きみと幸せ目をぱかりと開く。
見慣れた天井が明るい。朝日が入り込む窓のカーテンが半分閉められていることに、まだ眠りの淵にいた僕が眩しさで起き出さないようにという優しさの欠片を感じる。
隣に空いた空間は彼の人が既に起きていることを告げており、扉の向こうからそんなに上手くない鼻歌に混じって一日の始まりを知らせる音がする。
とんとん、かぱり。かちゃかちゃ、じゅわ。
漂い始めた香りにすん、と鼻をひくつかせると、空っぽの胃がくぅと鳴いた。腹を撫でて宥めてやりながら、寝室の扉を開けた。
「あ、おきた?」
着の身着のままぺたぺたと近付くと、おはよとネロが黄金色を細めて振り返る。着替えも髪を整えることも魔法ですぐにできるのに、それすらせずにいる僕にネロは何も言わない。息苦しくないように、心地いいようにいてくれれば、だらしなかろうがなんだっていいよと言う。さっぱりとした手の抜き方は好ましくて、時折お言葉に甘えさせていただいている。
いつも通りのエプロン姿は髪もきっちり結えられていて、朝の気配に満ちている。一方でちらりと見えた耳の裏に残る痕に昨夜の残り香を感じ取り、少しどきりとした。
もうちょっとでできるよと言う背中にくっつき、肩に顎を乗せて手元を覗き込む。伸びてきたネロの片手に手櫛で髪を梳かれながら、もう片方の手がフライパンにぱこりと卵を落とす様子をじっと見つめる。
「……器用だな」
「ん?なにが」
「たまご」
なんでもないように片手で割ってみせたが、僕は片手で卵を割れない。世間一般の人のほとんどが片手で割れないだろう。本当はとてもすごいことをさらりとこなしてしまう手を英雄の手のように恭しくとると、指先につやりと白身が残っていたのでそっと拭ってやった。
「片手で割るの、すごい?」
「うん、なんかかっこいい。僕も練習しようかな」
「えー、やだやだ。俺にやらせてよ。俺が片手で割るたびにかっこいい、って俺のこと好きになって」
なんだそれ、もうとっくに愛しているよと吹き出した。
卵を片手で割れること、猫用の水飲み皿の隅を洗うのが上手いこと、満タンに水を入れた如雨露を一滴も水を零さずに植木鉢まで運べること。
百合の紋章が消えてから百年、穏やかな隠居暮らしに行き着くまでもう数百年。辿り着いた先で見つけたささやかで素朴な美点の数々は、何度だって僕を恋に落とすには十分だった。
そうして何度も落ち続けた恋がやがて愛に変わった頃、僕達はひとつ屋根の下で暮らし始めた。
時々思い出したように照れてしまうけれど、ネロは、好きも愛してるも当たり前のように発して、当たり前のように受け入れてくれるようになった。それを告げた時はやっぱり照れてしまったけれど、「ファウストから愛されてる自信がついた」なんて柔らかくはにかむものだから、たまらなくなってネロを思い切り抱き締めたことを覚えている。初夏、日が傾いた夕刻の麦畑での出来事だった。
──そんなことを思い出しているうちに、フライパンの上ではガレットが美しく焼き上げられていく。真ん中に落とされた卵の黄身がてらりと光って美味しそうだ。ぐぅ、と急かすようにまた腹が鳴く。
「おー、いい音。ありがとな」
「どういたしまして。おなかすいた」
数え切れない程に食べた好物は、数え切れない程に食べても飽きることがない。いつ口にしても「こんなに美味いものがあるなんて」という感動を味わえるのは、きっと幸福なことだ。擦り切れる程の年月を重ねても、その幸福を飽きることなく味わいたい。
──きみとなら、味わえる。きみがいれば。
むっちりと張りのある黄身につぷりとナイフを入れる瞬間を想像する。とろりと溢れ出たそれは、確かな幸せの色をしている。