠ると君は知っていたから、ネロを他の魔法使いの目から隠せると判断したのだろう」
「……はい。本当に邪魔をされたくない時は、部屋ごと意識の外に出す結界を張ると言っていたので」
「よく覚えていたね、そんなこと」
「覚えていますよ。この魔法舎で皆さんと交わした言葉ですから」
当然でしょうと笑う賢者にふ、と称賛を込めた笑みがファウストから零れる。こんな珍事件ばかりのこの世界で、賢者はよくやっている。
「それはそれとして可愛いネロを僕の元に連れてきたことには礼を言う」
「やっぱりそっちか!」
「……そろそろ効果が切れる頃合いだな」
ムルの悪戯と言っても賢者にかけようとした程度なら数分の効果だと、ファウストはどんな状況でも事態を正しく判断することを怠っていない。流石東の先生!と称賛の眼差しを向けられることにも、徐々に慣れてきた。
──さて。先生ならば、この後羞恥に埋もれる生徒のケアをしてやらねば。
「賢者、すまないがムルの様子を見てきてくれないか」
よいしょ、とファウストが膝に乗せていたネロを横向きに変え、不思議そうな顔をする頭を大丈夫だよとひと撫でしてやる。
「もしシャイロックが手厳しくやりすぎているようなら、もう元に戻ったからと止めてやってくれ」
「分かりました、任せてください」
それじゃあ後はお願いしますね、と賢者がファウストの部屋の扉を閉めたと同時。
ぽんっ。
「…………」
「うん、やはりな」
小さい身体が光に包まれて一瞬強く発光したかと思えば、元の姿に戻ったネロが目を白黒させていた。数秒遅れてファウストの膝で横抱きにされている状況に気付くと、さっと顔を青く引きつらせる。次いで諸々の記憶を認識し始めたのだろう。世界中の羞恥を今まさに集めましたとばかりに顔を赤く染め、遂に顔を手で覆って唸り声を上げ始めた。青くなったり赤くなったりと忙しないやつだ。頭から湯でも沸かしていそうな程の湯気を立ち上らせている。
「どこまで覚えてる?」
「…………ぜんぶ……」
「ふふ、そう」
「賢者さん、気ぃ遣って出てったよな……」
「そうだね」
ゔわぁ、と恥ずかしいやら申し訳ないやらと色々な感情をぐるぐるとかき混ぜているらしいネロを、よしよしと宥めるように撫でてやる。
「明日の食事は賢者のリクエストを聞いてやるといい」
顔を上げられずにうんうん唸っているネロの手を片方ずつゆっくりと剥がした。
ぷくぷくと柔らかい肉に包まれていた指は、節くれだった成人男性の指に戻っている。
ふくよかでまろい手の甲は血管の浮き出たものに。
しっとりと柔らかな手のひらは水仕事で少し荒れた所々硬いものに。
ネロ、との呼びかけにちらりと向けられる双眸は変わらず美しいシトリンの輝きを湛えているが、重ねた年月の分、より輝きが深みを増している。
降ろして、と懇願する身体はずっと物足りなさを抱えていた重みを確かに感じる。
──あぁ、戻ってきたな。
「やっぱり僕は、今僕の目の前にいるネロが好きだよ」
戻らぬ過去のきみよりも、これから未来を共に過ごすきみがいい。